一橋大学「連合寄付講座」

2019年度“現代労働組合論”講義録

第13回(7/22)

【修了講義】労働運動・労働組合とは何か~「働くということ」を考える

連合会長代行 逢見 直人

自己紹介

 ご紹介いただきました逢見です。1976(昭和51)年に本学を卒業しました。もともと一橋大学に行きたいと思ったのは、社会問題について学びたいということがあり、社会学部を選びました。社会問題の中で労働問題が一番経済・産業・雇用などの様々な部分と関わりがあり、幅広い問題であるのでこの問題を自分の専門にしたいと思い、津田真澂先生のゼミに入りました。卒業するときに就職を考えたのですが、自分のやりたいことがよくわからなく、留年しようかと思っていたのですが、その年の12月にゼミの教官の家に呼ばれ、「どうするんだ」という話があった時に、「ある労働組合から来ないかという話がある」と言われ、その時に「行きます」と答え、それがゼンセン同盟だったわけです。したがって大学卒業後そのまま4月にゼンセン同盟に入局し、書記局員として仕事をし、それから43年労働運動に携わってきたということです。そういう意味では少し珍しい経歴かもしれません。
 昨日、第25回参議院選挙がありました。投票には行きましたか。現在は18歳から選挙権がありますからここにいる全員に投票する権利があると思います。労働組合の場合は選挙は必修科目みたいなもので、ゼンセン同盟入局以降、常に自らの組織で議員を抱えているということもあり、特に衆議院選挙や参議院選挙などの国政選挙にはずっと関わってきました。
 だから投票にも欠かさず行っていたのですが、投票率を上げるにはどうすればいいのかということにずっと取り組んできました。どうすれば投票率を上げることができるかということで、一つは投票日の前に投票できるようにする不在者投票制度があります。現在でもありますが、それは仕事があり投票日に投票できない、あるいは遠隔地におり自分の住んでいるところでは投票できないといった理由が限定されており、非常に使いづらい制度でした。
 私が茨城県で選挙運動を行っていた時、波崎という漁港で漁船の船員たちに「投票してください」と言ったら「漁に出るから」と投票日には仕事があっていけないということを言ったので、「それでは不在者投票があるから行きましょう」と連れて行ったことがあります。しかし、当時は理由を細かく聞きます。当日仕事があって投票に行けないとなれば、どこで仕事があるのかをいちいち聞きます。漁船ですから船に乗って漁に行くわけです。すると担当の人が「船に乗ってどこへ行くのですか」と聞くわけです。「そんなこといっても海の上だからどこに行くか分からないだろ」と言っても、「海の場所を書いてもらわないとダメです」という話です。こんなバカな話があるか、このような不在者投票制度を変えようということで現在は期日前投票という制度ができ、いちいち理由を書かなくても該当する項目にマルをつければいいということになり、手続き的には非常に楽になりました。また、公示日の翌日から投票できるようになって徐々に制度を利用する人は増えてきました。さらに、期日前投票所も当初はかなり限られていましたが、もっと幅広くできるようにしようということで、例えばショッピングセンターに投票所を置き、買い物のついでに投票をできるようにしようという働きかけもして、今はショッピングセンターで期日前投票をできる場所も増えてきました。
 18歳選挙権となってから、大学の一年生から投票できるようになったので、大学の構内でも期日前投票所を設置するところがでてきました。地方大学ではそのようにしているところもあります。このように投票所も増えて18歳選挙権ということになり、以前に比べれば投票しやすい環境作りが出来てきた。これは働きかけや運動を行い、投票しやすい環境にしてきているのです。
 しかし、それでも投票率が上がらない。第25回参議院選挙の投票率は過去二番目の低さということで、かろうじて50%くらいです。高齢者は投票に行きますが、特に若い世代が行かない。このような傾向が続くと高齢者の意思が投票行動として反映されるようになる。そうすると世代間で利害が対立する問題があった場合、例えば年金の問題は、年金を受け取る側と保険料を納める側では当然利害が異なってきます。年金を受け取る側の人たちの声がどんどん投票行動として強くなると、本当に現役世代からするといいのかということになります。そういう点では、投票に行って自分の意思を示すということは必要ですが、今のような状態になっています。できるだけ皆さんも投票の機会を使っていただきたいと思います。

若者応援マガジン「YELL」

 皆さんのところに、若者応援マガジン「YELL」というものが配られています。これは連合で作成しているもので、特に若い組合員や大学生向けに作っています。情報誌として無料で配布しており、大学などにも置いてもらっています。最新のvol.5では、「働く時間、どうしたい」という特集になっています。表紙は田中圭さんという俳優の方で、4~5ページにかけて労働時間規制のあゆみということで、労働時間がどのように変化してきたのかということを見開きで掲載しています。ちょうど2019年4月から働き方改革関連法が施行され、労働基準法の労働時間法制が変わりました。今は大企業だけですが、2020年4月からは中小企業も含めてすべての企業で施行されます。これで長時間労働の規制が強まるわけですが、ちょうどそのような機会があったので労働時間規制はどのように変化してきたのかということを説明しているのです。ここでは世界の動きと日本の動きが両方分かるようになっています。今ある状態は前からそうであったわけではなく、色々な人たちが様々な課題を抱えながらそれをどうしようかと法制面で考えてきました。そういったことの積み重ねが現在の労働時間法制になっているということです。歴史を振り返るということは、今あるかたちがどのように出来上がってきたかを知ることであり、それは今ある課題をどうすれば解決できるのかということに繋がっていきます。そうした意味で参考にしていただきたいと思います。
 6~7ページは世界の働き方の色々ということで、日本にいると当たり前だと思ってしまうかもしれませんが、日本の常識は世界の非常識ということもあります。特に違うのは、年次有給休暇の取得率で、6ページの上段にありますが、100%すべて取得するのが世界の常識ですが、日本は約50%です。こういったことを知ってもらいたいということで「YELL」を配っていますので、後でもいいですから見ていただきたいと思います。

