労働運動・労働組合に関する基礎知識
1.労働運動の歴史
(1)イギリスの労働運動のはじまり
労働運動の歴史は、18世紀から19世紀にかけて起こったイギリスの産業革命に遡ります。職人や農夫が賃金労働者となって都市に流入し、劣悪なスラムが形成され貧困、犯罪、病気が蔓延しました。あまりにひどい惨状に、ヒューマニズムに動かされた建築家などが立ち上がって生まれたのが近代都市計画の概念です。当時は、労働環境面でまさに資本家のやりたい放題でした。1日14時間労働で9歳の子どもが働かされていました。子どもは賃金を安くでき、値切っても文句も言いません。そして、力で抑えつけることもできます。いたいけな少女たちが朝3時から夜10時まで働かされたという事例もあったようです。資本主義とは本来そのようなものですが、現代においても今起きている様々な事象、労働者の非正規問題等々を見ると、その本質は変わっていないように思います。
イギリスの労働運動はパブから始まったと言われています。仕事が終わって、パブで仕事仲間と一杯ひっかけながら、「お前のところはいくらで雇われているのか」という話になります。そうすると、「これ以下の賃金で雇われるのはやめにしよう」と、仲間同士で約束するわけです。それが最低賃金協定になっていきます。あるいは怪我をして働けない仲間のために皆でお金を出し合うことが共済制度として発展していきました。
労働運動の初期段階では極めて暴力的な抵抗運動がありました。労働者の要求を通すための機械打ちこわし運動で、「ラッダイト運動」と呼ばれています。資本家たちは政治家と結託してこうした運動を徹底的に弾圧しました。1799年には「団結禁止法」がつくられ、これを破ると厳しい罰則がありました。そこで労働者は知恵を絞り、対外的には「私たちは親睦団体だ」「困ったときにお金を出し合ってやっているのだ」と言いながら、労働組合としての実力をつけていきました。名前も「トレード・ユニオン」ではなくて、「フレンドリー・ソサイエティ」と名乗っていました。団結禁止法は1824年に撤廃され、それ以降、職能別の組合がどんどんつくられていきました。
(2)日本の労働運動の源流・・・「労働組合期成会」の結成
日本でも明治維新から大正、昭和にかけて工業化が進みますが、イギリス同様、労働者はおよそ人間らしい生活が望めない悲惨な状況にありました。職を求めてアメリカに渡り、皿洗いや様々な重労働に従事する日本人もいました。そんな中、アメリカで学んでいた高野房太郎と片山潜が帰国後の1897年に、「労働組合期成会」を立ち上げました。労働組合の結成を奨励し、援助する会です。
高野房太郎は、当時アメリカのナショナル・センター、「アメリカ労働総同盟(AFL)」の会長だったサミュエル・ゴンパーズの指導を受けた人で、AFLの日本オルグとして任命されました。
余談ですが、このゴンパーズは5月1日をメーデーとして提起した人です。1886年、シカゴのヘイマーケットで労働者が集会を開きました。その集会をつぶしに来た警官にテロリストが爆弾を投げて、何人かの警官が亡くなってしまいます。結局犯人は見つからず、このテロリストを煽ったという罪で労働者の指導者8人が逮捕され、死刑に処されてしまいました。全くの冤罪で、ゴンパーズは犠牲者を追悼するために全世界で集結しようと提起しました。これがメーデーの始まりです。
なお、このヘイマーケットの集会では、労働者たちが8時間労働を要求しています。8時間の仕事、8時間の睡眠、そして8時間の自由時間の提唱です。1919年に設立されたILO(国際労働機関)には今189の条約がありますが、その1号条約に1日の労働時間は8時間と定められ、原則8時間を超えて働かせることを禁止しています。日本は残業が恒常的になっていることや、労働基準法は基本的に労使協定を結べば何時間でも残業できるしくみになっているため、この条約を批准できていません。ゴンパーズが提唱したメーデーは8時間労働制の実現が原点となっていました。
(3)日本の労働運動の源流・・・友愛会の結成
