一橋大学「連合寄付講座」

2012年度“現代労働組合論I”講義録

第12回(6/29)

労働組合の求める政策とめざす社会[2]
「働くということをどうとらえるか」〜その現代的意義

ゲストスピーカー:高木郁朗((社)教育文化協会理事・日本女子大学名誉教授)

はじめに(自己紹介)

 私は大学の教員をかなり長い間やってきました。同時に労働組合との約半世紀にわたるつき合いがあり、その中でいろいろな労働組合の活動を見聞きしたり、リーダーやスタッフの方々と交流を持ってきました。こうした中で、様々な考える素材を与えられました。もう一度人生をやり直すならば、労働組合とのつき合いを中心にした人生をやっても良いという思いをもって、今もいろいろな活動を続けています。

1.働くこととワークフェア(福祉の基本に働くことをおく)

 2011年3月11日の東日本大震災では、地震と津波、福島第一原発の事故がありました。多くの人々が亡くなり、多くの人々が家や家財を失って避難をしました。
 そして、現在どう復興を進めるかが議論され、実際に進められています。皆さんは復興では何が一番大切なことだとお考えでしょうか。被害にあった方々、もとの家に住めなくなった人々に暮らしができるよう、お金で賠償しようという考え方があります。
 ですが、私が新聞を読んでいてアッと思った記事を紹介します。果物園を経営する自営業者の訴えです。

「長年築いてきた信用が(福島原発)事故の一瞬でなくなった。われわれは東電からの補償ではなく、果物を売って自前で生きていきたい」
 (『朝日新聞』2011年7月10日)

 この方は、働いて所得を得ていくことを保障してもらったほうが良いと言っています。補償は不要というわけではありません。しかし、本当に補償だけでよいのか、ということも考えてみなければいけないと思います。このケースは、何百万円かの補償よりも、自分が生きていくうえでは仕事が欲しい、といっているわけです。お金で補償するよりも雇用・就業の機会を保障したほうが良い、仕事の機会の保障が一番大切である、こうした視点に立った復興が本当に大切だということです。
 仕事をする、労働をする、これは自前で生きていくための前提条件です。生きていく上で、他人の助けを必要とする場合はいくらでもあります。例えば、年をとれば介護が必要になります。障がいによって仕事ができなければお金が必要になります。社会的に見れば、失業したときは雇用保険で支援する仕組みが必要です。しかし、給付よりも雇用・就業機会をつくっていくことが重要であり、東日本大震災、福島原発事故を考えても、そうだと思います。政府の復興基本方針の中に雇用対策は出てきますが、教育や職業訓練などを含め、方針の最後から3番目の扱いとなっており、復興の基本としての雇用・就業がきちん打ち出されていないことに私は大変不満です。
 ところで、経済や社会のあり方を考える上で、仕事や労働の問題を根本におくという考え方をここでは「ワークフェア」という言葉を使って表現をしたいと思います。
 ワークフェアは「ウェルフェア=福祉」という言葉とある意味で対抗的に使われている言葉です。福祉とは、人々の暮らしを保障するために必要な支援はお金を中心に行うという考え方ですが、ワークフェアは、お金で支援するのではなく、働く機会をつくることで支援するという考え方です。私は決して悪い言葉ではないと思っていますが、評判が悪い言葉でもあります。実はこの言葉を最初に使った人は、1970年代にアメリカ大統領であったニクソンです。アメリカでは、1960年代、ケネディからジョンソン大統領の民主党政権時代にベトナム戦争と「偉大な社会計画」という福祉計画を推進し、財政支出を大幅に拡大しました。その後民主党から政権交代したニクソン大統領(共和党政権)は、これを何とかしなくてはならないとして、福祉を削減しました。このときニクソン大統領は、ワークフェアについて、「働かざるもの食うべからず」、つまり賃金など所得を得て働くという有償労働を原則に社会を運営していくという考え方をとりました。これが福祉を重視する人々からひんしゅくを買ったわけです。
 しかし、私は福祉の基本に働くこと、つまり労働を置くということは決して間違っていないと思います。「働かざるもの食うべからず」ということについて、皆さんはどう考えますか。私は基本的に間違っていないと思います。ただし、前提条件があります。働きたいと思っているのに働けない人がいるのはおかしいということです。さらに、雇用・就業の機会があるだけではだめです。
 震災に見舞われた東北地方では、今ちょっとおかしな状態が続いています。それは、一方では失業者が多く、他方では人手不足になっているということです。具体的な事例でいえば、建設業の機械オペレーター、トラックドライバー、大工などは人手不足です。山形県の人が自分の家を修理したいと言っても、今大工さんがいないので半年後でなければだめ、と言われるほど人手不足が進んでいます。つまり、失業と人手不足が共存しているという非常におかしな状態があります。
 このことは、雇用・就業機会があるだけではなく、その職に就ける能力を保障することも重要であることを示しています。政府が雇用・就業機会と人々の働く能力を保障するという前提があって、ワークフェアは成立します。
 生まれつき障がいを持っている場合があります。また、自動車事故で労働能力を喪失してしまう場合もあります。こういう人たちに対しては、人間的な生活が保障されなければなりませんが、その場合でも最大限働く機会の保障が中心にあるべきだと思います。 
 一生懸命働いてきたけれども会社がうまくいかず、倒産に追い込まれ失業する可能性があります。あるいは労働能力がなくなってしまう可能性もあります。そうしたリスクに対しては、リスクそのものを軽減すること、リスクが発生した場合に人間的な生活が保障される仕組みがなければならないということを前提に、ワークフェアを考えていく必要があり、今日の社会は、そういう方向をしっかりめざすべきだと思います。また、このことは連合が考えている社会ビジョンの基本でもあります。
 ヨーロッパでは、1990年代から「Welfare to work」という言葉が使われるようになりました。これは働くための福祉の仕組みをしっかりつくることと理解すべきであり、このワークフェアという考え方を今日のさまざまな社会政策の基本に置かなければならないと思います。