働くということ

 働くということで、これまでいろいろな講義があったと思いますが、働くとはどういうことなのかということはあまり取り上げていなかったと思いますので、それを取り上げてみたいと思います。
 人が働く動機には、いろいろあります。食べるため、他人に認められたいため、働くことにより成果の美を求めるため、労働そのものに喜びがあるため、余暇を有意義に過ごすため、など色々なものが考えられます。まず、一番は食べるためです。働かないと食べることができない。労働の対価として賃金を得て、それを生活のために使うというのが一番ベースになるわけですが、それだけかというと決してそうではないはずです。働くことによって自分が出した成果を他人に認められたいということもありますし、他人がどうであれ自分が喜びを感じるということもあると思います。また、仕事は仕事として生活のために従事するが、それ以外の余暇が大事だという人もいます。
 様々なものが考えられますが、働くことが自分にとって苦痛だということもあります。肉体的な作業の繰り返しで疲れてくたくたになってしまうということが苦痛だということもあります。しかし、一方で苦痛だけではなくてそこから何かの報酬が得られる、あるいは何らかの形で褒めてもらえるなど、自分にとって期待されることを通じて働くということもあります。労働の評価はこのようなものの組み合わせによって変わってくるわけですが、労働組合は労働の苦痛の部分をいかにして和らげるか、取り除けるか、そして働き甲斐がある仕事をどのように作っていくかということを取り組んできた歴史があります。あとで話しますが、現在でもディーセント・ワークという概念の中で、働き甲斐のある仕事を作っていこうという取り組みをしています。

3人の石切り職人の話

 次に働くことの意味について、3人の石切り職人の話をします。昔、ある旅人が町を通りかかりました。町では新しい教会を建設しているところで、3人の石切り職人が働いていました。その仕事に興味を持った旅人は、1人目の石切り職員に尋ねました。「あなたは何をしているのですか」。その問いに対して石切り職人は、何を当たり前のことを訊くのだと、つまらなさそうな顔をして答えました。「お金を稼ぐために、この大きくて硬い石と悪戦苦闘しているのさ」。旅人は2人目の石切り職人に同じことを尋ねました。「あなたは何をしているのですか」。その問いに対して石切り職人は汗を拭いながらこう答えました。「国一番の石切り工になろうと思いながら切っているのです」。旅人は3人目の石切り職人に同じことを尋ねました。「あなたは何をしているのですか」。その問いに対して石切り職人は目を輝かせ、こう答えました。「私が切り出したこの石で、多くの人々の心の安らぎの場となる場所ができるのです。私はその素晴らしい教会を夢見て、石を切り出しているのです」。
 一見するとみんな同じ作業をしています。石切り職人が石を切り出している。みんな同じ作業をしているように見えますが、やっている仕事の意味合いが人によって違います。お金を稼ぐために働いている人、自分の技術を磨き上げて国一番になろうと思っている人、それから自分が作ったもので人々が安らげるということで自分が作ったものが人に評価されることを感じて働いている人もいます。このように働く中にも色々な意味合いがあります。どれが正しくて、どれが間違っているというわけではなく、それぞれ意味合いがあります。ただ、皆さんの中でもアルバイトですでに働いている人もいるかもしれないし、これから就職して働くという世界に入っていくときに、せっかく自分の人生の中で一番輝く時間を働くために使うわけです。そうだとすれば、自分にとって価値のある、あるいは貴重なものでなければなりません。それが自分の人生にとって無駄だったと感じてしまうのであれば、非常に残念なことです。そういう意味では働くということの中にどのような価値を見出していくのかが大事になってきます。

ジョブ、キャリア、コーリング

 ジョブ、キャリア、コーリングというものがあります。ジョブは、契約によって成り立つ労働で、労働と賃金の交換関係によって成り立っている。それぞれに与えられた仕事があって、言われたことさえすればいい、きちんとやれば対価としての賃金をもらえるというものがジョブです。
 それではジョブだけで仕事の世界が成り立っているのかというと、そうではなく、キャリアというものがあります。キャリアは、車の轍です。昔は自動車ではなく、馬車が走っていたわけです。馬車は車輪の外側に金属の輪をつけ、道を走っていたのですが、舗装されていない道なので車輪が通った後が残っていきます。これがキャリアの語源ですが、こうしたことから仕事を通じてどのような軌跡を通ってきたのかがキャリアとして使われています。自らを向上させるために仕事をするより責任ある仕事につき、高い報酬も得たい。他人に認められたいという欲求もある。仕事を通じてキャリアを重ねることによって、それが高い評価になっていく、高い評価になっていけば他人もそれを認めていくし、自分が得られる報酬も上がっていくし、職業人生として歩んできたキャリアというものがその人の中に身についたものとして、それが最終的にはその人の評価に繋がっていくというわけです。これがキャリアです。
 そしてコーリング。日本語では天職といっていますが、人生にとって、天から与えられたものが自分のものとしてあれば、こんな幸せなことはないです。自分の天職として仕事をやる。そのことによって価値を作り、そこから満足も得られ、報酬も得られるという自分の職業人生として天職を見つけることができればこれほど幸せなことはないと思います。ただ皆が皆、自分の天職を探せるわけではないのですが、やはり自分の職業人生を考えるときに、自分はどういうキャリアを作りたいと思っているのか、そしてそのキャリアが自分にとって天職と言えるものになるのか、そういったことを考えながら自分の仕事を考えると良いと思います。