高野房太郎と片山潜が結成した労働組合期成会の話に戻ります。ロシア革命の影響だと思われますが、日清戦争が終わると労働組合期成会の運動は先鋭化していきます。ところが、1900年に治安警察法ができて弾圧を受けてしまい、1901年に解散してしまいます。指導者にはクリスチャンや僧侶など宗教に関わりのあった人が多く、戦前は救貧活動や労働運動に共鳴した仏教の僧侶も一緒にデモに参加して投獄されたことがあったそうです。
困った人を助けようというヒューマニズムから生まれた運動が、治安警察法による弾圧を受けて解散した後、1912年に鈴木文治が「友愛会」を立ち上げます。この時代には賀川豊彦という人も登場します。「生協の父」と呼ばれた人で、労働運動や農民運動などに力を注ぎ世界的にも非常に評価が高い人です。元来イギリスでは、労働運動とは「労働組合の運動」、「生協の運動」、「女性運動」、それから政治活動である「労働党の運動」の4つを指すと言われています。
鈴木文治はイギリスの労働運動の知略を参考に、弾圧をかわすため「フレンドリー・ソサイエティ」を訳して「友愛会」としました。友愛会の結成では、東京専門学校(現在の早稲田大学)の教授で野球を日本に紹介した、「野球の父」と呼ばれる安部磯雄に相談をしながら、評議員には東京帝大の教授や工場主、資本家、牧師などを揃えました。渋沢栄一や貴族院議員などを並べ立てて資本家や治安当局に良い印象を与え、労働者が加入しやすいようにしました。
非常に困窮する時代の中、労働運動は生活物資を提供する生協運動や農民運動、救貧活動などからスタートしており、当時はこのように全部一緒の運動だったのです。今は生協法や労働組合法など、根拠法もばらばらに分けられていますが、連帯しながらこうした運動を通じて問題解決を図っていたことは、これからの連合運動を考える上で大事なことなので、敢えて紹介しました。
(4)資本主義における集団的労使関係の重要性・・・渋沢栄一の提言
私たちは資本主義社会の中に生きています。資本主義社会というのは、基本的に市場、マーケット・メカニズムの中で富の分配が行われます。私たちは労働を提供し、付加価値ともいえる富を生み出し、その見返りに賃金を得ていますが、この賃金は、企業に対して労働者一人ひとりが個別に要求してもそう簡単には上がりません。イチロー選手のような人であればできるかもしれませんが、労働者個人と企業との間には圧倒的な力の差があります。
そこで労働者は団結して労働組合をつくり企業に要求を行います。これは「集団的労使関係」と呼ばれ、あらゆる所に存在しきちんと機能していなければ、労働者は公正な分配を受けられません。もちろん、税制や社会保障制度によって国が分配に関与して不公正を是正することも重要です。
資本主義社会では企業の最終目的は利益の最大化です。しかし、企業の好き放題にさせておくと、産業革命が起きたときのようなことになってしまいます。日本では、最初に声を上げた企業家が、「産業の父」とも言われる渋沢栄一です。渋沢栄一は、この時代に「みずほ銀行」の前身の銀行や多くの地方銀行、東京証券取引所、東京ガス、東京海上、王子製紙など500以上の会社を立ち上げた人です。ILO設立9年後の1928年、88歳となった渋沢栄一は、ILOの初代事務局長アルベール・トーマを訪ね、経営者に労働組合をつくるように説いて回ったそうです。彼は資本主義、企業の本質というものを見事なまでに見抜いていたわけです。それは集団的労使関係、つまり労働組合をつくっていくことが、健全な資本主義社会をつくる上で非常に大事だということです。
(5)敗戦後の労働運動
敗戦後、東京日比谷の第一生命本社ビルにあったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、占領政策を進め1945年に「五大改革指令」を出します。その中の1つに労働組合の結成、奨励策がありました。占領軍が日本の自立再建策として重視したのは日本人の労働力、勤勉さでした。この奨励策は功を奏し、雨後の筍のようにたくさんの労働組合ができていきました。
戦後2番目の幣原喜重郎内閣が最初に打ち出した政策は、1945年12月に公布された労働組合法の制定です。戦後は貧しいということもあり労働争議、いわゆるストライキが多発していました。そこで、会社のほうが強い面があり、組合ばかりが処罰されないようにと制定されたのが1946年の労働関係調整法です。その半年後の1947年4月には、刑事罰を盛り込んだ労働基準法が公布されています。憲法の公布は1946年11月ですから、それより前に労働組合法ができたというのが非常に面白いと思います。
