1.はじめに
ご紹介いただきました高木です。今日は、女性の社会進出と労働運動について、お話させていただきます。
結論を先に申し上げてしまいますと、女性の地位の発展を労働運動の歴史の中で考えていこうというのが、基本的な課題です。労働組合の歴史の中で、女性は非常に大きな役割を果たしてきました。しかし、とりわけ日本では、労働組合活動は主として男性中心主義で、それを脱却できない弱さを持ちました。そのために、組合は、今日の重要な労働問題に十分に対応できていない。これは単に労働組合内の問題だけではなく、日本の社会問題でもあります。その結果、たとえば、社会保障の問題についても十分に対応できていない、このような側面があるということです。
それを脱却するためには何が必要か、これはぜひ皆さんにも考えていただきたい。労働組合活動への女性の積極的参加が、組合のあり方や、もっと広くいえば、日本の社会のあり方を変えていくために、非常に重要な役割を果たします。これは、日本社会の中で中心的な課題の一つなのです。こういうことを歴史の中から学ぶことができます。
本日のこのようなテーマは、短時間では到底話し切れませんので、どこか心に残ることがあればいいと思います。それを軸に、より関心を持って本を読んでいただくなり、他の方法で勉強していただくなりのことを、ぜひやっていただきたい。
2.労働組合のはじまり
世界で最初に記録に残っているストライキは、紀元前1300何年とも言われていますから、ずいぶん長い歴史をもっていますが、今日は、本格的な労働組合運動が始まって以降の、労働運動と女性の関わりに限定して、話をします。本格的な労働組合は、どの国でも産業革命後に成立しています。イギリスは産業革命の母国ですが、労働組合の母国でもあります。そこでは、1760年代に現在の労働組合の原型が、ほぼ成立します。
一般に使用者や保守的な政府というのは、労働組合が嫌いです。そのため、1799年に団結禁止法を作り、労働組合を弾圧しました。理由はいろいろです。経済学には市場万能主義、自由競争こそ経済を発展させるという考え方があります。労働組合という形で労働者が団結すると、その自由競争を阻害するというのが表向きの理由で、団結禁止法が作られました。これは労働者にのみ団結を禁止したのではなく、経営者の団結も禁止しました。その意味では労使対等ですが、より影響が大きいのは当然労働者側で、労働組合には様々な悪い影響が及びました。しかし、そのうち秘密のうちに労働組合が結成され、突然ストライキが起こるなど、経営者にとってもかえって悪い影響が出てきました。
この結果、1824年に政府は団結禁止法を廃止しました。労働組合が積極的に承認されたわけではありませんが、一般的に団結を禁止する法律が廃止されました。関心のある方は、ウェッブ夫妻の『労働組合運動の歴史』をぜひ読まれるといいと思います。
3.全国労働組合大連合と女性労働者
1834年に、ロバート・オーウェンの指導のもとで、全国労働組合大連合 Grand National Consolidated Trades Union ができました。この全国労働組合大連合の活動で大きな注目を集めたのは、この年にイギリスのダービーという地域で起きた争議です。産業革命後に、繊維関係の産業が非常に発展したダービー地域の撚糸工や織布工など、絹関係の労働者が中心になり、大きな争議が起きました。これはユニバーサル・ストライキといって、この地域の労働者全体が参加したストライキでした。
このとき大勢の労働者が参加しましたが、参加した男性、女性、児童(児童労働が広く行われていたため)の人数が、具体的に記録として残っています。それによれば、女性の方が多く参加していました。このように近代の労働組合運動の歴史の初期の頃から、女性労働者が非常に大きな役割を果たしていたのです。
同時に注目すべきことは、これらの労働者がなぜ立ち上がったかということです。一つの理由は、組合に入ったために解雇されたということでした。しかし、もう一つの重大な理由は、非常に低い賃金だったということです。当時、救貧法という生活保護法の元祖のような法律があり、非常に所得の低い人たちに国が給付を行っていました。特に、女性労働者の多くはその救貧法の対象だったと、ダービー争議の記録に書かれています。
つまり、女性労働者というのは、産業革命後のこの時期から非常に低賃金で働いていた、あるいは低賃金で働かざるをえなかった、ということがはっきりわかります。
4.工場法による女性労働者の保護