江戸時代末期の日本の労働

 ここからは歴史の話、まずは江戸時代末期の日本の労働についてです。今ある労働は昔からそうであったわけではなく、昔の労働はどのようなものであったかを垣間見ようということです。ここでは森村市左衛門という人について、この人は愛知県で陶器製造、鳴海製陶や日本ガイシといった現在もある会社を作った人です。
 昔は皆そうですが、この人もまず小僧として奉公にいき、そしてそこで働くことで番頭になり、キャリアを作っていくのですが、森村市左衛門さんは1850年頃の江戸末期、多くの小僧はたいてい背の真ん中に荷物のための摩擦傷を受け、大きい斑点ができたものです。昔は、特に職人がそうですが、体をみるとその人がどういった仕事をしているかが分かると言われたものです。例えば染物屋は、自分の指・爪が染物の藍の色で染まってしまっているので、指を見ると染物屋だと、また機を織る職人は自分の爪でぐっと引っかいたりするので爪にギザギザができ、織物をする人だとわかる。そして大きい荷物を担ぐ人は背中に赤い傷ができるので、お風呂に入るときにこの人は背中に傷があるから荷物を持つ人なのだとわかる。森村市左衛門さんもまた人並みすぐれた斑点ができ、痛くて、痛くて耐えかねていた。大晦日という一年中の極めて忙しい時、身に余る荷物を負うて山の手方面へかけて出かけると、たまたま無情なる雪は粉々として降りしきり、眼前咫尺を弁じえない(一寸先も見えない)という有様。特に背中に荷物を背負って歩いていると、雪が降ってきた。この雪がどんどんひどくなって目の前が真っ白で見えなくなってしまう、そういう思いをしていたと書いています。そうやって、商家の小僧は仕事をしていました。

20世紀初頭の日本の労働①

 その後、江戸時代から20世紀に入ります。ここでは吉村武夫の「綿づくり民俗誌」が参考になります。吉村さんは布団屋の主人ですが、自分が打っている布団は一体どのようにして作られてきたのかを当時の古老に聞いてまとめた本です。
 夏になると、一反の畑に水桶50回から60回もやらねばならず、「嫁殺し」といわれた酷な仕事でした。一日何百回もの水汲みに、どの百姓も肩をはらしたものです。ここは農家の話です。現在、綿花は国内ではほとんど生産しておらず輸入ですが、江戸時代から明治の半ばくらいまでは綿を国内で作り、その綿で糸を作り木綿の着物を作っていました。綿花は、水と肥料が必要です。水をやるのに天秤棒で桶を担いで何回も畑にまく。一日何百回もの水汲みで、みんな肩を腫らした。
 それから肥料がいります。肥料はニシンを干したものです。江戸時代には、日本海を回遊しながら北海道、つまり当時の蝦夷地へ行ってニシンを採って帰ってくる北前船がありました。当時、ニシンの数の子は食べますが、身の部分は干して肥料にしていました。この肥料が綿花を育てるのに大変重要な役割を果たしました。それらが農家の仕事で、本当に大変だったのです。
 それからお店での話です。この店でも寝る所は仕事場で忙しい時には午前三時に起こされたものです。六時が朝食です。食事の時は、小僧は最後に坐り、最初に立たねばならず、正坐やあぐらをかいて食べることなどできず、お膳の前で立て膝をついて食べました。飯はいくら食べてもよいのですが、お菜は無くなっていることが多かった。
 昔の商家ではほとんど住み込みで、奉公に行くと、そこに寝泊まりして働くということで、通勤はありません。そうするとそこに入った小僧は、午前3時に起床し、それから掃除などをしたりして午前6時になると朝食ですが、食事は先輩から食べていくので自分が一番若い時には最後になります。そして立つのは最初で、ゆっくり坐って食べられなかった。こういうことが当たり前の労働だったのです。