1948年は、日本における労働組合の組織率が最高値に達した年です。55.8%、2人に1人は組合員でした。戦後の混乱期の労働運動は非常に大きな政治力も持っていました。しかし、イデオロギーと政治路線の対立により、日本の労働組合は1946年に4つの団体に分裂しています。その後1950年には総評が、1962年には同盟ができ、その形が1989年の連合結成までずっと続くことになります。
ここで、映画にみる労働組合の運動をご紹介します。「キューポラのある街」は、吉永小百合が主演し、1962年のキネマ旬報誌のキネマベストテントップの作品です。埼玉県川口市の鋳物工場の職人の娘として生まれた主人公は、非常に優秀で貧しい中でも最初は進学を希望していたのですが、結局日立製作所の工場の女工になります。働きながら夜間高校で勉強し輝かしい明日に向かって頑張っていくという話ですが、この映画には労働組合がたくさん出てきます。怪我をした鋳物職人の息子たちがつくった全金同盟(現在のJAM)がでてきます。あるいは日立製作所の工場で労働組合が昼休みに合唱練習をしているシーンがでてきます。当時は「うたごえ運動」というものも盛んでした。もう1つは「フラガール」です。常磐ハワイアンセンターを舞台にした映画で、これには労働組合の幹部がでてきます。1965年、石炭から石油へのエネルギーシフトによって炭鉱事業が傾いていく中で、職場を失う危機にあって温泉を利用した事業を提案したのは常磐炭鉱の労働組合でした。炭鉱に限らず、倒産した会社を労働組合が中心になって再建するというケースは結構あります。いろいろな労働映画がありますので、ぜひ探してみて下さい。
(6)画期的な動きのあった「1955年」
1955年は非常にエポックメイキングな年となりました。1955年10月に、まず左右に分かれていた社会党が統一し、11月には保守合同が行われて自由民主党が誕生します。自由民主党と社会党という、のちに「55年体制」といわれる政党体制の始まりです。
労働運動ではこの年から「春闘」が始まります。8つの産業別労働組合(産別)が集まって、のちに総評議長となる太田薫さんが、「暗い夜道もお手々つないで行けば怖くない」と、春闘を呼びかけます。その後、鉄鋼労連(現在の基幹労連)という大きな組織が加わって、それまでバラバラにやっていた賃金闘争を春闘として一斉に取り組むようになりました。それを他の産業、中小企業、地場産業、あるいは公務員の賃上げ水準にまで波及をさせていく取り組みです。現在では、形は変わったものの、基本的にはこのような考え方で春闘をやっています。
一方、同じ時期に今の日本生産性本部が推進主体となり、民間の労働組合が関わった、「生産性向上運動」がありました。当時の日本は経済を良くするには内需だけではなく外需を拡大して貿易で儲けるしかありませんでした。良い製品をつくって安く売るために生産性を上げなければならなかったのです。この運動に主力として参加したのが金属労協と呼ばれる組織です。その時労使で確認したのが「生産性3原則」です。その1つは無駄な対立をやめて、徹底的に労使で話し合う、労使協議の充実です。2つめはめったなことでは首は切らないと経営側が労働側にした約束で、雇用の維持と拡大です。そして、3つめは生産性が向上したことで得られる成果配分にあたっては、経営者と労働者と消費者で公平に分配するというものです。なお、生産性向上運動は、官民の労働組合の対立もあったことから民間の労働組合を中心に進められました。また、労働団体が4つある時代が長く続き、組織率も4分割されたままということあり、労働団体としてのインパクトは強くなかったのです。
自民党が優位という政党体制にあって、働く人たちの政策を要請する先は、社会党と民社党しかありませんでした。つまり、労働組合の要請も政府が直接受けるわけではないため、なかなか埒が明かない状況がありました。ところが、当時の自民党は、野党や労働組合の意見も聞いて、自民党の政策として出してきたものもありました。