ロバート・オーウェンは、自由な契約を結んで労働をしていてはだめで、女性労働者を保護する規制を行う必要がある、そのための立法を行わなければいけないと考えました。これはオーウェンだけではなく、当時の社会問題に関心のある指導者達も、そう考えました。彼らが中心になって起こしたのが、工場法制定の運動です。
オーウェンらが粘り強い活動を行い、最初の工場法「1819年法」が作られました。これは、9歳以下の児童労働の廃止を定めたものです。ここから始まり、工場法が完成をみるのが「1847年法」です。これは、18歳以下と女性に対して一日の労働時間を10時間に規制した、世界で最初の本格的な工場法でした。そして、これ以降、労働基準という労働に関するルールが発展していく一番の基礎になったのが、この工場法だったのです。この中身はまさに、女性労働者をどのように保護するかを軸としてつくられました。
しかし、この法律は18歳以下の年少労働者と女性だけに適用され、男性の、いわゆる一般成人労働者には適用されませんでした。男性の成人労働者にも適用されるようになるには、1919年のILO第1号条約という国際的な8時間労働法の成立までの長い歴史が必要になり、ここで、ようやくすべての労働者に適用される労働時間規制として完成していくことになります。
ついでですが、日本の労働問題の草分け的存在に、大河内一男という先生がいらっしゃいます。その先生が、「労働時間の歴史というのは、50年で1時間短縮されるのだよ」と教えてくれました。イギリスの工場法で1847年に10時間労働法になり、19世紀の後半にほぼ9時間労働になりました。そして、1919年のILO第1号条約では、8時間労働になりました。20世紀の後半は、1日7時間労働になるはずでした。しかし、そうはならず、20世紀の前半まで日曜日だけだった1週間の休みが、土日の週休2日制という形で、20世紀後半に広まりました。
5.最低賃金制度の成立
もう一つの問題は、女性労働者が非常に低賃金で働かざるを得ない状況を、どう改善するかということです。これについては、工場法の遵守状況を点検する工場監督官制度がありました。これは、日本の労働基準監督官にあたるもので、工場法の成立とともに制度化され、1894年に女性監督官制度ができました。この工場監督官が、女性労働者の労働状況について実態調査を行ったのです。
そこで出てきた最大の問題点は、sweating laborという問題でした。sweating laborというのは 苦汁労働、苦しい汗をかく労働という意味です。繊維産業を中心とした女性労働や児童労働の工場が、非常に低い賃金で労働者を使っていた実態が明らかになったのです。そのため、単に労働時間の規制だけでは不十分で、賃金の問題もきちんとしなければいけないということになりました。
そのため、最低賃金制度、すなわち、一国においてこれ以下の賃金としてはいけないという制度をきちんと確立すべきという理論が出てきました。イギリスでは、使用者がどのように人を雇って使おうと自由であり、労働時間や賃金について労使間で交渉することも認められていました。しかし、sweating labor のような、女性労働者がたくさん働いている繊維産業や紡績業では、単に労使の交渉に任せておいただけでは、低賃金も悲惨な労働も、全くなくなりません。そのため、労働時間も含めた労働条件の基本については、法的な規制を加える必要があるという考え方が強まりました。
この結果、20世紀の初頭にイギリスやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国では、最低賃金制度ができました。これは日本と少々違って、労使間の交渉が基本にあります。このように最低賃金制度が出来上がり、一番悲惨な女性達を保護しようという考え方が、賃金の面でも実現していったという見方ができます。労働時間については一番長い時間を、賃金については一番低い賃金を決める。こうしたルールは、いずれも女性労働者をめぐって作られていったということなのです。
6.パンとバラ
20世紀の初頭に女性が女性運動として行ったのは、女性参政権運動です。参政権運動とは、政治に参加するための運動のことです。これは、女性運動として非常に大きな意義を持っていました。
今の日本では、20歳以上の男女はすべて普通選挙権を持ちます。しかし、もともと選挙権というのは、財産権と結びついていました。イギリスでは、土地を持ち、土地についての資産税を納めているということが、選挙権を持つ条件でした。これでは民主主義とはいえず、労働組合の発展によって全ての人に普通選挙権を与えろという運動が、1830年代の後半から展開していきました。これをチャーチスト運動といいます。