20世紀初頭の日本の労働②

 今度は近代の工場ということで、明治以降です。産業化が興り、近代の工場が出来てきます。最初にできたのは紡績工場です。紡績工場では昼夜交代の執業方法により、労働時間は11時間または11時間半(休憩時間を除く)となることが通例でした。職工は男女を問わず、また年齢の長幼にかかわらず同一の労働に従事しました。始業および終業の時刻については、昼業部は午前6時に始めて翌日午前6時に終わることが通例でしたが、時季により多少の変更があり、加えて業務の都合により居残り執業が多くありました。通例では、2、3時間でも夜業部の職工の欠席が多いときは、昼業部の職工の一部が継続して執業することもあったということでした。紡績工場で機械を回していくのですが、最初は昼間だけ回していました。ところが、日本がこれを輸出品として世界に売り込んでいくことになってから、できるだけコストを安くして出荷しようとするために、機械は疲労しないので機械を24時間回し続けることで綿糸を作るという話になっていきます。機械は24時間回るのでそれに従事する人も交代制で仕事をするようになるわけです。そこで昼夜2交代、12時間ずつで、休憩時間を除くと11時間から11時間半になるわけです。時々、人が休んだりするわけですが、次の番になったけど次の人が来ないとなると、仕事をしていた人たちがそのまま仕事をするようになります。すると、24時間仕事をしないといけないということが「職工事情」、これは明治政府の農商務省が調査して公表した報告書にでています。そうして機械を効率的に回すために人をつけるための労働時間を作ることになりました。

20世紀初頭の日本の労働③

 日本の紡績業は、創始された明治初年には一般的に昼間のみの就業でしたが、当時の紡績業は昼間作業だけでは採算がとれない実情にあり、次第に夜間執業が行われるようになった。これにより利潤も上がり、国際競争力も増したので、各社は競って1日12時間就業、二交代制の徹夜操業を行うようになった。競争の中で、一社が24時間操業をすると、みんなそれに合わせます。
 この深夜業が工員の健康に悪影響があることから、工場法を議会に提出して、1911年に公布されました。後述しますが、1919年にできるILOですが、その前に日本では働き方のルールとして工場法を作ろうとなり、1911年に公布されますが、実際の施行は1916年で、5年半かかっています。なぜこんなにかかったかと言うと、法律ができてもそれを監督する機関がなかったのです。今でいう労働基準監督署ですが、そういったところがなければ法律を作っても守られているのかを監視する機能がないのです。明治政府は予算がなかったので、法律は作ったがそれを施行できませんでした。ようやく5年半かかり1916年に施行されるのですが、しかし紡績業に与える影響に配慮し、職工を二組以上に分けて、交替で就業させる場合においては、本法施行後15年間第四の規定、すなわち午前10時から午前4時にいたる間の作業を禁ずる規定を適用せずとの一項を加えたのです。当時、紡績業界が、この工場法で深夜業が禁止されたら大変だということで、二交代制については例外とすることを政府に強く働きかけて、この規定が入りました。その後、パリ講和会議でILOが設立され、女子及び年少者の深夜業禁止が取り上げられたことから、1923年に工場法が改正され、深夜業を午前5時までとし、二交代制による猶予期間を1929年6月末までとしたということです。それまでは午前4時から働いていたということです。夏場はともかくとして、午前4時はまだ真っ暗で、その頃から働かなくてはならなかったのを午前5時にしたということです。ゼンセン同盟はもともと繊維産業で働く人たちで作られた労働組合で、私も入局した時に紡績工場に行きましたが、午前五時から始まる二交代制でした。それが午前6時になったのは1980年代の終わり頃です。しかし、二交代制は今でも続いているのですが、女子・年少者の深夜業禁止が当時の工場法ではなかったのです。それがようやく、ILOの条約によりなんとかしなければならないということで法改正があったということです。
 このように少しずつ変わってはいくのですが、そのスピードたるや極めて緩やかなもので、戦前の労働法規制は例外や適用除外が多くほとんどルールとは言えないようなものだったということです。これが100年くらい前の状況です。

集団就職

 昭和30年代から40年代にかけて地方の中学校卒業生が、都会の工場や商店に集団で就職した。今は高校進学率が97.8%で、ほぼ全員が高校に行き、さらにその上の専門学校・大学・短大等のいわゆる高校以上の学校で学ぶ人も半分以上になっています。これも昔からそうであったわけではなく、昭和30年代は、約半分は中学を出て15歳で就職していました。そういった中卒の人たちが地方から集団で都会に出てきたのです。各県は、新卒者をまとめて就職先に送り届けるために、国鉄と交渉して、臨時列車を走らせました。ちょうど日本が高度成長の頃です。当時、集団で就職する人たちは「金の卵」と呼ばれました。高校進学率が昭和30年で51.5%、ちょうど半分です。昭和40年になると70.7%、そこからぐっと高まってきて昭和49年には90.8%になります。このように高度経済成長とともに高校進学率が上がっていくというのが、昭和40年代です。集団就職者の多くは、ある程度望みがあったにしても、生活のため、家計を助けるため、働かねばならなかった。本当は自分がもっと上の学校に行って勉強したいが、家が貧しい、あるいは子供の数が多い、または自分は弟や妹のために働いて仕送りをして、それで弟や妹が高校に行けるようにしてあげたいと働いていた人たちもいます。働いた人の中には定時制高校に四年間通って高卒のキャリアをとってキャリアアップした人もいたという時代です。

戦前・戦後の人口の推移

 そして、人口変化も戦後大きく変わっていきます。例として、大阪、埼玉、長野、鹿児島、青森、秋田、島根県は1920年代からの人口の変化を見ますと、島根、秋田、青森、鹿児島、長野は労働力供給県で集団就職によって都会に労働力を送り出す。例えば、大阪は1944年には戦中で空襲、あるいは疎開があり一気に人口は減りますが、そこから戦後は成長し人口が増えていく。東京の隣の埼玉県も人口が増えていきます。このようにして、大都会になっていくところと人口が増えずに横ばいになっていくところがでてきます。労働移動によって県ごとの人口にも大きく変化を与えていくことになるわけです。その時々の経済状況が労働移動を促し、産業の構造変化にも影響してくるわけです。こうした変化は、一言でいえば、雇用社会の変化と呼べるわけです。働く人の中には、自分で事業を起こすもの、親がやっていた業をそのまま継ぐもの、個人商店、農業などを自分でやるというものもありますが、働き方の大部分は雇用です。

