1.JAMについて
ただいまご紹介いただきました芳野と申します。
私が所属しているJAMは、Japanese Association of Metal(金属), Machinery(機械), and Manufacturing(ものづくり)Workersの略です。金属機械産業の産業別労働組合です。JAMには、皆さんの身近なところでは、セイコー、ニコン、横河電機、ダイキン工業、クボタなどの金属機械産業の企業の組合が加盟しています。私はその中のJUKI労働組合におります。今は組合の専従として、副中央執行委員長をしています。
2.JUKI(株)の概要
現在の社名はJUKIですが、以前の社名は、東京重機工業(株)でした。もともと、戦前は鉄砲を製造していたことから、重い機械、重機という漢字を使っていたと聞いています。戦後は鉄砲を作る技術を応用して、ミシンを造るようになりました。
JUKIの主力製品は工業用ミシンです。これは、衣類や車のシートカバーなどを縫製する専用機で、家庭用より大型のミシンだとお考えください。そのため、メインの顧客は縫製工場です。もちろん、家庭用ミシンも造っています。その他産業装置として携帯電話などに使うチップを装着する半導体を造っています。
ミシンというと、女性が多い企業というイメージがあるかと思いますが、実は、JUKIは男性中心の企業です。取締役はもちろん、管理職もほぼ男性ですし、組合員も圧倒的に男性が多いです。女性社員の比率は、12~16%の間を推移しています。1986年の男女雇用機会均等法の施行以前は、結婚退職、出産退職が当たり前という企業風土でした。ただ、それも均等法を境にして、大卒女性の採用が増えかなり変わってきたなと感じています。
3.JUKI労働組合の概要
組合員数は、本社と研究開発のみで、ここでは製造現場はカウントしていません。バブル崩壊以降、円高の影響でJUKIも倒産の危機がありました。そこで、一旦工場部門を分社化し、昨年また本社に統合するという経過がありました。それにあわせて、組合も現在、再統合をすすめているところです。
組合員数は633人で、女性組合員が111人、男性組合員が522人です。2007年度の平均年齢は、男性が42.3歳、女性が37.2歳、平均では41.4歳です。年齢は、女性の方が男性に比べて上がってきています。つまり、現在では辞める女性たちがいなくなっているといえます。
平均勤続年数は、男性が18.1年、女性が14.4年、平均17.5年です。勤続年数も女性の伸び率が高くなっています。
4.JUKI労働組合との出会いとこれまでの取り組み
(1)就職時の面接試験
私は、学生時代、自分は企業に入って勤めるということは全く考えていませんでした。小さい頃からバレエを習い、将来はその方面に進みたいと考えていました。一方で、23歳くらいで結婚をして、25歳くらいで第1子を産み、27歳くらいで第2子を産むという人生設計を考えていました。すでにその計画はもろくも崩れてしまいましたが。
就職する時もJUKIがどういう企業なのか全く知らず、担任の先生から先輩達が大勢入社しているのでどうか、と勧められたのがきっかけでした。それでも、面接試験では、入社したらどんな仕事がしたいか、必ず聞かれるからきちんと答えられるように、と指導を受けて、私は非常に緊張して面接に臨んだのです。
ところが、面接会場に入ると、人事部長から開口一番に「いやぁ、芳野さん、今日は踊ってほしかったんだよ。」と声をかけられました。実は、私の経歴の中に、バレエを習っていてバレエ協会に氏名登録されており、いくつかのコンクールや舞台を経験していることが書いてあったので、そのことについていきなり声をかけられたのでした。
このように、仕事とは全く関係のない話の中で面接が行われ、それでもどういうわけか採用試験に通り、JUKIに入社することになりました。
(2)新入社員時代
企業に入りますと、まず、新入社員教育が始まります。女性は、電話の取り方や名刺交換、お茶の出し方などの接遇教育が中心でした。一方男性は、製造現場に入って、組立や溶接などを一通り経験していきました。現場実習が終わると、今度は企画部門に行ったり、全国の営業所を回って上司と一緒に縫製工場に行ったりしていました。要するに男性は、実際の仕事に根ざしたことを教育課程の中でやっていくわけです。
このように、男女で研修カリキュラムが全く違う中でのスタートでした。しかし、私はその当時は、そのことに何の疑問も抱かず、むしろお茶汲みやコピー取りといったサポート的なことは、女性の役割だと思っていました