この結果、1868年にイギリスでは普通選挙法が成立します。ちょうどイギリスのナショナルセンターであるTUCが成立したのとおなじ年です。つまり、普通選挙も労働運動の成果であり、今のように、選挙制度が民主主義的になるのは労働運動と非常に深いつながりをもっているといえます。
ただし、どの国でもそうですが、普通選挙権から、最初女性は除外されていました。そこで、各国の労働組合の女性、あるいは様々な活動に参加する女性たちが、「女性たちにも選挙権をよこせ」という運動を展開していきます。毎年3月8日を国際女性デーとして、女性たちが自分達の権利を実現するための、様々な集会やデモが行われます。これは、1904年3月8日のニューヨークで、女性の参政権と労働条件の向上を要求する大規模なデモが実施されたことによります。
この時に掲げられたスローガンが「パンとバラ」、女性にパンとバラを与えよ、という要求です。パンは、賃金を含めた労働条件の向上を意味します。つまり、一人前の労働者あるいは人間として生きていくための条件を、きちんとしろということです。そして、バラは、参政権を意味します。男女平等を軸にした女性の尊厳を守れということを掲げたデモを記念して、3月8日は国際女性デーになったのです。
こういう歴史的な展開の中で、国際的にも女性の地位が次第に向上していったと見ることができます。とりわけ重要なのは、労働基準法、工場法、最低賃金、参政権の例にあるように、自分達の権利をきちんと確立させるためには、それに必要な制度をしっかり作っていくということです。そのためには、当事者が自らで運動をしていくことが重要である、ということを示していると思います。
7.日本で最初のストライキ
日本における労働運動は、江戸時代にも瀬戸内海地方の塩を作る労働者などが行っていましたが、本格的になるのは、1868年の明治維新以降です。鉱山での暴動や様々な問題が労働者を中心に起こるようになり、労働運動が発展していきます。
記録に残っている日本での最初のストライキは、1886年に山梨県甲府市の雨宮製糸工場の女性労働者達が起こしたものです。当時の地元紙によれば、誰か指導者がいたり、労働組合があったりしたわけではありませんでした。製糸というのは輸出産業で、ある程度賃金は高かったのですが、女性たちに対する扱いが、非常に非人間的でした。たとえば、トイレに行くのも制限されたりすることに、女性たちが反発して起こしたストライキだったのです。彼女たちはお互いに名前を呼びあって、一斉に工場から飛び出し、近所のお寺に立てこもってしまったのです。こうしたことが日本の労働運動の出発点にあって、そこでも女性たちが先例を作りました。そのようなことがあったことを歴史的に見てほしいと思います。
8.日本の工場法
日本の産業革命は1890年代以降ですが、その頃も大阪紡績のストライキをはじめ紡績工場を中心にして、女性労働者が参加するストライキが数多く行われました。当時の女性労働の具体的な様子は、細井和喜蔵の『女工哀史』に書かれています。また『職工事情』という、政府が行った調査もあります。今の政府と比べると非常に良心的で、生き生きと現実の労働の姿を産業ごとに示しています。また、この調査にも参加した横山源之助というジャーナリストが書いた『日本の下層社会』という本があります。これらの中にも、女性労働者が男性労働者と並んで出てきますし、女性がどんな労働条件で働いていたかも出てきます。この三冊の本はいずれも岩波文庫に入っています。
『女工哀史』によれば、一日の労働時間は12時間2交替で、深夜労働もありました。ところが、12時間仕事をした後、次に交替する予定の女性労働者が休んだために、そのまま続けて36時間連続労働を強いられたという記録も出ています。労働時間について、きちんとした規制がなかったのです。
賃金については、大正時代にはかなり解消されますが、明治時代は最初に親のところへ賃金を契約金として払い込み、ほとんど無給で働かざるを得ない状況がありました。
このような女性労働者の悲惨な状況が浮き彫りにされ、日本では1890年代末から工場法を作ろうという議論が行われます。けれども、実際に法律ができたのは1911年、施行されたのは1916年でした。深夜労働禁止は、15年後の1926年です。工場法は、日本では非常に遅れて成立したことになります。
なぜかというと、使用者が反対したためです。その理由は、貧乏で一生懸命働くことが日本を栄えさせる、というものでした。あまり規制をして労働者を怠けさせてはいけないという理由で、工場法に反対したのです。しかし、悲惨な実態が明らかになり、その後徐々に工場法の中身も改正されていきます。ただ日本の場合、きちんとした女性の保護規定ができるのは、1947年のことです。
