雇用と生活を守る取り組み〜企業再編における労働組合の対応
1.KDDIとは
みなさんこんにちは。はじめに「KDDI」とはいったいどのような会社なのかを説明します。「KDDI」は、みなさんご存知の「au」の携帯電話を提供している会社です。本体と呼ばれる「KDDI株式会社」に所属している社員数は約1万6000~1万7000名です。グループ全体では、数10社を抱えており、だいたい4万名ほどの規模になります。その中で組合は「KDDI労働組合」しかありません。組合員数は1万3500名です。男女の比率は社員の比率と同じで、2割が女性、8割が男性です。最近の新入社員の採用状況は、男女がほぼ半数ずつになってきています。私の時代は、社会学部などの文科系学部から入社したのは30名で、その中に女性は3名しかいませんでした。残念ながら多くは3年で辞めてしまいました。今、同期で残っているのは10名ほどです。1万3500名のうち、3850名は契約社員です。国内には47都道府県すべてに拠点、支店や支社があります。海外には24カ国、49都市、78拠点あります。これは現地採用もあれば、日本から海外へ赴任している方もいます。当然、日本から赴任している方には組合員の方もいます。現地採用の方で労働組合に入っている方はいません。国内のグループ会社の中でも、労働組合と協定を結んでいない会社もたくさんあります。「KDDI労働組合」としては、「KDDI株式会社」と「KDDIエンジニアリング」と「KDDIまとめてオフィス」という3つの会社しか労使関係ができていないという現状があります。
私はその「KDDI労働組合」で委員長をしています。ここから少し、私自身のお話をさせて頂きます。私は1998年(平成10年)に「国際電信電話株式会社」に入社しました。スライドの左端に「KDD」と書いてありますが、1998年の時点までは「国際電信電話株式会社」という名前でした。国際のKと、電信のDと電話のDを取って、「KDD」と通称で言われていたのです。入社していくつかの部署で勤務しました。2006年7月から会社を休職して、労働組合の専従役員となり、今に至ります。今年の7月で、労働組合の役員となって丸9年となりましたので、社員として働いた期間よりも、専従役員の期間の方が長くなってしまいました。
組合の専従役員は、まさしく1日中組合の仕事をしていて、「KDDI」の仕事はまったくしていません。給料も「KDDI」からではなく、組合から頂いています。2006年に専従役員になってから、さまざまな取り組みをしてきました。日本国内の職場はもちろん、海外の職場でも、現地で働いている組合員と意見交換をしたり、その意見を参考にして、会社の施策に反映させるという仕事をしたりして、労働組合の醍醐味を感じつつ過ごしてきました。私は元々東北の片田舎の出身で、学生時代は、もう少しモラトリアムが欲しいと思い、最初は大学院に行って勉強したいと考えていたのですが、いろいろな事情があって就職することになりました。就職活動中は大きく2つ、どうせ働くなら海外で働ける職場か、長男なので、実家の面倒を見ながら近くで働くことができる職場のどちらかを望んでいました。それで「国際電信電話株式会社」と、私の地元である宮城県仙台市にある地方銀行の「七十七銀行」の両方を受けました。ちょうど教職免許科目も履修していましたので、銀行の方は、身体検査と教育実習が重なったことで話がなくなり、最終的に「KDD」に入社することになりました。海外関係のある会社だと思い、少し期待していたのですが、入社後配属された部署は総務部で、まったく海外の匂いのしない超ドメスティックな部署に配置となってしまいました。社内には「海外研修制度」がありました。同期でも東大や京大出身者、女性社員が採用され、2年ほどフランスやオーストラリア、ニューヨークなどに派遣されて勉強してきました。しかし、まったく私にはチャンスがありませんでした。しかし、組合で仕事することになって、海外の労働組合のみなさんと話をする機会を得たことは、ちょっと不思議な感じがします。
労働組合に対しては、一般的にあまり良いイメージを持っていないのではないかと勝手に思っているのですが、実際、身を投じてみると、他の社員ではぜったいに経験できないことが経験できますし、その企業で一生を終えると考えた場合、その企業の中でいちばん会社に詳しくなっているだろうと自負しています。今では組合で働くことができて良かったと思っています。「KDDIグループ」の中だけに留まって組合活動をしているわけではありませんので、見聞を広める機会も頂いています。日本では「企業別労働組合」と、その上に「産業別労働組合」というものがあります。我々が所属しているのは「情報通信産業労働組合連合会」(情報労連)です。そこにはライバルの「NTTグループ」の組合である「NTT労働組合」も加盟しています。利害関係を超えて、情報通信産業で働く組合員のために、助け合いながら活動をしています。「情報労連」では、260の労働組合が加盟しており、22万人の組合員が集っています。そうしたスケールメリットを活かしたさまざまな活動を行っています。
今日は「KDDIグループ」の歴史を振り返りながら、労働組合がどういった活動をしてきたかをお話したいと思います。組合論ではなく、1つの企業の歴史に触れて頂くことになりますので、期待されている内容と異なるかもしれませんが、その点は後ほどの質疑応答の中で解消できればと思います。