2.働くことの意味

 ここで、働くということがどういうことなのかを考えてみましょう。就職活動は学生の皆さんにとって大変重要な活動になっていると思いますが、エントリーシートを書く際に何のために働くのかということを1度問い直してみて下さい。答えの1つは生活のために所得を得るためということでしょう。これは避けて通れないものです。そして自分の能力を発揮するためという人も結構いると思います。いずれの場合も働くことは自分のためであるという点が共通しています。働くということは自分のため、あるいは、結婚して家族ができると家族のためとなるでしょう。しかし、働くことにはそれらを超える社会的な意義があることを皆さんには忘れないでほしいと思います。
 社会的意義にはいろいろな側面があります。アダム・スミスの『国富論』の最初には、人々が利用している様々な財は、その国の人がつくったものか他国の人がつくって輸入したものか、そのいずれかであるという話が出てきます。要するに、人々は労働を通じてお互いに社会的分業を行っているということです。財だけではなく、保育、介護、教育を含むサービスをお互いにつくり合い、それによってつながり合っています。先ほど紹介した果物園経営者の「お金をもらうより自前で生きていきたい」と言ったことの中身は、自分の仕事を通じて人々とつながり、人々の役に立ちたいからだと考えることもできます。自分の働きが他人の役に立つ、仕事・労働を通じて人々は社会に参加している、人間の労働には、こういうつながりがあるということです。
 さらに働くことと経済の関係を考えてみたいと思います。仕事、有償労働をするということは、人によっては自分の働きが他人の迷惑・妨げになる場合もないわけではありませんが、理論的には人間1人の労働への参加は、限界生産性がプラスである限り、1人でも多くの人が有償労働に参加すればそれだけ経済は成長します。国の労働力調査や就業構造基本調査を見ると、2002年から2010年までの統計では、就業者数がかなりの程度で減っています。この就業者数の減少や働いて得る所得の減少は、この10年間の家計調査をみても明らかです。デフレ、デフレと言われていますが、デフレのために家計がおかしくなり、就業者数が減少しているというのはおそらくウソでしょう。実際はその逆であり、就業者数が減り、家計の所得や消費が減ることがデフレのきっかけとなっていると思います。つまり1人でも多くの人が就労しより多くの所得を得ることは、経済成長の基本的な要素といえます。
 ところで、私は消費税増税に反対ではありません。日本の福祉をきちんとしていく、セーフティネットを充実させていくためには、かなりの程度国民負担を増やしていかなければならないと考えています。そのためには消費税を引き上げなければならないでしょう。  
 しかしもっと単純な方法は、1人でも多くの人が雇用され、あるいは自営として就業し、自ら収入を得て働き社会に参加をすることです。それが所得につながっていけば、税や社会保険料を納めるという社会的な連帯で福祉を支える仕組みを維持できます。そういうことをきちんとやることを前提に、税の問題を考えなければならないと思います。
 今、経済学者や社会政策学者の中にも、経済成長はないという枠の中で物事を考えようという人がいますが、私は決してそうではないと思います。皆が仕事をする仕組みをつくっていくならば経済成長は可能だと思います。実際はその仕組みがないため、デフレが進行してしまっていることを見逃してはいけないと思います。できるだけ多くの人が働けるようにしていくことこそ、社会保障制度を維持・改善する根拠になっていくと思います。
 働くことの意味は、1人ひとりにとっては自分の能力を発揮する、所得を得るということになりますが、働くことに人々が関わることによって人間社会が成り立っているという、労働の根源的な意味を理解していただければと思います。