いずれにしてもこの時代は、労働運動にとって各団体間のイデオロギーの対立でなかなか力を得られない不幸な時代でした。これではいけないということで統一しようではないかといろいろな取り組みはあったものの、政治路線と政党支持の問題があって挫折を繰り返していました。
(7)労働戦線の統一、そして連合の結成
1976年にようやく労働組合の統一に向けた動きがでてきました。それは民間の16産別が結集した、「政策推進労組会議」で、連合結成の原点となりました。この組織は民間で働く人たちの政策について野党だけでなく、与党の自民党にも要請を行いました。自民党への要請では、食事手当や新幹線通勤の非課税措置など、すぐに実現したものもありました。そうなると、働く人と家族のための政策・制度を与野党問わず要求するのは、「おかしいことではない」ということで、労働界の空気も変わっていきました。
その後、1982年には「全民労協」、そして、1987年には「民間連合」が結成され、1989年には官民統一の「連合」が結成されました。
労働戦線統一の目的は、第一に政策の実現力を高めること、第二に経済的な闘争力を高めることです。現在、政策の実現は基本的には連合が担い、経済闘争、いわゆる具体的な労働条件の向上は、産別やそれぞれ企業別組合が担うという役割分担になっています。
2.労働組合について
(1)労働は商品ではない
1944年5月のILO総会で採択された「フィラデルフィア宣言」には、「労働は商品ではない」という原則が謳われていて、いまも普遍的な原則となっています。労働力は普通の商品とは違い、生身の人間です。したがって、労働の価格は単にマーケット・メカニズムに任せるのではなく、労働者とその家族の生活がきちんと維持できる賃金水準でなければなりません。世の中を見ているとそうはなっていない現実もあり、もう1度この原則にたって考えなければいけません。
(2)基本的人権としての労働基本権
「労働基本権」には「団結権」、「団体交渉権」、「団体行動権」があり、それぞれは法律で保障されています。この労働三権は労働組合だけに与えられている特権ですが、権利は行使しなければ意味がありません。労働組合をつくらない、あるいは入らないことはこの権利を放棄することになってしまいます。もちろん、労働組合があっても機能していなければ、これまた労働基本権は守れないことになり、私たち自身の努力も必要です。
(3)労働組合の組織形態
ここで労働組合の組織について説明します。まず、労働組合は2人以上いれば自由に結成できます。経営者の許可も役所の認可もいりません。
「企業別労働組合」というのは、私たちが「単組」と呼んでいる、「単位組合」のことです。欧米では職種横断的な労働組合が主流ですが、日本の場合は、終身雇用をベースとした日本企業にあって社員の帰属意識も強く、企業別労働組合が定着してきました。メリットは、組合員にきめ細かな気配りやサービスができることです。デメリットは活動が内向きになってしまい、社会の問題になかなか目が行きにくいことです。だからこそ産業別労働組合やナショナル・センターがその代わりを果たさなければなりません。「産業別労働組合(産別)」というのは、同じ業種の単組が集まった組織です。連合の加盟単位はこの産別で、単組が直接加盟することは基本的にはできません。
労働組合の加入方式には「ユニオンショップ制」、「オープンショップ制」、「クローズドショップ制」の3つがあります。「ユニオンショップ制」は、採用時に加入が義務付けられ、採用後に組合を脱退した場合、使用者はその労働者を解雇しなければならないという制度です。このユニオンショップ制は、労働組合が一定の力を持っていないと会社と協定を結ぶことはできませんが、会社には協定を結ぶことによって、安定した労使関係を外部にPRできるという側面もあります。日本では、大企業で労働組合があるところの多くは、このユニオンショップ制をとっています。「オープンショップ制」は、組合加入を労働者の自由意思に任せている方式です。「クローズドショップ制」は、採用にあたっては「この組合に入っていない人は採用しない」という協定で、組合から脱退すると解雇される制度です。このクローズドショップ制は、横断的な労働組合が主流の欧米に多く、日本ではあまり見られません。