2.KDDIグループ誕生・変遷と労働組合の対応
「KDDIグループ」誕生から、今日までの変遷をダイジェストでお話したいと思います。お手元のスライドの1と2を交互に眺めながらお話を聞いてください。1の資料は、「情報通信白書平成26年度版」から抜粋しましたので見づらいと思います。復習される方は講義終了後、ネットでご覧ください。
見て頂いたとおり、情報通信業界はものすごい数の会社が存在し、これらが合従連衡して、今は大きく「NTTグループ」「ソフトバンクグループ」「KDDIグループ」という3つの連合に集約されています。
このスライドの真ん中の「KDDIグループ」の変遷についてお話します。1998年12月、私が入社した年に、「国際電信電話株式会社」と「日本高速通信株式会社(TWJ)」が合併します。これで「新生KDD」ができました。これが合併の第一弾になります。この時に初めて正式に「KDD」という会社名が誕生しました。それまでは愛称、通称として呼ばれていましたが、この合併で「KDD株式会社」という正式名称になりました。
その2年後の2000年に「KDD株式会社」と「第二電電(DDI)」と「日本移動通信株式会社(IDO)」の3つが合併します。社内ではこれを「三社合併」と呼んでおり、「三社合併の時」「三社合併から」というように、固有名詞のような使われ方をしていて、ターニングポイントとして用いられることが多いです。さて、この3社の他に、2000年11月時点で「DDI」の子会社で携帯電話を提供していた会社が全国に7社ありました。それらは、「北海道セルラー」「東北セルラー」「関西セルラー」というように「セルラー7社」と呼ばれていました。その7社が「三社合併」の裏で合併し、「株式会社au」を作っています。初めて「au」という名前が世の中に出てきたのがこの時です。当時の携帯電話市場は、「au」と「ドコモ」「ソフトバンク」という3大キャリアが全国展開していたわけではなく、「ドコモ」と「三社合併」の1つだった「IDO」、「セルラー7社」「Jフォン」「ツーカーグループ」に分かれて競争していました。今よりキャリアがたくさんあった時代です。ちなみに「au」の意味をご存じの方はいらっしゃいますか?「au」の「a」は「access」「always」「amenity」、「au」の「u」は「unique」「universal」「user」です。その頭文字を組み合わせた造語で、さらに「access to you」という意味もあるそうです。社内で初めて「au」というブランドを展開すると聞いた時は、賛否両論あった印象があります。そして2001年10月に「KDDI」が「株式会社au」とさらに合併します。これが今の「KDDIグループ」の原型となっています。そのあとしばらくして、2005年10月に「KDDI」の子会社であり、携帯電話会社の「ツーカーグループ」3社と合併します。その次の年、2006年1月に「東京電力」の子会社で光ファイバーのサービス会社だった「株式会社パワードコム」とさらに合併します。その2年後、2008年7月、今度は「KDDIグループ」の子会社で企業向けソリューションサービスや衛星通信サービスを提供していた「KDDIネットワーク&ソリューションズ(KNSL)」という会社を吸収合併しました。これでようやく今の「KDDIグループ」が完成するのです。「国際電電」から「KNSL」まで合計16社が合併して今日に至るわけです。近年の日本の中で、これほど多くの会社が合併したにも関わらず、潰れずに成長し続けているのは他に例がないと思います。ここから先については、合併のタイミングを少し大きく区切って、その際に労働組合がどんな行動をしたのかをお話したいと思います。資料としてお配りしている一枚ものの方を第1章から第4章に分けていますので、4つに区切ってお話します。パワポの方はその補足資料となっていますので、こちらも参考にしながら話を聞いて頂ければと思います。スライド2は1998年から2000年、そして、2008年の「KNSL」との合併までを少し分かりやすくしたものです。「ニコちゃんマーク」がついているのは労働組合があった会社です。
(1)KDDIグループ誕生前夜
まず「国際電電」と「テレウェイ」の合併についてお話したいと思います。
1998年ですから、みなさん生まれて間もない頃だと思います。「国際電信電話株式会社」という会社がありました。この会社はどういう会社かというと、国際電話をほぼ独占していた会社です。そこに私は入社したわけです。みなさんは「KDD」という会社があったことを知らないと思います。日本の通信は、戦後から1985年の「通信自由化」が実施されるまで、国内については「NTT」、国際については「KDD」がそれぞれ独占していました。
1985年に、「電気通信事業法」が改正され、新しい事業者が参入できるようになったため、国内、国際ともに競争が行われるようになったのです。98年にそれまで国際通信を専門にしていた「KDD」も、国内通信に入るという戦略を取りました。そのため98年12月に「テレウェイ」と合併したのです。この会社は「トヨタ」系の資本が入った会社です。これが通信業界の合従連衡のスタートとなりました。ちなみになぜこの合併が行われたかと言うと、「国際電電」ですから海に光ファイバーを敷くのは得意なのです。御存じだと思いますが、アメリカと通信をするために、光ファイバーが太平洋に数千キロにも渡り、数十本も張り巡らされているわけですし、当時は「ジャパン・インフォメーション・ハイウェイ」という構想があり、日本列島の海底を光ファイバーがグルッと取り巻いていたのです。片や「テレウェイ」という会社は「トヨタ」系列ですから、高速道路に光ファイバーをたくさん持っていました。そこで、海と高速道路で通信を融合させて、国内に参入していけば勝てるのではないかという戦略があったようです。「新生KDD」はそうした思惑によって誕生しました。