「雇用社会化」

 2017年、89.1%は雇用という働き方です。つまり、「雇用」で社会が成り立っているというわけです。卒業すると就職するという方法を選ぶ方がほとんどで、どこかの企業に就職する、または公務員として国や地方自治体に雇われる、あるいはNPOなどで働く、これらは全て雇用です。雇用という形で、働き方が形作られる。世界の中でも日本は雇用者比率が最も高い国と言っていいと思います。そして、国民が企業から受け取る賃金・俸給(雇用者報酬)は274兆円となっています。274兆円と言われても想像がつかないかもしれませんが、これが1年間に回るわけです。この雇用者報酬を使って人々は生活し、さらに自分の能力を高めてスキルアップに繋げるわけです。これが、GDPの中の六割を占める個人消費になっていくわけです。雇用者報酬は経済の中でも大きなウェイトを占めます。
 これが増えるか減るかによって、国の経済が大きく変わっていく。そうすると政府も雇用者報酬が経済政策の評価になっていく。選挙で政府与党は自分たちの経済政策がうまくいっているから雇用者報酬が増えていると主張するわけです。一方、野党側は、そうではない、統計の見方が一面的であると非難します。2019年の参議院選挙で言うと、政府与党は、景気が良くなったことによって人手不足が起きて、完全失業率は下がり、有効求人倍率は上昇したとアベノミクスの成果を主張します。一方で野党は、人手不足かもしれないが賃金は上がったのか、実際に賃金統計を見ると下がっていると言います。確かに統計調査によると5ヶ月連続で下がっています。人手不足なのに賃金が上がらない。これは経済政策が誤っているのだと主張することになるわけです。こうして政治的な争点になります。雇用社会において雇用者報酬は国民の生活にとって非常に重要なウェイトを占めています。
 そして、景気の変動やグローバル化などの経済環境の変化も雇用に大きな影響を与えます。景気が悪くなると失業が増えるとかです。グローバル化によって、例えば中国である物を作るようになると、コスト競争で日本は太刀打ちできなくなる。そうすると日本国内で空洞化が起きるという問題も生じます。また、高齢化や女性の社会参加の拡大も雇用との関わりが大きい。例えば、定年年齢を延長するのか、女性の参加を拡大するには育児介護を、仕事を辞めずともできるようにする、最近では介護離職をなくすということも政策の大きなテーマになっています。これらを政府がやりますと約束する。これに対して、野党はそれでは不十分ではないかとなるわけです。
 労使間の利害対立もあり、経営者と労働組合が交渉して解決を図っている。もともと、利害対立がありますが、そのまま放置するのではなく、この利害対立をいかに解消するかという中で、労働組合と経営者が協議して規約を作って行きます。このように雇用を巡り経済的にも政治的にも社会的にも様々な課題が解決していく、これを雇用社会と言っています。こうした雇用社会の中で、労働組合は働く者の利害や主張を反映し、実現していくことを役割としています。

第108回ILO総会

 ここからはILOの話をしたいと思います。2019年はILOができて100年になります。今年開かれた100周年総会には私も行ってきましたが、今年、ILO本部はスイスのジュネーブになります。スイスのジュネーブは、第一次大戦後に発足した国際連盟の本部がおかれました。現在は、国連の欧州本部として使われています。パレデナシオンというのですが、ここをILOは総会の時には建物をそのまま借りて開催しています。国際機関の中でも、パレデナシオンを丸々使えるのはILOしかない。これはILOが第一次世界大戦後にできて以来の権益です。今年は6,300人が集まりました。その中には、国家元首、首脳もおり、例えばドイツのメルケル首相、フランスのマクロン大統領、イギリスのメイ首相、ロシアのメドベージェフ首相。こうした人々が次々と演説したわけです。私も聞いていましたが、1日にこれだけの人が演説するのはすごいと思いました。総会では、「暴力・ハラスメント条約(第190号)」が採択されたということと、「仕事の未来に向けた宣言」(ILO100周年記念宣言)が採択されたことが大きな成果です。