1人でも加盟できる労働組合には、地方連合会が展開している「地域ユニオン」があります。これは基本的には過渡的な組織形態と考えています。地域ユニオンでは、一人ひとりの問題に労働相談から関わって解決をめざしていますが、残念ながら解決した後に組合を辞めてしまう人もいます。
なお、日本の労働組合組織率の現状は、従業員1000名以上の企業ではその46%に労働組合がありますが、100人以下の企業ではわずか1%ほどです。
(4)労働組合の活動
労働組合では通常1年に1回開かれる定期大会が最高決議機関になっています。連合の場合は2年に1回定期大会を開催しています。定期大会では、運動方針や活動計画などを確認し、それに基づいて執行部を中心に活動を進めていきます。なお、この大会は組合の本部、支部それぞれで行われます。
労働組合では、賃金、労働条件、福利厚生などの向上にむけた取り組みを進めています。労使の間で行われる経営協議では、会社の施策、経営、新しい試みなどについて、組合員の労働環境あるいは労働条件に影響がないか、チェックを行います。少し古い話になりますが、具体的な事例として、親しい大手電機メーカーの組合役員から聞いた話をご紹介します。会社がパラボラアンテナを受注して、アフリカのザンビアに建設することになりました。本来会社の労務部がやるべき仕事かもしれませんが、労働組合は1年前に組合役員を現地に派遣しました。そこで住居や飲み水の確保、肉や魚などを買う場所、何に気をつけなければいけないかを調査して、建設部隊を受け入れるための条件整備を行いました。「ボウフラがわいていない水は危険だから飲んではいけない」、「ハエの卵が産みつけられた洗濯物をそのまま着ると幼虫が孵化して皮膚を食い破るので、必ずアイロンをかけなければいけない」とか、魚や肉はどこで買えるのかなどといった生活全般のすべてを調べあげ、組合員の受け入れ準備を整えました。結局、彼はザンビアに1年もいたそうです。
労働組合では、上記のほかに、地域活動、あるいは若い人たちを集めてのキャンプやスキーツアー、お花見などのレクリエーション活動、ボランティア活動、地域の祭りへの参加、海外での植林活動など、様々なことをやっています。国会議員や地方議員を選出しているところを含め、政治・選挙活動も行います。支部や分会のレベルになると、例えば「事務所の換気が悪いから換気扇をつけてほしい」といった組合員のニーズを受けて会社側と交渉し改善につなげています。
入社直後は自分の仕事に没頭し、その後もなかなか他のセクションの人と知り合う機会もありません。ですが、労働組合に関わると他部門の人や外側の人、いろいろな団体とも交流できるので非常に面白いと思います。私個人の組合との関わりをご紹介します。東京電力の資材部で仕事をしていた頃はバブル崩壊前で、毎日終電に駆けこんで、週に1回は完全徹夜で仕事をしていました。土日もよく出勤していました。仕事の内容は、地中線経路の太い電力ケーブルを引き込み工事込みで住友電工などの電線メーカーと契約する仕事をしていました。小さい工事では1000万円程度、大きい工事では30億円程度の契約になります。バブルの時代ですから、大型案件が結構ありました。工事用の足場の金具1個の1日の損料や工事現場にある安全柵やコーンが何円だとか、細かいものを積み上げての30億円です。
当時の私は独身で体力もあり、こうした仕事をこなしていました。中には体を壊す人もいましたが、私はそんなことはお構いなしで働いていました。時間外労働は月に100~150時間あったのですが、給与明細にはいつも20時間程度しか残業代はついていませんでした。当時はそういうものだと思っていましたが、たまたま組合の支部の常任執行委員になり、そこで初めて「労働基準法」という言葉に出くわしました。会社は労働基準法36条に基づいて時間外労働ができる上限時間を定め、労使協定を結び労働基準監督署に届け出ます。その協定の範囲内であれば時間外労働はできますが、きちんと手当が支払われなければ不払い残業で違法になってしまいます。