私は「国際電電」最後の新入社員です。入社して8カ月後にいきなり企業合併を経験したわけですが、入社する時点で合併のことはよく分かっていませんでしたし、合併したあとどうなるかも分かりませんでした。当然、1社員がそんなことを心配してもどうしようもありませんし、何を心配していいのかも分からなかったわけですが、春に入社して年末に会社が変わっているという経験はできました。たぶんみなさんも、これから就職した際に、その業界の競争が激しければ、入った会社が気づいた時には別の会社になっていたということがあるかもしれません。
「KDD」と「テレウェイ」が合併し、社名が「KDD株式会社」になりました。この時、この名称を使ったのは、事実上「KDD」が「テレウェイ」を吸収合併したということです。もちろん企業合併の際は、吸収合併とは言われず、だいたい対等合併と言われるものですが、どちらかが主導権を握るのが王道ですから、この時は「KDD」がその立場にあったということになります。なぜかというと、国際通信を担ってきた「KDD」は、その通称が世界中でブランド化されていて、通信事業者にも知れ渡っていてネームバリューがあったし、ほぼ国営の会社で資産も潤沢にあったため、通称を正式な社名にすることになったのです。このあたりから、社名をアルファベット表記で法人登記できるようにもなっていました。
その時の労働組合の動きをダイジェストでお話したいと思います。その当時、「国際電電」には「国際電信電話労働組合」というものがありました。片や、「テレウェイ」には労働組合はありませんでした。現在の「KDDI労働組合」の母体はこの「国際電電労組」です。
国際電電と国際電電労組は「ユニオン・ショップ協定」を締結しており、非管理職は全員組合員という状態でした。ユニオン・ショップ協定については、基本的に管理職でない人は全員組合員になるということだと思って頂いていいのですが、ただし、非管理職でも、会社の企業秘密に従事する人、たとえば経理部とか財務部、あとは会社によって名前が違いますが、経営企画戦略部とかにいて、経営の根幹に関わる社員については、いくら協定を結んでいても、組合員であっても、組合の権利は一部しか享受できない仕組みになっています。これは、この時の協約の内容です。
協定により、私も入社と同時に組合員となったわけですが、その時あまり自覚はなく、むしろ「なぜ強制的に組合員にならなければならないのだろう」という若干の不満を持っていました。学生時代に労働法の講義は受けていましたが、労働組合に対してあまり良いイメージを持っていなくて、会社とか社会に立てつく集団というイメージもあり、できれば関わりたくないと思っていました。それなのに今、こうして労組の委員長として、みなさんに組合の話をしているわけですから、人生とはどこで変わるか分からないものだなと感じています。
テレウェイに労働組合はありませんでしたから、2つの企業合併に伴い、労働条件については国際電電労組が2社で構成する「合併準備委員会」に対して交渉していくことになりました。具体的には、国際電電労組は国際電電とのあいだに「合併準備連絡会」というものを設置して交渉しました。さらに労働組合の中に「合併準備対策委員会」を設置して、組織的な準備を進めました。「臨時全国大会」という会議を開き、合併に対する方針を確認したり、会社との団体交渉を開いてさまざまな条件について交渉を行っていました。臨時全国大会で、「国際電信電話労働組合」から「KDD労働組合」と名称変更しています。
合併に先立つ97年11月に「国際電電」と「テレウェイ」の両社で合併に向けた基本合意が行われました。合併の1年前のことです。その日のうちに労組に対して会社から説明がありました。これを「会社説明」と我々は呼んでいますが、事務折衝と言われる労使協議の一種であり、会社の何かの出来事に対して会社から一方的に事情説明する場面で使われるものです。そのあと、12月5日に労働組合で「全国支部長会議」を開催し、合併に対する労働組合の対応について確認をしました。これは組合員にも周知されます。合併に対して会社間に「合併準備委員会」、労使間に「合併準備労使協議会」、組合の中に「合併準備対策検討委員会」というものが立ち上げられ、合併期日を目指して、それぞれ、さまざまな準備が進められました。会社間の会議である合併準備委員会は1年のあいだに10回ほど開かれました。労使間の合併準備労使協議会も10回ぐらい、それから労組内の合併準備対策検討委員会は正式に合併調印が行われたあとには7回という記録が残っていますが、それ以前の記録は確認できませんでしたが、かなりの回数開催されていたようです。これら3つの会議はどのように連携していたかというと、合併準備委員会で合併に向けていろいろな話をし、その情報を労使間の合併準備労使協議会や、労組内の合併準備対策検討委員会で情報共有していくという構図だったようです。その他にも「全国支部長会議」とか「全国事務局長会議」というものも、都度開催されました。