新入社員教育が終わり、私は家庭用ミシン事業部に配属され、そこで在庫管理の仕事を任されました。在庫管理というのは、全国の支店営業所から売上伝票が上がってきて月次の売上処理をし、在庫数があっているかどうか検証する仕事でした。仕事は1ヶ月単位のもので、覚えてしまえば非常に単純でした。
しかし、このような簡単な仕事でも何の疑問も持ちませんでした。むしろ、学生時代からバレエで半日以上体を動かしていたので、1日中パソコンと向かい合うデスクワークに非常に苦痛を感じました。そのため、しばしばトイレに行っては体を動かしたりして時間をつぶして、また机につくというような感じで、今思い起こすと、非常に態度の悪い社員だったと思います。
(3)労働組合との出会い
入社から1年が経ち、後輩が自分の職場に入ってきました。後輩の新人男性たちは、配属後も支店営業所に出向いて、営業の仕方や、実際に家庭を訪問して家庭用ミシンの使い勝手を説明したり、ニーズを聞いたりなど、一通りの仕事をやらされていました。配属後半年くらいかけて、事業部の中で企画、営業、人事、経理を経験し、最終的に正式配属が決まるしくみでした。
私たちの時には、配属の時からすでに何々係と決まっていました。配属後も、受け持つ仕事や職場での役割に男女で差があったのです。しかし、どこの事業部でも同じような状況だったので、これまた何の疑問も持ちませんでした。
実は、ひょんなきっかけから労働組合に関わることになりました。当時私は組合員でしたが、恥ずかしながら委員長の顔も覚えていませんでした。私はJUKIバレーボール部のマネージャーをやることになり、そのバレー部の部長だった組合の委員長に挨拶にいきました。すると「俺のところに挨拶に来るのは珍しい」と、それがきっかけで組合の専従にならないかと、声をかけられました。たまたま、前任の専従の女性が退職することになり、後任を配置したいということだったのです。
どうしたらよいか、当時お世話になっていた人事の方に相談したところ、JUKIの中で女性が職場異動の対象になるのは珍しいから、受けてはどうかと言われました。たしかに先輩の女性は大勢いましたが、誰一人として入社後仕事を変わった人はいませんでした。自分はこの先ずっと、非常に単純な在庫管理の仕事を続けていくことはできないと思い、それなら気分転換の意味も込めて、組合の専従になってもいいかなと判断しました。このように、軽い気持ちで組合に足を踏み入れることになったわけです。これが組合と私の出会いでした。
(4)専従書記時代
最初は専従書記という立場で、執行委員が作る資料のコピーとりや会議のお茶出し、また、事務所に来る組合員の様々な福利厚生関係の手続き、といういわゆる窓口的なことをしていました。シンプルな仕事でしたので、すぐに飽きてきました。
同期の仕事ぶりを見てみると、残念ながら、女性は変化がありませんでしたが、男性は語学研修や海外研修、パソコン研修など、少しずつキャリアアップの仕事が実践されていました。そのため、入社後4、5年経つと評価に差がでてきます。私はあまり深刻には考えていませんでしたが、それでも、自分の気持ちのどこかに、自分だけが組合専従で単純な仕事をしていることに対して、だんだん焦りを覚え始めました。
そこで、もっとやりがいのある組合活動ができないものかと、役員の人たちに相談しました。すると、労働組合は職場の人たちの利益代表なのだから、相手がどんな人であろうと一切関係なく、組合員の声を聞かなければいけない、仕事は自分で探すものではないか、と言われました。私は、専従書記という立場で、なるべく多くの声を自分で拾い集めて、組合員のパイプ役として何かできないかと考え始めました。
(5)職場での男女差に対する疑問
ある時、同期の女性が相談に来ました。当時、残業規制があり、既婚男性と独身女性とで対応に違いがありました。この対応の違いに疑問を持った女性組合員が相談にきたのです。
それを聞いて、私もそれは納得がいかないことだと思い、当時の書記長にその意見をあげました。すると書記長は、「A係長は妻子を養っていて生活が大変だから、それは当然ではないか。」と言うのです。私は、同じように残業をしていながら、それぞれの個人的な事情で勝手に判断がされるのは、やはりおかしいと思いました。しかし、私がおかしいと思ったことが、当時の男性役員には男女異なる扱いについて、全然響いていなかったわけです。
労働組合というのは、組合員のどんな些細なことでも意見を聞き、問題解決していく、たとえ解決出来なくともきちんと説明責任を果たすべきだと、日々言われていました。にもかかわらず、その女性組合員の意見については、「それは仕方がないこと」と流されてしまう。当然、彼女も私も納得できませんでした。組合は、いつも言っていることと、やっていることが違うではないかと感じ始めました。