9.戦後労働運動~労働基準法の成立
戦前の日本の労働運動は、全面的に弾圧され、十分に発達を遂げませんでした。しかし、第二次大戦後、民主化とともに労働運動が大きく復活し、発展をしていきました。第二次世界大戦後の1945年~47年は、日本を占領したアメリカが、日本の民主化に力を入れた時期でした。アメリカは、民主化の大きな力の一つとして労働組合の存在を認めて、積極的に労働組合を支援します。その結果、労働組合は日本の社会を動かす大きな力となり、そういう中で労働基準法という法律が作られることになったのです。
労働基準法はどういう内容なのかというと、最初に書いてあるのは「労働条件の決定は労使対等」ということです。それから、「労働基準法で言っている労働基準は最低のもので、使用者や労働者はその改善のために努力をしなければいけない」と書いてあります。現在日本では、労働基準法さえ守っていればいいという考え方がありますが、それは大きな誤解だということです。
基準法の具体的な中身で重視されたのは、労働時間の規制です。これは過去の工場法と違い、全労働者を対象に、1日8時間、1週間48時間に労働時間を規制しています。これは、1919年のILO第1号条約に、1947年の労働基準法がやっと追いついたということを示しています(1847年のイギリスの工場法からまさに100年後)。女性に関しては、深夜労働の禁止、そして1日あたり最大で2時間、1週間は6時間という形で、残業時間を規制しました。それから危険作業への就業禁止と生理休暇の付与も規定され、当時の基準法は全面的に女性労働者保護の中身をもっていました。
賃金については、基準法に「男性女性で性の違いを理由に賃金を差別してはいけない」と書いてあります。これは一般に、男女同一労働・同一賃金原則と呼ばれています。このように、労働条件と賃金の両面において、労働基準法は女性保護の原則を打ち出したと言ってよいと思います。
ただ、私が歴史的に大変興味深いと思ったことをご紹介します。基準法が作られた当時の日本国有鉄道(現在のJR)の労働運動の歴史の聞き取りをした際に、次のような話を聞きました。
第二次大戦中に、男達はみんな戦争にかり出されて外国に行き、その穴を埋めたのが女性労働者でした。今まで男性がしていた他のいろいろな職種に、女性が進出しました(運転手や蒸気機関車の機関士までには広がりませんでしたが)。ところが、戦後、男達が帰ってくるのにしたがい、女性労働者たちは退職勧奨されます。その理由としてあげられたのが、労働基準法にある深夜労働禁止です。この女性保護の規定が、女性にとって非常に不利になったのです。過度に女性を保護するやり方は、かえって女性の働く職場を奪ってしまうということです。
当時国鉄にいた女性労働者たちは、自分の血で署名した血判書を書き、労働基準法の深夜労働禁止の条項に反対するという陳情を行っているのです。つまり、保護と平等の間をどう考えるかについて、既に60年前の1947年に、積極的な女性労働者たちが意識していたということを、歴史から学ぶことができます。
10.女性労働者保護の時代
■Male Breadwinner ModelとFemale Caregiver Model
これまで話してきたように、1800年代のイギリスの工場法の時代から始まって労働基準法の時代まで、基本的には女性は保護の対象だと考えられてきました。この考え方は労働組合も承認していましたが、それはなぜかと言うと、Male Breadwinner Model(男性片働き型)の考え方が強くあったからです。国際的にも、1960年代頃まではそのように考えられてきました。今でもそのように考えている国はありますが、北欧諸国はここから脱却し、アメリカもほぼ脱却しています。
Male Breadwinner Modelとは、男性が外で働いて、稼いだお金で家族を養う、という考え方です。この裏側には男性側に対して女性側には、Female Caregiver Model、という考え方があります。Caregiverとは、保育や介護という意味です。つまり、女性は家の中にあって子育てや年寄りの面倒を見るということです。それをできるようにするため、女性は保護されなければいけないというわけです。
歴史を眺めると、労働組合でもこの考え方に基づく要求が多く出てきます。たとえば、春闘の賃上げ要求に「パートも内職も要らない賃金を」というものがありました。女性は家の中にいてcaregiverに専念でき、男の賃金でみんなを養える賃金を、労働組合は要求してきたわけです。