98年7月29日に「合併契約調印」が行われ、本格的な準備が12月まで進められ、労働条件などを議題に労使間で数多くの会議が持たれました。
合併に対して労働組合はどう考えていたのかを、スライド5にまとめてあります。労働組合は、合併について積極的な経営姿勢だと受け止め、「前向きに対応していく」と表明しました。労働組合としては、雇用の安定確保と労働条件の維持向上を目指していたので、「ユニオン・ショップ制を基本としてください」と会社側に求めました。
今日のテーマのひとつである「企業の再編に伴って、労働組合が何をしたのか」という視点に立つと、この合併を労働組合が積極的に評価していたということが重要だと思います。評価はするものの、雇用の安定は守るという、労働組合の基本的な使命はしっかり貫いているのが重要なポイントです。合併に対して、労働組合が前向きに受け止めたことは、労働組合の役割を知らないとなかなか理解できないと思います。労働組合は、単に組合員の賃金を引き上げたり、残業時間を減らしたり、処遇の改善に力を注いでおけばいいというものではありません。それらに匹敵する役割として、自分たちが働く会社をどうしていくかという、経営への参加という役割も担っていることを我々は自覚しているのです。実際に今も「KDDI労働組合」と「KDDI」のあいだで「経営方針概要協議」を行って、社長を始めとする各部門の担当役員等と、経営状況や今後の経営方針について意見交換をしています。その場で労働組合側から組合員が会社の経営について思っていることを伝えたり、字面では分からないような会社経営陣の思いを聞き、それを組合員にフィードバックするなどの役割を果たしています。この役割を労組が担っているという観点から、当時の状況を踏まえて、厳しい競争状態にある通信業界だけれども、この合併について前向きに捉え、良い結果をもたらすと評価したのだと思います。
労働組合のさらに具体的な取り組みとしては、会社間で設置した協議、委員会の他に、労使間で「労使協議会」というものを作っているのですが、これについては、会社側も、合併という一大事があって、担当役員や人事部長、人事部の人たちがメンバーになりましたし、組合側は我々のような専従役員がメンバーになって開催しました。そして1年に10回、1ヶ月に1回弱ぐらいのペースで会議を開いて、合併についての労働条件の詰めをやっていたわけです。
テレウェイに労働組合がなかったので、合併により「新生KDD」は国際電電と国際電電労組が締結していた労働協約をすべて継承することになりました。ユニオン・ショップ協定も存続したことで、テレウェイの社員は合併と同時に組合員となったのです。もちろん合併前後には、労働組合役員はテレウェイの事務所に行き、労働組合についての説明を行いましたし、会社側も説明を行っていたと聞いています。労働協約が継承されるということは、テレウェイの社員が強制的に労働組合員になったということだけではなく、テレウェイの社員に国際電電の労働条件が適用されることになったということでもあります。当時のテレウェイと国際電電の労働条件を比較すると、ほとんどの分野で国際電電の労働条件の方が上回っていたので、テレウェイの社員は合併により給料が上がったり、処遇がおおむね向上するという効果がありました。もちろん新生KDDとして、あるべき労働条件を新たに作成したり、変更を重ねた部分もあります。労働組合が合併の交渉に加わって「労働協約をそのまま継承してください」と、条件を整える取り組みを進めることができたことが、どちらの社員にとっても安心して働ける労働環境を整えることができたということを理解して頂きたいと思います。
(2)KDDIグループ誕生(三社合併)
1998年の12月に「新生KDD」が誕生しました。この時、情報通信産業はどうなっていたかと言うと、巨大な「NTT」への対抗軸を作らなくてはいけないと世の中が動いていた時代です。昔のコマーシャルを「YouTube」などで調べると、かなり刺激的なコマーシャルをして「NTT」へ対抗しているのが分かります。特に固定系の通信、光ファイバーなどのサービスは「NTT」、そして「新生KDD」「第二電電DDI」、それから「日本テレコム」。携帯電話業界は「ドコモ」「日本移動通信」「セルラー7社」「Jフォン」等が乱立していました。これら「ドコモ」を含んだ「NTTグループ」にどう対抗していくかが、もう一段の企業再編を加速したと言われていましたし、そういう認識は我々社員にもありました。
このような背景があって、2000年10月に「KDD」「DDI」「IDO」が合併したのです。この時点で「NTTドコモ」が全国で携帯電話を提供しているにも関わらず、他の携帯電話会社が各地域で事業展開していたこともあって、翌年「セルラー7社」がさらに合併して、事実上の対抗軸が完成することになったのです。この時の「三社合併」を伝える報道の中に「野武士集団のDDI。公家集団のKDD」と揶揄されたものが多く見られました。通信自由化で新たに創業したDDIがガッツ溢れるベンチャー企業であるのに対し、KDDは日本の通信業界の黎明期からNTTと共に日本の通信主権を国際通信の分野で担ってきたので、完全に官僚体質の会社だったのです。実際の職場では、それほどいがみ合うことはなく、組織をミラー化して合併しやすいようにしたり、同じビルに入って合併の準備をしたりと、わりと和気あいあいとした雰囲気でした。この「三社合併」が現在の「KDDIグループ」の基本形となるものでしたが、あらゆる分野で苦労した時期でもあります。