ILOのあゆみ①

 ILOの歩みをもう少し追いかけてみたいと思います。ILOは1919年、第一次世界大戦が終わった後に、ベルサイユ条約が結ばれ、国際連盟とともに誕生します。第一次大戦の反省から生まれたのです。ヨーロッパは勝った国も負けた国も戦場となって疲弊したことから、平和がいかに重要か、戦争は市民生活を脅かし、貧困にしてしまう。こうしたことをなくすためには、まず平和が重要であるとして、社会正義の実現が重要であると強く認識されます。そして、世界経済の相互依存性及び市場を求めて競争する国々の労働条件の差異を縮小するための協力の必要性が認識されました。これらが、ILOを作る背景にありました。
 ILOが必要とされた起源はもっと古く、19世紀になります。資本主義の成立過程で、産業革命もおき、近代の産業化が始まるわけですが、長時間労働、低賃金、年少者・女性の過酷労働などの社会問題が起こってきます。私が一橋大学で学んでいた頃、前期ゼミは依光先生のゼミでしたが、そこで学んだのが産業革命期における社会問題でした。経済学部には外池正治先生がおり、この人も産業革命期の問題をずっと研究されておられました。講義は非常に刺激となりました。
 社会正義、ソーシャル・ジャスティスという言葉はILOでたくさん使われます。ILOの基本原則の一つと言っていいですが、我々は当たり前に使っていますが、2019年のG20で、日本が議長国になりG20の声明をまとめようとした際に、社会正義という言葉を入れようとしたら、アメリカが反対しました。アメリカのトランプ大統領の側近たちはソーシャル・ジャスティスという言葉はどうも好きではないらしく、非常に曖昧であり、曖昧な言葉は使うべきじゃないと言っていました。しかし、曖昧ではありません。100年間使っている言葉です。この時に価値観の違いを感じました。ILOの中では、こうしたことを大事にしています。一部の先覚者は労働者を保護するための立法が必要であると考えました。労働者を搾取する形で経済が続くわけはないと考える人たちもいたわけです。ロバート・オーウェンなどです。しかし、一経営者が自分たちのところだけでやっても、逆に国内での競争力を弱体化させ淘汰されてしまうと。考えていることは正しいが、実行したら、うちの会社は負けてしまうと思ったわけです。そこで、国際的なルールとしないと、すぐに潰されてしまう。そういうことから、労働に関するルールは国際的に作っていく必要があるということがILOの必要性です。

ILOのあゆみ②:ILO憲章

 そのようにILOができたわけですが、ILOが創設された1919年にILO憲章が起草されました。世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる。世界の平和及び協調が危うくされるほど大きな社会不安を起こすような不正、困苦及び窮乏を多数の人民にもたらす労働条件が存在し、且つ、これらの労働条件を改善することが急務である。いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる。これらが理念として作られたものがILO憲章です。

ILOのあゆみ③

 そして、ILOは改善分野を出します。一日及び一週の最長労働時間の設定を含む労働時間の規制。労働力供給の調整、失業の防止、妥当な生活賃金の支給。雇用から生ずる疾病・疾患・負傷に対する労働者の保護。児童・若年者・婦人の保護。老年及び廃疾に対する給付、自国以外の国において使用される場合における労働者の利益の保護。同一価値の労働に対する同一報酬の原則の承認。結社の自由の原則の承認。職業的及び技術的教育の組織ならびに他の措置による改善。これらを100年前に作るわけですが、今日でも重要な原則として当てはまります。これらの原則は今でも通用するものと言っていいと思います。逆に言えば、進んでいないという面もあります。

ILOのあゆみ④:第1回総会

 1919年、アメリカのワシントンで第1回総会が開かれ、工業の労働時間、失業、母性保護、女性の夜業、工業に従事する最低年齢と若年者の夜業に関する6つの条約を採択しました。翌年にはジュネーブに本部がおかれます。これで世界平和をめざしたわけですが、もう一度世界大戦が起こってしまうわけです。1930年代から日本も世界大戦に突入していくわけですが、世界は再び第二次世界大戦の戦火に見舞われたが、ILOは縮小しながらも活動を続けます。1944年、戦争が終わる前年、つまり日本がポツダム宣言を受諾する前年ですが、ILOは第二次世界大戦が終結後を考えて、フィラデルフィア、アメリカの独立宣言が出された都市で「宣言」を発します。これが有名なILOフィラデルフィア宣言です。労働は商品ではない。表現と結社の自由は、不断の進歩のために欠くことはできない。世界のどこの片隅にでも貧困があれば、それは全体の繁栄を脅かす。欠乏に対する戦は、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が政府の代表と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定にともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する。特に、労働は商品ではないは有名な言葉です。Labor is not commodityです。どういう意味か。不思議だと思うかもしれません。労働を提供することによって、対価としての賃金を獲得するのであるから、いわば商品のようなものではないかと思うかもしれません。確かに、金銭の交換によって成り立つ側面もあると思います。では、なぜ商品ではないと言ったのか。例えば、リンゴやみかんは、お金を出して買うと所有物となります。所有物となったリンゴやみかんは今すぐ食べようか、しばらく置いておこうが自由です。しかし、労働はそうではありません。労働は買った人の所有物になるわけではありません。奴隷的な労働ではないわけです。そこには、働いている人の人権・人格があり、それらを尊重しなければなりません。そして、最低限のルールを作らなければならないし、安ければいいと買い叩くことはあってはならない。また、一物一価ではなく、労働は、自分で能力を磨くことができる。そうすると、昨日働いていく時と、ずっと訓練して働いてきた時とでは、労働能力は大きく違ってきます。その人の能力を評価していく仕組みが必要であるということです。情報の非対称的があります。経営者は、様々な情報を持っています。この人にいくら賃金を払って、この人にはいくらと。労働者個人は自分がいくらもらっているかは知っていても、隣で働く労働者がいくらもらっているかは知りません。つまり、情報を持っていないのです。そこに交渉力の違いがあります。こうした違いをカヴァーしないと、力のあるものが権力を行使し、労働者が搾取されてしまうことになります。これが、労働は商品ではないと言っていることの意味です。