3.現実の労働には苦痛がともなう

 現実に働く、雇われて働くということを考えてみると、実は労働には苦痛がともなうことが多々あります。アダム・スミスはこのことを「Toil and trouble=苦労と骨折り」という言葉を使って表現しました。労働は喜びであり、社会的にも経済的にも必須の条件である反面、現実の労働、とくに雇われて働くことには苦痛がともないます。
 ワーキングプアといわれる、年間収入が200万円にも満たない人々がたくさんいます。また、長時間労働も非常に大きな課題です。最近では、仕事上のストレスによってメンタルヘルスの面で問題を抱えるケースが著しく多くなっています。ミーニングレス、仕事の全体がわからないまま、一部分だけを担当させられることもあります。例えば、朝から晩まで自動化された工程の検査だけをやらされていると、検査労働は重要ではあるものの、その意味が分からなくなってしまうということです。人間の労働はお互いにつながり合うという、社会的な連携をもっているはずなのですが、最近はそういう連携が失われています。賃金制度は成果給ということで、労働者間の競争を煽られ、チームで仕事をすることがなくなり孤独になりがちです。孤独が日本の毎年3万人を越える自殺の非常に大きな原因になっていると推定されます。
 人間の労働には社会的意義があるわけです。一方、人が人として生き、社会に参加していく根拠として労働があるにも関わらず、現実の労働には今述べたような苦痛がともないます。これまでの講義では、現場でどうやって労働を人間化していくか、労働組合はこうした課題にどのように取り組んでいるかなど、各講師から具体的なお話しがあったと思います。

4.働き方は他の人々に影響を与える

 労働は社会的なつながりをもち、結果として財やサービスを生産します。人々はそれをお金で買うという仕組みの中で、労働には大きな苦痛がともないます。そして、その労働は他の人々に影響を与えます。この典型例は最近起きた関越自動車道の事故です。1人で観光バスを運転し、金沢から600キロ離れたディズニーランドに向かう途中の居眠りが原因で起きた事故です。経済学にはいろいろな考え方があり、そんなものは仕方がない、安いバス料金で乗りたい人にはそういうリスクがともなう、買う側に責任があるという考えです。
 しかし、私たちは同じ品質で高いものと安いものがあれば、当然安いものを買います。消費者の希望によって供給されているわけではなく、安い価格のものが供給されているから買うわけです。つまり、供給側が安くした結果として危険がともなうものにしてしまうことが問題であると考えなければなりません。供給のあり方を考えなければならないと思います。
 関越自動車事故の場合、600キロを運転手1人ではなく2人で運転すれば、多分事故は防げたであろうと考えられます。ところが国土交通省の規定では、680キロを超えなければ1人で運転して良いことになっています。この基準に対し、労働組合があるところでは、労使交渉によって1人での運転は450キロまで、それ以上はダメということになっています。国土交通省のルールである680キロは東京から大阪を越える距離であり、これではひどすぎるとして労働組合は、450キロというルールをつくることによって安全という質を保ちます。 
 しかし、質を保つことで安売り競争に負けてしまいます。関越自動車道の事故は、仕事のルールの大切さを改めて教えていると言えるでしょう。人間の働き方として、どういう働き方が適切であるかということをルールとして決め合う仕組みができていない場合、こうした問題が発生すると考えることができます。