この「三社合併」の基本は、「DDI」が存続会社になったということです。こうした合併は一般的に対等合併と捉えられがちですが、「三社合併」の時は、「KDD」ができた時よりも明確で、「DDI」が「KDD」と「IDO」を吸収合併することが社内で明確にされました。これは「DDI」を作った稲盛和夫さん、現「KDDI」最高顧問ですが、この方が発表を主導し、すべての経営を「DDI」に集中させるという強い意志が現れていたと言われています。「KDDI」という言葉は、「KDD」と「DDI」と「IDO」のそれぞれのロゴをくっ付けて作ったと言われていますが、社内では「株式会社DDIの略称だろう」と言う人が多く、私は「KDD」出身ですので、肩身の狭い思いをしたことを今でも覚えています。
その時の労働組合の取り組みですが、まず合併の直前に「合併準備委員会」が会社間で設立されました。そのあと「合併準備連絡会」が労使間で設立され、労組の中には「合併準備対策委員会」が作られました。それぞれいろいろな取り組みをしているのですが、1999年12月から2000年の合併直前まで、たった1年間ですが、今回は16回も公式会議が開かれていて、三社合併には非常に重たい作業があったことが伺い知れます。2000年7月に、労働組合も定期全国大会を開催し、それまで会社と交渉していた就業時間や年次有給休暇など、基本的な就業条件についてはその大会の中で労働組合としての案を決定し、組合の名前も「KDDI労働組合」に変更することになりました。
この時点では、新しい会社とユニオン・ショップ協定を締結するかどうかは決まっていませんでした。大会の中で労働組合として「ユニオン・ショップ協定にしてほしい」ことを決定し、会社に交渉を強めていくことを確認しています。現在はユニオン・ショップ協定を締結していますが、合併時にユニオン・ショップ協定を結ぶことはできませんでした。当時、なぜそれができなかったかと言うと、会社間の「合併準備委員会」がギリギリまで態度を表明しなかったのです。合併は10月でしたが、9月6日に開催された「合併準備委員会」で、「合併期日においてユニオン・ショップ制は採用しない」と3社間で決めて、組合への加入は強制せず、新会社の社員の意志に任せることにして、それが労働組合に通知されました。最終的には合併時にユニオン・ショップ協定は結ばず、「オープン・ショップ制」でスタートすることになりました。労働組合としては自力で全員の組合加入を目指すことが命題になり、勧誘促進キャンペーンなどを展開していくことになりました。
労働組合がこの合併についてどう思っていたかをお話します。1999年12月16日、合併の1年前ですが、会社から労働組合に3社が合併することが通知されました。その時、労働組合からは「懸念事項」として要望を会社に伝えました。スライド10に記載されているとおり、5つの条件を会社側に伝えています。まず1つめは、合併しても組合員のクビは切らないこと。2つめは合併によって給料や労働時間などの労働条件を悪化させないこと。3つめは、新会社の労働組合を認め、しっかりと向き合ってほしいということ。4つめは、ユニオン・ショップ協定の締結。最後は「KDD」が「DDI」に吸収されるのではなく、積極的に交渉してほしいということです。
他の2社に労働組合がなかったため、「KDDI」の就業条件の協議については、3社の社員にとって不利益変更にならないことを基本に取り組むことを、労働組合の中でも確認しています。つまり、自分たちの組合員だけが良ければいいということではなく、組合に入っていない「DDI」「IDO」の人たちの労働条件も不利益にならないよう三社の「合併準備委員会」に申し入れしたということです。
この申し入れに対して、会社は次のように述べています(スライド11)。3つの会社が持っていた義務や権利を尊重するのは当然のことであり、労働協約の継承も含まれていると認識している。3社の就業規則上の社員は、新会社がすべて継承することになっている。つまりこれは、クビを切らないということです。最後は、今後も労働組合と連携を取りながら合併に取り組むと表明したということです。こういった見解が会社から出されたことで、労働組合としては、最終的にこの5つの要望事項の具体化に向けて、最大限の努力を行うことを希望し、合併により経営基盤の強化が図られ、日本の社会経済の発展に充分に寄与すると判断したことを会社側に伝えました。
そして組合員に対しては、積極的な経営判断と評価し、前向きに協力していくこと、組合員の意見を反映するために、労使で委員会を設置すること、組合員と社員の理解・協力を得る努力を会社がするよう求めたことを知らせたのです。
1999年12月16日の合併についての意思表示以外に、労働組合として2回ほど意見表明をする機会がありました。労働組合は、なにかのタイミングで意見表明することで、労働組合が何を考えているかを組合員や関係機関に通知することも、実は非常に重要な取り組みなのです。何も知らないまま合併が進んでいるわけではないということです。
新会社でのユニオン・ショップ制は、その後どうなったのかということですが、合併直前まで結論が出ていなかったため、労働組合としては、合併翌日にも「KDDI労働組合」発足に当たっての我々の態度を表明し、これまでの取り組みをおさらいしながら、早期にユニオン・ショップ協定を結ぶことを改めてお願いしたのです。