ILOのあゆみ⑤

 そして、戦後の1946年、ILOは新たに設立された国際連合と協定を結んだ最初の専門機関となり、植民地解放など新しい国際秩序のもとで加盟国は倍増し、使命は高まっていきます。新しく独立した途上国がどんどんILOに加盟します。途上国が多数を占める中、技術協力が正式な活動として規定され、その活動は飛躍的に発展しました。そして、国際労働基準の設定や監視機構、さらに職場の安全や平和的な労使関係などを推進する政策の導入など、産業社会に社会正義を実現するための活動が評価され、創立50周年にあたる1969年にはノーベル平和賞を受賞しました。その後、経済のグローバル化が進み、1998年に「労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言とそのフォローアップ」が採択されました。そこでILO条約の中の8つの条約を中核条約と定め、加盟国はその尊重、促進、実現に向けて努めるということになります。

ILOの中核的労働基準8条約

 ILOの中核条約の8条約は、4つの分野にまたがります。結社の自由・団体交渉権の承認。これは87号、98号です。強制労働の禁止、29号、105号。児童労働の禁止、138号、182号。差別の撤廃、100号、111号。いかなる国であっても、この8つの中核条約は守らなければならない。批准していなくとも、その推進に向けて努力する、実現に向けて努力するという内容になっています。
 ただし、日本は、8条約のうち2条約、105号と111号、強制労働に関する条約と差別の撤廃に関する条約はまだ未批准です。戦後、公務員の労働基本権に関わる問題によるものです。戦後の民主化の中で共産党勢力がどんどん入ってきて、ストライキを決行しようとしたことがあり、その中でマッカーサー指令に基づき、公務員のストライキを禁止しました。扇動する場合には、懲役刑を含む罰則を課します。これが、105号条約に引っかかります。それゆえに日本はまで批准できないのです。
 111号、雇用及び職業についての差別待遇に関する条約、これは一般に差別撤廃のための包括的な法律、人種、肌の色、宗教、性を理由にして差別的な取り扱いはしてはならないという包括的な禁止法があればいいのですが日本にはありません。ただ、そういった差別の禁止がないのかというと、そうではなく個別法で禁止されています。例えば、性、女性であることを理由に差別的取り扱いすることを禁止内容は、労働基準法にもありますし、男女雇用機会均等法の中にもあります。年齢による差別禁止は、採用や募集時に、年齢を理由として差別してはいけない内容はあります。ただし、定年制を設けてもいいのだけど、それは60歳以上にしなければならないということになります。他の国からすれば、年齢による差別の禁止は、定年制そのものもいけないという国もあります。しかし日本は認めています。年齢による差別の禁止もありますし、障害者の差別の禁止というのもできました。部分的にはできていますが、全体的に見れば足りないところもあり、111号を批准していないというところがあります。ここがちょっと、先進国として遅れているところであって、ここをなんとかしなくてはいけないと思っています。

ILOのあゆみ⑥

 2008年に「公正なグローバル化のための社会正義に関するILO宣言」が採択されました。この中で「ディーセント・ワーク」という言葉が出てきます。働きがいのある人間らしい労働と訳していますが、ディーセントは、まともな、あるいはほどほどといった意味合いです。では、ディーセント・ワークができているかというと決してそうではない。これは、ILOの概念として進めていくということを示しています。これは、2015年に採択された持続可能な開発目標(SDGs)の中にも入っています。2008年のリーマンショックで金融経済危機に瀕し、その後の2009年に行われた第98回総会では、「危機からの回復 グローバル・ジョブズ・パクト」を採択しました。国際的な金融経済危機が、社会と雇用にもたらす影響に鑑み、投資、雇用、社会的保護を中心とする生産性のある回復を促進すべきことを宣言したものとなっています。このように、ILOは100年の歴史の中で、時代の節目、節目で重要なメッセージを発してきました。

ILOの三者構成原則

 ILOの最大の特徴は三者構成であり、これは非常にユニークなものです。政府の代表だけでなく、労働者、使用者の代表が対等な立場で意見を述べるというものです。総会や理事会のメンバーは、政府代表が2、労働者代表が1、使用者代表が1の割合で構成しています。ILOの本会議場で日本の席は4つありますが、4つのうちの真ん中二つが政府。右側が日本経団連の代表、つまり使用者側の代表です。そして、左端が私です。このように三者構成で必ず議論することになっています。

ILOと日本

 では、日本とILOがどのように関わってきたのかということですが、日本はILO創立時からの原加盟国の一つです。第一次世界大戦で日本は直接戦争に参加はしなかったのですが、当時の日本はまだ経済が脆弱で、労働の状況は貧弱なものでした。例えば、労働組合を作ろうにも、治安警察法によって団結権、ストライキ権は事実上封じられている。労働組合を作るという動きもあったのですが、当時、衆議院は通過したのですが、勅選議員で構成される貴族院が労働組合法に反対して潰してしまって、結局日の目を見ないまま、1945年の第二次世界大戦の終結まで法律が制定されることはなかった。そういう意味で、結社の自由は完全に認められてはいなかった。