5.苦労と骨折りは賃金だけで解消できるか

 そこで、問題はどういうルールをつくっていくかということになります。働くことは苦労と骨折りですから、その代償が確立されていなければなりません。現実にはこの点がきちんとしたルールとして確立されていません。きちんとした賃金を支払うルールを確立していくことが労働組合の非常に重要な活動です。ただし、これまでのルールで良いのかについては、もう少し考え直していく必要があると思います。
 日本の賃金は、1960年代後半以降、鉄鋼、自動車、電機などの輸出産業によって基準が決められていきました。こういった産業の労働組合が経営者側と団体交渉し、その結果決まった賃金水準が日本全体の賃金を決めるという役割を果たしてきました。これは言ってみれば合理的な賃金の決め方です。これらは日本の経済成長を支えた産業であり、ルールのあり方として悪くはなかったと思います。一方、グローバリゼーションによって産業構造が変わってきました。就業者数で言えば製造業は減少し、医療・福祉の分野は増加しています。こういう時代状況にあっては、従来どおりの賃金の決め方でよいかどうかについて疑問があります。労働組合も適切な賃金決定のあり方について、考え直さなければいけない点があるように思います。
 もう1つ重要な点は、賃金だけですべての苦労と骨折りが解消されるかというと、そうではないと思います。短期的な賃金の話だけではなく、例えば年金の掛け金について、長期的な人生保障の仕方というルールを決めていく必要もあります。また、本人の努力に対する報酬は、必ずしも金銭によるものだけではなく、社会的な名誉というかたちで補われる場合もあります。
 賃金を支払うルールは労働組合が経営者との交渉によって決めていくことが必要です。労働組合の関与がないとより高い収入を得るにはより長く働かなければならず、2人でやれば安全なところを1人でやらなければならなくなり、結果として消費者に大きな被害を与えてしまうわけです。品質を保証するためには、労使によるルールづくりが必要です。

6.働く人びとのあいだの分断

 いま自分の判断で仕事ができる分野がだんだん小さくなってきています。ロナルド・ドーアの『働くということ——グローバル化と労働の新しい意味——』(中公新書、2005年)を是非皆さんに読んでいただきたいと思います。この中では、能力があり希少な技能を身につけている人口の約30%は、自分の裁量や考え方で仕事をし、残りの70%は他人の命令で仕事をしなければならないという分裂が非常に深まっていることを紹介しています。皆さんには、自分自身は30%に入るから大丈夫だとは思わずに、70%のことを考えて日本の労働をどうするかを是非考えてほしいと思います。

7.ディーセントワークをめざして

 これまでの講義で講師が話されたことは、それぞれの労働組合はそれぞれにディーセントな労働をめざして活動をしているということです。
 ディーセントは、英語としてはごくごく当たり前の言葉ですが、日本語に直すとなかなか難しい言葉です。意訳になりますが、ディーセントワークとは、「人間としての尊厳に値する仕事」ということで、1990年代末以降のILO(国際労働機関)の基本的な方針です。ILOは国際的な公正労働基準をつくっている国連の組織であり、政府と労働組合と経営者団体の代表が対等な関係で参画する総会を1年に1回開催し、条約や勧告を採択する活動をしています。そのILOが推進する中心的な概念が「ディーセントワーク」です。
 ディーセントワークの具体的な中身は、「公正な賃金を保障する機会、職場の安全、家族に対する社会的保護、個人の発達の展望、仕事から排除されている障がい者を包摂していく社会的統合、労働者が働くルールをつくるための団結の権利、機会と処遇の男女平等」などです。こうした中身をルール化していくことが今日の労働をめぐる基本的な課題です。
 労働が大切であるという視点から様々なことを見直すと、世の中が変わって見えます。例えば、雇用を保障するために成長が必要であるという考えをひっくり返してみましょう。1人でも多くの雇用を増やすことが結果として成長をもたらす、と考えたほうが面白いのではないでしょうか。労働を中心にもう一度社会のあり方を見直すということを是非皆さんにやっていただきたい、これがこの講義の結論の1つです。
 もう1つは、働くために公正な社会をつくろうということです。3割の人にとっては良い社会だとしても7割の人にとって悪い社会は、公正な社会ではないと言わざるをえないと思います。不公正な制度をなくし、それに代わってディーセントワークを実現するワークルールをつくっていく、企業や産業の中でつくるだけではなく、一国の制度としてつくり上げていくことが大切です。
 今、東日本大震災の復興計画により、東北地方に瓦礫の処理や福島原発事故後の除染のための費用などがたくさん支出されています。しかし、それが公正な賃金として使われているかというと、そうではありません。公契約条例の制定などでディーセントワーク、人間の尊厳に値する暮らしができる賃金を保障する制度をつくっていくべきだと思います。
 そして労働組合は、自分たちで事業をつくりきちんとした仕事をつくり出すなど、復興にむけた積極的な議論を行っていくべきだと思います。

以 上

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