そこで私は、職場の仲間に2ヵ月間、毎日の実労働時間の記録を頼み、翌月の給与明細のコピーをもらい、どれだけの不払い残業があったのかを明確にしました。その結果を組合の常任役員会にかけて、労務課長を問いただしました。労務課長は、これは大変だということで管理職の間を回り、翌日からきちんと時間外手当がつくようになりました。このことで組合員から感謝され、これは仕事としては資材部でケーブルを扱っているより面白いと思い、労働組合の道にそれてしまいました。
組合には、「専従役員」、「非専従役員」という言葉があります。仕事をしながら二足の草鞋で組合活動をする組合役員のことを非専従役員と言います。私自身は履歴紹介にあるように連合のシンクタンクである連合総合生活開発研究所に研究員として派遣されて以来専従役員として活動しています。専従役員は休職して会社の仕事をせず、組合活動に専念します。
組合役員の中には、単組の常任執行委員から書記長や委員長になる人もいます。上部団体の産業別組織や連合に派遣される人もいます。労働組合そのものに就職した人たちは「書記」あるいは「プロパー職員」と呼ばれ、役員になるケースも結構あります。連合最大の構成組織であるUAゼンセンの逢見直人会長は、一橋大学を卒業後、ゼンセン同盟(UAゼンセンの前身)に就職をした人です。
(5)すべての働く人を対象とした連合運動
連合運動はメンバーシップだけのものではありません。単組、産別、ナショナル・センター、国際労働組合総連合(ITUC)を、組合費、会費の切り口からご紹介します(下記図参照)。組合費は単組によってかなり違いますが、平均すると1人あたり月約5000円で、そこから産業別組織に約600円、連合には約95円、ITUCには約25円が納められます。その他にもOECDの付属組織であるTUAC(労働組合諮問委員会)や、ITUCのアジア太平洋組織にも拠出をしています。このような組合費の流れでわかる通り、労働組合の活動は、組合員が意識していなくとも結果として、組合員だけではなく、働く人たちすべて、あるいは世界のすべての働く人たちを対象としています。
3.連合運動の歴史:連合運動方針の変遷
以下では、各時代の象徴的な出来事とともに連合運動の変遷を見ていきたいと思います。
1989年は年号が平成になり、バブルに踊っていたときで東証株価は38,195円という高値を示した年でした。ちなみに、株価はそのあとずっと下り坂になっていきます。
1989年の連合結成大会の時に確認した「連合の進路」では、力と政策を強化する、中小・零細、パートタイム労働者の労働条件を改善することをすでに標榜しています。
1997年の第5回定期大会は、「21世紀へ 力と行動」というスローガンでした。ここには21世紀を前に新自由主義が台頭してきており、対処しなければならないという危機感がありました。
2001年の第7回定期大会は、「連合21世紀ビジョン」を打ち出し、「労働を中心とした福祉型社会」という目指すべき社会像を提起しました。これは、セーフティネットが張り巡らされた福祉型社会という、非常に受け身の性格が強い社会像でした。なお、当時の連合会長だった鷲尾悦也は大会挨拶の中で「企業別組合の弊害が目立つ、この考え方から脱却を」と言っています。企業の枠の中に留まっているのではなく外に目を向けろ、と運動に対する警鐘を鳴らしています。
それから2年、連合はめざす方向に連合運動は向かっているのかを検証するため、外部の目で連合運動をチェックしてもらうことにしました。そこで立ち上げたのが「連合評価委員会」です。日弁連の元会長の中坊公平さん、寺島実郎さん、吉永みち子さん、イーデス・ハンソンさん、早房長治さん、東京大学の神野直彦さん、大沢真理さんに委員となっていただき、シビアなレビューをしてもらいました。
2003年の第8回大会は、この委員会報告をふまえ、「組合が変わる、社会を変える」をスローガンに掲げています。また、2005年の第9回大会では、同じスローガンのもと、地域に根ざした顔の見える運動への改革に着手しました。
2007年の第10回定期大会では、「すべての働く者の連帯で共に働き暮らす社会をつくろう」をスローガンに、11月には新たに「非正規労働センター」を立ち上げました。