日本における8時間労働制

 ILOが設立された1919年、日本は米価が5年前の3-4倍に跳ね上がるなど、生活難が国民生活を襲い、米騒動や労働争議が全国で相次いでいた非常に不安が高まった時期です。その年の9月17日、神戸の川崎造船船本工場でサボタージュ闘争が発生しました。当時の松方幸次郎社長は当時、我が国で初めて8時間労働を始めた人です。日本の労働時間法制は、ILOが出来た当時の国際水準には到底及ばないものでした。しかしながら、先ほど話した工場法は、1日14時間労働が認められていて、2組以上に分かれた交代労働制労働の深夜業には禁止規定が適用されていなかったことなどの問題もありました。これらは少しずつ直すことになり、工場法改正、深夜業の猶予期間を短縮するなど、ILOが出来たことによって、少しながら日本も変わっていったのです。微々たるものでしたが、しかし、ILOの影響が全くなかったわけでもないということです。日本における8時間労働制はこのような経過を辿りながら、川崎造船から始まりました。

ILOと日本②

 さらにILOと日本のつながりということでは、原加盟国ではあったのですが、戦時体制に突入した日本は、1933年に国際連盟を脱退し、同時にILOを脱退します。日本は国際社会から孤立することになったわけですが、戦後、日本がILOに復帰するのは1956年の3月サンフランシスコ講和条約発効後のことです。その後、日本はアジアの先進国として、ILOの活動に積極的に参加してきた。政府は常任理事国のポストを現在まで継続している。労働者側も1966年から継続して、正理事職を務めてきました。さらに、日本のILOの通常予算に対する分担金は、アメリカに次ぐ2番目の高さですが、ILO職員に占める日本人の割合は低いです。なかなか国際機関で働く人はいなくなってきた。それから、日本はILO条約(190)のうち、批准しているのは49に過ぎず、先進国の中では低い方に位置する。とりわけ、先ほども話した、中核8条約のうち、2条約が未批准となっています。公務員の労働基本権についても制約されており、ILOから勧告を受けています。しかし、日本政府は一向に改善する気を見せない状態です。これらが日本とILOの関わりです。

仕事の未来に向けたILO創立100周年宣言

 そして、100周年のタイミングでILOは、「仕事の未来に向けた100周年宣言」というものを出しました。これは、先ほどのILO憲章、フィラデルフィア宣言などを踏まえ、価値観を再認識した上で、次の100年においてILOがどのように進んでいくのかということを宣言したものです。宣言前文では、政労使三者の継続的且つ協調的な活動が、社会正義の実現、民主主義及び普遍的且つ恒久的な平和の推進のために必要不可欠であること、社会対話が社会の全体としての検測に貢献し、十分に機能し生産的な経済にとって極めて重要であるとの認識を再確認するという内容です。これに先立って、仕事の未来世界委員会で報告書が作られます。日本からも専門家として、慶応大学塾長を務めていた清家篤さんが世界委員の一人として参加されていました。仕事の未来報告書は100周年宣言にも活かされています。
 宣言では、ILOが今後力を振り向けるべき点として、持続可能な発展に寄与する仕事の未来への公正な移行、ディーセント・ワークと持続可能な発展を達成するための、社会対話の利用を含む、テクノロジーの進歩と生産性の向上の最大限の活用、全ての労働者の職業人生を通した技術、能力、資格の獲得の推進、若年者にディーセント・ワークの機会を創出することを目的とした有効な政策の立案、高齢労働者に就業機会を利用しながら選択を広げ、活動的な加齢を可能にする方策の支援です。
 そして、包括的で持続可能な成長を要素とする労働者の権利の促進、男女の同一労働に対する同一の賃金を含めた平等な機会、参画及び待遇の保証、障がい者やその他の被害を受けやすい人々のために仕事の世界において平等な機会と待遇の保証、中小零細事業、協同組合、社会的連帯経済における企業や持続可能な企業を可能にする環境の促進、質の高い公共サービスの供給者である公共セクターの役割支援、労働行政と監督の強化です。こういったことを課題として列挙しました。
 さらに、国内及びグローバルサプライチェーンにおけるディーセント・ワークの推奨、強制労働および児童労働の廃絶、インフォーマルからフォーマル経済への移行の推進、適切で持続可能かつ仕事の世界の発展状況に適応した社会的保護システムの強化、国際移民労働に関連した業務の更なる掘り下げ、政策の一貫性強化を念頭に置いた多国間システム内での取り組みと協力の強化です。これら一つひとつを取り上げて説明すると、とても時間が足りませんが、知ってもらいたいのは、労働に関するルールはどんどん広がり、経済のグローバル化とともに、移民労働が増えてくる、ヨーロッパやアメリカでは問題になっていますが、そこでどのようなルールを作るのか、新しい問題は次から次へと生まれています。今申し上げたものが、今後100年の課題として認識されたということです。

ディーセント・ワーク

 2015年に国連が「持続可能な開発目標(SDGs)」というものを作ります。その中の目標8が、ディーセント・ワークです。権利が保障される仕事、十分な収入を生み出す仕事、適切な社会的保護が与えられる仕事、十分な仕事があること、これらがディーセント・ワークの柱となっています。

第108回総会における代表演説

 各国首脳が演説するのですが、各国の労使も演説します。わたしも、本会議場で演説をしました。ILOの事務局長は政府の人が就任することが多いのですが、現在は労働者側、イギリスの労働組合のナショナルセンターであるTUCに所属していたガイ・ライダーさんが事務局長を務めていて、私も親しくしています。
 残念ながら、時間が参りましたので、これで終わりたいと思います。ご清聴どうもありがとうございました。

以 上

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