(6)JUKI労組初の女性中央執行委員~育児休業制度の導入
1986年に男女雇用機会均等法が施行され、JUKIでも女性の採用が増えてきました。組合にも女性役員が必要だということで、1988年に私は中央執行委員になりました。JUKIでは、それまで中央執行委員は20名全員男性でしたが、私が入って19対1の割合になりました。組合始まって以来の、初めての女性中央執行委員の誕生でした。
多くの組合員は、女性役員が入ることで何かが変わるのではないかと、非常に期待が高く、私は最初軽い気持ちで引き受けたものの、だんだんポストに就いたことへのプレッシャーを感じるようになりました。何とか実績を残さなければ、という焦りの中で、私が中央執行委員会で最初に問題提起したのは、育児休業制度の導入でした。
育児休業法は1992年に施行されましたが、私は、1988年の時点でこの制度を導入したいと考えました。JUKIでは女性はほとんど独身でした。上司との面接で「向こう1年間の結婚の予定」や「年内の出産の予定」があるということになると、本人の意思表示とは関係なく、結婚・出産は辞めるものという企業風土が根強くありました。
均等法以降、女性の採用が増えているにもかかわらず、結婚・出産を機にやめていくということは、専門を一生懸命勉強してそれを活かして働きたい、という道が閉ざされてしまいます。女性が働き続けていくための道幅を、選択肢を広げていかないといけないということに気がつきました。
すでに、上部団体のJAMや連合の加盟組合では、育児休業制度を導入していた組合がありました。そこから情報収集して、JUKIにも導入したいと中央執行委員会で問題提起しました。しかし、執行委員会では「女の幸せは早く結婚し、よき妻よき母になることだ。」と一刀両断に反対され、非常に悔しい思いをしました。反対されたこと自体が悔しかったというより、なぜ制度が必要なのか、きちんと説得できなかった自分が非常に悔しかったのです。その時は焦って安易に提起してしまったと、非常に落ち込みました。
(7)リボンとベルト
ある時、女性が「ブラウスのリボンもベルトもすぐ傷む。制服と一緒にベルトとリボンも貸与してもらえると助かるのに。」と雑談しているのが聞こえてきました。そこで次の執行委員会の時、制服の貸与項目に女子のリボンとベルトを入れてほしいと主張し、何とか要求項目に載せることができました。そして、1回目の交渉で、会社側から即OKが出たのです。これをきっかけに、多くの女性組合員たちが組合に足を運び、いろいろ相談をしに来るようになりました。
こうした中で、私は翌年もまた、育児休業制度の導入を執行委員会に提起しました。今回は、前年反対した男性役員と同年代の男性役員に、代わりに提案してくれるよう事前に根回しをしておきました。そのため、前年反対した役員もさすがに再度反対はできず、なんとか執行委員会をクリアして、会社に要求書を提出することができたのです。
会社の方も均等法が施行され、女性の活用を進めたいと考えていたので、要求どおり1989年に育児休業制度を導入することができました。それ以降、JUKIでは両立支援制度など、かなり多くの制度を導入しています。
(8)男性中心的発想の打開に向けた取組み~組合改革
中央執行委員になったことをきっかけに、企業や職場、労働組合の中でさえも非常に男性中心的な発想で、物事が決められていたのだと感じました。同時に、女性がそういう意思決定の場に出る重要性も、認識するようになりました。均等法ができて、募集採用から定年退職、解雇にいたるまで、様々な段階で女性が不利になってはいけないということが定められ、さらに法律改正されて、男女を差別することも禁止されました。
私も入社数年経って、同期の男性と評価に差がついてくるようになり、他の女性たちも同様に、男性と同じ仕事をしていながら、差がつくのはおかしい、納得がいかないと思っていました。そこで、組合として賃金格差の問題に取り組むため、多くの女性の声を集める必要があるということで、1991年に地方の工場も含めて女性委員会を発足しました。1996年には職場の男女平等を求めていくことを明確にするため、名称を雇用平等委員会に変更しました。1998年には、組合の全ての専門委員会に女性を入れました。今まで男性中心、男性の発想だったところに女性を参加させて、新しい視点を取り入れていこうということで、組合自身の改革を進めてきました。
5.賃金格差の問題
(1)様々な意見