スライド14にまとめてあるとおり、「KDDI」との初めての団体交渉の中でこういったやりとりがありました。一つは、労使関係の構築については、労働協約を承継してもらったのですが、実際に社内で労働組合について理解してもらい、その活動に協力してもらえる関係がなくては、労働組合としては茨の道を進むことになるので、しっかりとした労使関係を築いてほしいと伝えたということです。当時の議事録に、「率直に意見を交わす中で、会社をどう発展させるかという観点で、労働組合と力を合わせたい」と会社が述べ、「新しい労使関係が今日から始まるが、我々の責任を自覚しながら、率直に意見交換する中で、前向きに会社の発展に向けて労使関係を築いていきたい」と労働組合側が述べているのが確認できます。
労使間のやりとりはこのように非常に友好的ですが、そのあと労働組合は、実際に茨の道を歩むことになってしまいました。
初めての団体交渉の時の、もう1つのポイントとしては、「賃金制度の統合に向けて、労使協議を加速させましょう」という話もしています。実は「三社合併」では最初の合併の時のように、各種労働条件の統合は間に合わず、特に賃金については、2000年10月の段階では新しい賃金制度はできませんでした。新しい賃金制度ができたのは2001年ですから、1年間は同じフロアで机を並べていても、給料がバラバラという状態でした。それで、これが喫緊の課題となり、1年間かけて新しい制度を作ったのです。さらに、「退職年金制度」というものがあり、これはもっと統合が難しくて2年間かかり、2002年4月1日から新しい制度ができました。
ユニオン・ショップ制度が締結できず、結果的に「オープン・ショップ制」になったことで、合併後の組合加入率は58%となってしまいました。それまで100%だった加入率が約半分まで下がってしまったわけです。そして、このあと100%にするための闘いが10年以上続くことになったのです。この時点では、先輩方はそうなることを予想できていなかったのではないかと思います。
2001年に「セルラー7社」を統合した「au」と合併した時点でさらに社員数が増えたために、加入率は45%まで落ちました。過半数を割る組合になってしまったという状況です。組織率が過半数に達していない労働組合だと、ほんとうに労働者の意見を代弁しているかどうか、会社側から疑ってかかられてしまいます。とにかく組織拡大することが大命題になったということは、ご想像頂けるのではないでしょうか。
(3)KDDIグループ成熟期
このあとさらに、「ツーカー3社」「パワードコム」「KNSL」と2005年以降に立て続けに合併していきますが、ここでは特に「パワードコム」との合併についてお話します。「KDDIグループ」の合併の歴史の中で、「パワードコム」との合併は、特に異例のケースになりました。それまでの合併では、合併相手に労働組合がなかったのですが、「パワードコム」にはユニオン・ショップ制の「パワードコムユニオン」という労働組合があり、これは産業別で言うと「電力総連」という電力会社の労働組合団体に所属していました。「パワードコム」との合併についての事業的背景としては、携帯電話だけでなく、光ファイバーサービスも提供していかなければ、通信事業者は生きていけない状況でしたので、光ファイバーサービスを提供していた「パワードコム」と合併したわけです。この合併には2つの大きな課題がありました。1つは労働条件をどのように統合するのか、もう1つは、労働組合を統合するかどうかということです。労働条件の統合については、基本方針として「KDDI」の制度に統合することを決めたのですが、合併期日前日まで、「パワードコム」の労使間で、事前に「KDDI」の制度に合わせるよう制度改定していきました。「KDDI」の制度に合わせることで、当然自分たちが持っていた制度で不利益になる項目もあったそうですが、それについては、お金で解決できるものについては合併前にすべて支払いを済ませたそうです。たとえば、「KDDI」には年次有給休暇以外に夏季休暇はなかったのですが、「パワードコム」には3日間の夏季休暇が用意されていたため、それを日給換算し、1年分(3日間分)だけ社員に支払ったとのことです。「KDDI」側でも、「au」や「ツーカー」との合併の時と同様、合併後を見据えて労働条件の統合の仕方などについて労使協議を行い、受け入れ準備を進めていたわけです。
2つ目の「労働組合の統合」についてですが、これはかなり揉めたそうです。結果として「KDDI労働組合」に合流することになったのですが、「パワードコムユニオン」の中には、「合流すべき」という人と、「合流せず、独立した労働組合として活動すべき」という人たちがいたそうです。しかし、合併後に1つの会社に2つの労働組合が存在することで、「社員の融和が図れるのか?」という声があり、独立したとしても「KDDI労働組合」の1/3しかいませんので、「現実的に課題解決に向けた会社との交渉ができるのか」という議論があり、最終的に合流することで決着したわけです。ただ、合流を決めたとはいえ、「パワードコムユニオン」としては、「KDDI労組が自分たちのためにほんとうに活動してくれるのか?」という不安があったので、合流後に「パワードコムユニオン」から専従役員として2人の役員が「KDDI労組」の中央本部に加わることで、不安の解消に努めたそうです。そして、2006年1月1日が合併の期日でしたので、「パワードコムユニオン」は2005年の12月の1ヶ月のみ、「オープン・ショップ制」に変更し、脱退の自由を認めました。しかし、結果的には4人しか脱退しなかったそうです。残りの人たちは1300人ほどいたのですが、すべて「KDDI労組」の組合員になりました。それから「KDDI労組」の中に「パワードコム」の組合員たちを専門に管轄する「PCU支部」を新たに立ち上げ、そこで面倒を見て、最終的に既存組織に溶け込ませて、「KDDI労働組合」として再出発したという状況です。