1975年に、連合の祖先の1つである同盟と、金属関係の労働組合がつくっているIMF・JCという組織が、「はたらくものの生涯生活ビジョン」を作りました。この「生涯生活ビジョン」で、高校を18歳で卒業して60歳の定年までの生涯を描きました。そして、その生涯のそれぞれの段階にふさわしい賃金や、社会的制度を作っていかなければいけないという考え方をもっていたのです。これは、総評がかかげた生活闘争というスローガンとともに、当時としては先進的なものでした。しかし、この中では女性は枠の外でした。たとえば、女性の退職年齢30歳などという例もありましたし、寿退職というものがあって、結婚したらお祝い金を出すからやめてくれ、というような制度もありました。しかし、労働組合全体としてはこうしたことにはあまり大きな関心をもたなかったといえます。
労働組合の女性たちは、組合運動の中でこれらを直そうとしてきました。組合が認めないときには、男女別枠の定年制はおかしいではないかと、裁判に訴えました。裁判所も根拠法がありませんでしたから、公序良俗に反するということで、男女別枠の定年制を廃止を命ずることもありました。このようなことがあって、時代と共に女性保護から平等への動きがだんだん強まっていったということなのです。
■日本の最低賃金
最低賃金は、日本でも1959年に作られました。今、最低賃金問題は非常に重要ですから、皆さんぜひ勉強してもらいたいと思います。最低賃金は、最初は業者間で協定して作ることになっていました。しかし、その場合、この最低賃金の対象となるのは、先ほどいったMale Breadwinner Modelにおける女性労働者になってしまいます。そうすると、Male Breadwinner Modelでは、男性が主たる稼ぎ手なので、それを補助する女性労働者の最低賃金は、うんと低くてもよろしいということになります。むろん現代ではこれは大違いです。現在では、ひとりで暮らしていかなければならない人がたくさんいます。それがワーキングプアといわれる状態になっているのです。
今、日本の最低賃金は、世界の先進国の中では最低の水準です。アメリカが低かったのですが、一昨年に民主党が上下両院を制したのち一挙に引き上げられ、今では日本が一番低い状態になっています。
先ほど言いました、男女同一労働・同一賃金の原則というのは、裏返していうと、違った労働なら違った賃金でもいいではないか、ということになります。これは男性職、これは女性職と分けてしまえば、男性職は高くて、女性職は低い。また、たまたま女性の多い職業、たまたま男性の多い職業で違う労働なのだから、賃金は違ってもいいではないかというわけです。これを性別職域分離と言う人もいますが、こういうものも労働組合が十分に積極的に打開してきたかというと、なかなかそうではありませんでした。
■社会保険制度に見られる保護
もう一つは、さまざまな社会保障のなかにMale Breadwinner Modelの反映があります。例えば、国民年金の第三号被保険者というものがあります。厚生年金や共済年金の被保険者の妻は保険料を納めることなく、夫が自分の分だけ保険料を納めていれば(妻の分は納めない)、65歳になった時基礎年金を受け取ることができるという制度です。基本的に、20歳になったら国民は年金保険料を支払う義務がありますが、年収130万円以下のパートや専業主婦は、保険料を納めなくても年金を受け取ることができる仕組みなのです。
これは、女性たちが男性に従属する存在であることを認めた、明らかにジェンダー差別の制度です。このような制度についても、歴史的な状態からみて現代はどうなっているか、あるいはどうすべきなのかについて、皆さんに検討していただきたいと思います。
■保護から平等へ
日本の労働基準法など各種制度のあり方の変化について一言でいいますと、「保護から平等へ」という言葉に象徴されます。これは歴史的には、1985年に成立した男女雇用機会均等法が、明確な時期区分になると思います。その後、労働基準法が改正され、最終的には、1997年に週40時間制が成立します。この時、原則的に女性保護規定は廃止されました。労働組合は、とりわけ男女雇用機会均等法の成立に努力しました。そして、実質的な平等化を目指して活動を続けています。たとえば、間接差別の撤廃については、労働組合が相当力を入れて撤廃しました。