女性委員会の中では、どうすれば昇級できるのか、自分達は時間内に仕事を終わらせているのに、残業を多くしている人たちの方がいい評価となるのはなぜか、という疑問の声や、一生懸命資格をとっても昇級に結びつかない、資格を持っていない人の方が高く評価されている、などいろいろな意見が出されました。
意見というのは、日々なんとなく感じているものもありますが、組合員も実際に他の人と比較したりして、賃金や評価に疑問を持つようになっていました。また、共働きも増え夫婦間で疑問を持つようになってきたと思います。評価は他人と比較するものではありませんが、組合も、男女間の賃金格差はないと明確に説明しきれなくなってきたと、私は感じています。そのことをしっかり受け止めながらやっていかないと、問題解決はできなくなっています。
(2)男女の賃金格差の実態
1994年に、JUKIの賃金水準について議論する賃金専門委員会に女性を配置し、JUKIの賃金テーブルを具体的に検証しました。たとえば、家族手当では、男性は年代により金額にばらつきはありますが、各年代で支給がされています。ところが女性では、ほとんど支給されていません。ほとんどの男性が子どもや親を扶養していることが分かります。住宅手当は、手当額が主たる生計者とそうでない人に分かれていることから、全員に出てはいるものの、金額的にみると男性の方が高く、女性はほとんどの人で金額が低くなっていました。このことから、手当の支給要件が、男性に有利になっていることが見えてきました。
また、職種別賃金制度を導入していますが、手当を含む基準内賃金データでは女性の賃金カーブは低く、手当を除いた基準賃金では男子より若干低い程度ですが、若年層においては男性より高い水準の年代もあります。
(3)妊娠・出産におけるキャリアの中断
育児休業取得後に、子どもを育てながら働き続けるため、一日の勤務時間を短くして勤務できる短時間勤務制度があります。その制度を利用している女性の賃金に影響がでてきていることがわかり、大議論になりました。私がここで言いたいのは、妊娠・出産は女性にしかない機能です。私は、持って生まれた機能が不利になってはならないと思い、そのことを労働組合は主張していかなければいけないと思います。
現実には、賃金や評価の実態を表すグラフをみると、妊娠・出産で一定期間休職することによって、多くの女性の評価がそこで止まっています。まだ子どもが一人目の場合は大きな差にはなりませんが、二人目、三人目となると、大まかに見積もって数年のうち2年程度休むことになります。いずれにせよ1回遅れたものを取り戻すのは、非常に大変なことです。
私はここをクリアしない限り、長く働き続けるための制度は整ってきていても、女性が自分達の役割を認識しながら、働き甲斐をもってJUKIの中で働き続けていくことはできないのではないか、と感じています。妊娠・出産という女性だけの機能を権利行使する時、どう対応するのかについては、おそらく男女で意見が分かれると思います。
6.今後の課題
これからの組合活動としては、大きな柱としてワーク・ライフ・バランス、とりわけ労働時間の問題が取り上げられています。女性の労働権を考えた時に、特に私のような女性役員は、女性組合員の利益代表という立場から、これについて今こそ労働組合でしっかりと主張していかないとならないと考えています。そういう意味では、働く女性がもっと社会の中で増えていくこと、働き続ける女性が増えていくこと、社会に女性が参画していくことが、これからの社会を動かしていく中で非常に重要だと思っています。
また、仕事の成果や業績がより重視されてきている中では、住居形態、家族構成、既婚か未婚かなどの個人的な事情は、関係なくなってきています。男一人が働いて妻子を養うという形も、今非常に減ってきています。パートで働く女性も増え、格差是正の問題もあります。そういう中で、私自身女性の利益代表として、これからもっともっと不利にならない働き方を目指して生きたいと思いますし、上部団体や連合を通じて、これから働こう、働き続けていこうという女性の応援をしていきたいと思います。
これから就職活動をされるみなさんに申し上げたいのは、もし、長く働くことを考えているならば、初任給だけ判断するのでなく、その企業がどういう制度をもっているか、たとえば困った時にそれをカバーしてくれる制度がどれだけあるのかということをみていただきたい。そして、ぜひ労働組合のあるところを選んでいただきたい。そういうことを視野にいれながら、就職活動をしていただければと思います。
ご清聴ありがとうございました。
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