このパートで重要な点は、労働組合がある会社どうしの合併は、どのように処理されていくのかということです。労働組合はたくさんあってかまわないのですが、最終的に労働組合を統合する時には、それぞれの役員を出し合ってやっていくことを決めた点がポイントになると思います。
2.新たな労使関係の構築
(1)ユニオン・ショップ協定とは
最後に、「新たな労使関係の構築」として、ユニオン・ショップ協定についてまとめてお話をしたいと思います。2008年7月に「KDDIグループ」は今の形になったわけですが、労働組合というものが、合併のさなかにいろいろな取り組みをしたり、組合員に大きな影響を及ぼす労働条件などを、会社と協議しながらまとめていくという、重要な役割を担っているということはご理解頂けたと思います。そして、何度も繰り返される合併の中で、組合組織を維持していく取り組みも必要でした。もし、2000年の三社合併でユニオン・ショップ協定を締結できていれば、組織を維持する取り組みは必要なく、もっと別の活動ができていたのではないかと思います。労働組合のない会社の社員に対して、「KDDI労組とはこういう組織です」と紹介するだけで済んだのかもしれません。
労働組合のメンバーシップの在り方についてお話したいと思います。日本の労働組合というのは、加入するかどうかを個人に任せる「オープン・ショップ」と、その会社の社員である以上、労働組合に加入し組合員でなければならない、かつ、労働組合を脱退する場合には、会社も辞めなければならないという「ユニオン・ショップ」の2つがあります。ユニオン・ショップ制の範囲は、一般的に非管理職と呼ばれている人たちが該当し、管理職は労働組合には入れません。非管理職でも、会社の中枢に関わる仕事をしている場合は、労働組合に名前を連ねてはいても、実質的な活動には参加できなくなっています。他にも、「クローズド・ショップ」「エージェンシー・ショップ」というものがありますが、ここでは省きますので、詳しいことはネットで検索してみてください。この「ユニオン・ショップ」を巡る法律論はさまざまありますが、その辺りは「労働法学者」にお任せして、私は実務的な面、労働組合に身を投じている者としてお話をさせて頂きます。
2つの制度の違いは、組合加入対象者が自動的に組合員になるか否かの1点に尽きます。これは、実務的には大きな違いで、オープン・ショップ制であれば、組合への加入勧誘活動が必ず発生します。これにはかなりの労力と気力が必要ですし、非常に難しい作業になります。ところがユニオン・ショップ制では、そういった活動を行わなくても、入社したと同時に組合員になりますから、組合の仕組みや役割をレクチャーするだけで済むため、非常に楽なのです。ただ、オープン・ショップ制には加入・脱退の自由がありますから理解しやすいのですが、自分の意志とは関係なく、加入しなければならないことが理解できないという声もあると思います。
(2)KDDIグループにおけるショップ制の変遷
ユニオン・ショップ制を取っている理由は、会社によってさまざまで、それぞれに労使間の歴史があり、ひとくくりに説明するのは非常に難しいので、「KDDI」の場合についてお話したいと思います。「KDDI労組」の前身である「国際電電労組」の時は「ユニオン・ショップ制度」でしたが、2000年の「三社合併」により、誕生した「KDDI労組」から「オープン・ショップ制」になったわけですが、なぜそうなったかという経緯が、当時の労使間協議のメモに残っています。当時の社長と労組の委員長の会話記録によれば、当時の社長たちは「KDD以外の社員は、組合経験がないので、加入を強制するわけにもいかず、しばらくは成り行きを見守ったらどうか」というスタンスだったようです。それに対して労組側の所感としては、「労働組合やユニオン・ショップ制を否定する発言はないが、ショップ制については、社員の意向を前面に出し、現時点では決して前向きとは感じられない。白紙で臨んでいるわけではないが、合併当初はむしろオープン・ショップ制を念頭に置いていると思われる」とあります。つまり、「社員の自由に任せてはどうか」ということを社長たちは話しているのですが、本心としては、最初からオープン・ショップ制で行こうと決めていたのではないかということです。
結果的に2000年10月からオープン・ショップ制で活動がスタートしました。そこからの労働組合の活動はほんとうに大変で、「au」と合併した時には、組合員数は45%にまで落ち込みました。労働基準法などの中に過半数労働組合という言葉が出てきますが、その名のとおり、半数以上の組織を持つ労働組合であれば労使協定を結べるということです。しかし、そうはなっていない状態だったのです。半数が未加入者で、管理職を含めると組合はマイナーな存在になりつつあり、特に労働組合を持たないDDI出身者が職場を掌握していたため、組合に対しては理解が示されませんでしたし、個人の偏見が先行して、敬遠されていたように思います。職場で組合という単語を出すことも憚られ、怪しい宗教に入っていると思われているのではないかと疑心暗鬼にもなりました。組合潰しとまでは言いませんが、「組合に入っていなくてもいいんじゃないの」「どうせ組合に入ってなくてもボーナスもらえるでしょ」ということを言っている管理職もいました。そういった中、10年間かけて、少しずつ組合員を拡大していったのです。