2010年12月の中央委員会では、「働くことを軸とする安心社会」を提起しました。この背景には、2008年のリーマンショック、2009年の民主党政権誕生という時代状況があります。そして少子高齢社会を迎え、何もしなければこの先1.2人の現役世代が1人の高齢者を支える時代状況もあります。また、年金、医療、介護、生活保護など社会保障の基本的な制度は、「製造業・男性正社員・専業主婦モデル」に基づく仕組みとなっていて、これが行き詰まっています。さらには、富の配分の偏在による貧困の増大があります。非正規労働者が雇用労働者の3割を占め、富の偏在が起きており、税と社会保障による再分配機能の強化や集団的労使関係の再構築、労働組合の運動で富の適正配分を求めていかなければなりません。
4.連合がめざす「働くことを軸とする安心社会」のプロフィール
「働くことを軸とする安心社会」は連合がめざす社会像です。働くことに最も重要な価値を置いて、働くことを軸とする政策制度、社会の仕組みを考えたものとなっています。
安心社会のコンセプトを「5つの橋」で表しています。「雇用」を中心に、「教育」「失業」「退職」「家族」をつなぐ橋を架け、自由に行き来ができる社会としています。また、「雇用」も正規と非正規、あるいは正規と正規の間を行き来できるようにしています。「教育」と「雇用」をつなぐ橋は、例えば就職した人がもう一度勉強してパワーアップするために自由に行き来できるというものです。家族には人生のステージでいろいろな出来事が生じます。出産、育児、介護では、仕事を休む場合もあり、その後もきちんと「雇用」に戻ってこられるよう、「家族」と「雇用」をつなぐ仕組みをつくっていこうというものです。「失業」と「雇用」をつなぐ橋は、セーフティネットではなくてトランポリンにように雇用の場に跳ね上がっていける仕組みにしようというものです。
なお、雇用に関わって、ぜひ覚えていただきたいキーワードがあります。それは、人間的で誇りを持てる雇用=「ディーセント・ワーク」です。ディーセント・ワークは、1999年にILOのファン・ソマビア事務局長が提唱しました。彼がILO事務局長に立候補した際のマニフェストのようなもので、ILOの理念、活動目標となっています。ILOは、ディーセント・ワークを「子どもに教育を受けさせ、家族を扶養することができ、30年から35年働くと老後の生活を営めるだけの年金がもらえるような労働」と説明していますが、厚生労働省はこれを「働きがいがある人間らしい仕事」と訳しています。
連合は、ディーセント・ワークの要件として、「仕事の価値に見合った所得」と「職場のワークルールの確立」と、「ワーク・ライフ・バランス」の3つが重要であると考えています。
5.連合の「安心社会」実現のための政策活動
お話の最後に連合の政策活動とその実現に向けた他団体との連携にふれたいと思います。
連合が取り組む政策範囲と内容はかなり幅広く、治安や防衛を除くほとんどの分野で政策を持っています。項目にすると2000を超える連合の政策は、様々な専門委員会で繰り返し議論し、構成組織あるいは地方連合会ともやり取りをしながらつくり上げています。政策として確認した後には、政府や政党に対して政策要請を行います。この要請行動は、各省庁の施策に反映させるため、政府の予算編成に合わせたタイミングで行っています。
なお、連合は、政府への要請に加え政策決定過程への直接参加にも取り組んでいます。特に重要なのは審議会への参加で、のべ二百数十名の委員を出して議論に参加し、連合意見の反映に努めています。
また、他団体との連携も図っています。その1つに労働者の自主福祉事業を行う、「労働者福祉中央協議会」があります。この組織は戦後すぐに誕生しました。当時はイデオロギー対立により労働組合は四つに分裂していたのですが、「福祉は1つ」との考えから労働組合がまとまって労務者用物資の提供事業などを行っていました。そのほか労働組合がつくった金融機関、「労働金庫」や共済事業を行う、「全労済」とも連携して運動を進めています。NPOや社会的企業などもあります。政策実現のためには、労働組合の内側にこもっているのではなく、社会運動の軸として、志を同じくする団体やネットワークや個人と連携して、働くことを軸とする安心社会の実現に向けた取り組みを進めていかなければならないと考えています。
以 上
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