しかし、本当に制度面で差別がなくなったのかといえば、なくなってはいません。なくなっていないことが、現代の社会問題を作っているのです。つまり、先ほどの年金の第三号被保険者でいえば、働いていないことが得なシステムになっているわけです。働かなくても年金を受け取れるというシステムですから、働かない。働かないから保険料を納めない。だから、年金の財源が足りなくなるのです。みんなが働くようにしていけば、年金の財源問題はかなり解決していくと考えられます。現在、こうした制度をどのように改革していくか、政府はなんの展望も示していませんが、労働組合の方でも、何らかの方針を示すことが必要だと思います。
11.統計から見た日本の特徴
■男性は過労死するほど働き、女性は差別される
OECD(経済協力開発機構)から入手しました『図表でみる世界の社会問題』(日本語訳:明石書店刊)に、非常に面白い統計があります。日本の特徴は、女性の就業率が非常に低いということです。男性と女性の就業率の差が20%以上ある国は、OECD加盟国の中では少なく、典型的なのは日本と韓国です。これらの国では、同時に合計特殊出生率が低く、子どもを生む数が少なくなっています。要するに、日本の特徴は、女性の就業率が低くて、就業しても非正規型が多いのです。これは依然として、Male Breadwinner Model を持っているということになります。
現在、女性は意欲的に社会進出し、保護から平等の時代に入っているといえます。にもかかわらず、依然として実態はそのようにはなっていない、とデータが示しているのです。これは、女性にとって悲劇なだけでなく、男性にとっても悲劇です。男性は過労死するほど働く。その上、失業したり、自分の経営している店が倒産したりしたら、自殺するほど、責任を抱えているのです。
この自殺者の数は、OECD加盟国の中で日本は2番目に多く、特に40~50代の自殺は、非常に多くなっています。これはMale Breadwinner Modelがもたらしている日本の男性の悲劇です。要するに、男性は死ぬほど働き、女性は差別される。こういう社会が日本を不幸にしているのです。これは、皆さんの世代でぜひ直していただきたい。
12.結論
時間も来ましたから、結論を申し上げます。
一つ目は、歴史的には「パンとバラ」を求める女性の運動は、労働組合の発展と一体のものだったということです。
二つ目は、働く女性の人間としてのあり方。これは最近の言葉で言うと、「ディーセント・ワーク」です。「ディーセント」というのは、私は「人間的な」と訳しますし、連合では人間の尊厳を守るという意味に訳しています。要するに男女差別がない、児童労働がない、むやみやたらな残業がないなど、こういうことがディーセント・ワークです。これらを実現するには、労働基準法などでしっかり規制することが不可欠です。規制緩和をすればみんなが幸せになれるとか、ホワイトカラーは労働基準法から除外すべきだなどといいますが、これは歴史的には全く間違っています。しっかりした規制というものがなければ、うまくいかないということを歴史は物語っています。ただ、その規制の中身は、女性の側からいうと、かつての保護から平等を軸にした規制に変えていかなければなりません。
三つ目は、男女が幸せな社会を作るためには、労働組合がもっとジェンダーメインストリーミングの立場にたたなければならないということです。男性は非常に長い労働時間、女性は短い労働時間で互いに自立もできないというのはなくて、どちらも自立できるようにする。例えばワークシェアリングという形で仕事を分かち合い、適切な労働時間と適切な普通の生活が出来るあり方を求めていく。こういうものを求めるのが、ジェンダーメインストリーミングです。女性が男のようになるようにとか、男が女のようになるとかいうことではなくて、男性も女性も共に幸せになれる「第三の道」を求めていくことを、労働組合はもっと活発にやらなければいけないということです。
ジェンダーメインストリーミングには、もう一つ意味があります。それは、社会保障や、地域の社会サービスなど、様々な分野の中にジェンダーと平等を実現する方法を考えていかなければいけない、ということです。この2つの内容が、ジェンダーメインストリーミングです。そして、まず労働組合がそういう立場をしっかり行っていかなければなりません。そのためには、皆さんのような若い世代が、労働組合に積極的に参加し、積極的に発言して、労働組合がその立場に立てるように推進していただけたらいいのではないかと思います。
今日の話を契機としていただき、皆さんぜひジェンダーや女性労働という立場から掘り下げて、労働の歴史を見回していただけたら大変嬉しく思います。
どうもありがとうございました。
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