こういった状況が続いていたのに、なぜ2012年から「ユニオン・ショップ」に切り替えることができたのかと言うと、これには2つの大きな出来事が関わっています。1つは2011年に発生した「東日本大震災」です。我々はその時「春闘」の交渉をしていました。交渉中に地震が発生し、東北向けの通信ケーブルがすべて切れたのです。それによって会社が潰れるのではないかという不安が会社内全体で起こり、「春闘」の交渉どころではなくなりました。そこで、労使間での交渉を打ち切り、前年締結した内容を踏襲することで一致して、一端「春闘」を終わらせたのです。その判断が会社からの信頼を高めたのではないかということです。
そしてもう1つは、震災の年の夏に、会社から電話があり、「労組に相談がある」とのことでした。「実はauの販売をやってくれている派遣社員や委託会社の社員数1000人を直接KDDIで雇いたい。そのためには、いろんな雇用契約があり、さまざまな労働問題が発生する可能性があるので、労働組合の力を貸してほしい」と持ちかけられたのです。その時、労働組合は「ならば、ユニオン・ショップ制を導入して、全社一丸となってがんばりませんか」と提案したのです。それは会社側も想定していたようで、10年間が嘘のように、話がとんとん拍子で進んで行ったのです。こうして2012年1月1日から「ユニオン・ショップ協定」が導入されることになりました。
しかし、これですべての社員が組合員になったのかというと、そうではありません。その直前の12月31日現在で組合に加入していない人が3100人ほどいました。その時に、「協定が発効したのだから、自動的に組合員になるべきだ」という考えと、「一応意思志の確認をした方がいいのではないか」という考えがあり、弁護士事務所や学者に相談し、最終的には判例がないため、安全を取って、この3100人一人ひとりに組合に加入するかどうか確認を取り始めたのです。ところが、10年入っていなかった人たちですから、そう簡単には入ってくれません。年が明けて2012年3月31日までに約1500人が加入してくれましたが、残りの1600人は入っていないという状況になりました。この時、新入社員は自動的に組合に加入となりましたが、元々いた1600人は入らなくてもいいという、少し歪な構造になってしまいました。それを解消するための活動は、実は今も続いています。現時点で約300人がまだ組合に入っていません。協定発効から足掛け3年が経ちますが、まだそれだけの人数がいるということです。KDDIには100の部署がありますから、1つの部署に3人いるかどうかの人数ですが、この人たちをどう扱うのか、今、会社に投げかけている状態です。
(3)ユニオン・ショップ協定の効果
ユニオン・ショップ制のメリットは、組織化の活動をする必要がない点ですが、それ以外に4つのメリットがあります。「労働問題への対応」「企業防衛」「非正規社員のケア」「社内一体感の醸成」です。
1つめの「労働問題への対応」は、契約社員の制度などを考えると、職場の問題に対応するのは、なかなか上司だけでできるものではないし、人事部も潤沢なスタッフを抱えているわけではありません。そこで、労働組合のネットワークを使って、労働問題の解決をしていくということになります。
2つめの「企業防衛」ですが、先ほどの契約社員を直接雇用したいから労働組合の力を貸してもらうということにも直接関わってきます。労働問題が起きると、ぜんぜん関係のないところに相談に行く場合もあります。そうなると、会社にいろいろな圧力がかかる場合もあるでしょうし、訴訟問題に発展するのを回避するためにも、相談先は労働組合1つにすることで、会社にとってメリットがあるということです。
3つめの「非正規社員のケア」です。これはKDDI労働組合だけの特徴と言えます。KDDI労組が結んでいるユニオン・ショップ協定は、非正規社員も対象にしています。ユニオン・ショップ協定の枠組みの中で、非正規社員の問題にも取り組めるということです。その顕著な例は、世間でも話題になりましたが、今年の「春闘」でベースアップの交渉を行った際、総合職の賃上げ額よりも非正規社員の額を多く要求したというものです。その内容のまま会社が合意し、「春闘」の交渉を終えることができています。
最後に「社内一体感の醸成」ですが、これはかなり定性的、情緒的な話ですので、良いか悪いかは分かりませんが、会社のパフォーマンスを最大限まで引き上げることに繋がるのではないかと思います。
4.さいごに
KDDIグループは合併を繰り返してできていますから、会社として一体感を醸成するのはかなり難しいのですが、労働組合という箱を使って会社の一体感を高めることに寄与しているのではないかと思います。労働組合の活動は、いろいろな側面でやっていますので、この一連の講義で、いろいろな組合の取り組みを聞いて、今後のみなさんの就職活動等に役立てて頂きたいと思います。
以 上
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