一橋大学「連合寄付講座」

2011年度“現代労働組合論I”講義録

第13回(7/15)

労働組合の求める政策と目指す社会
「働くということをどうとらえるか~その現代的意義について考える」

ゲストスピーカー:高木郁朗(教育文化協会理事・日本女子大学名誉教授)

はじめに

 皆さんこんにちは。私は長い間、労働問題の研究に携わってきました。できる限り現場に行き、働く人の話を聞くということを研究スタイルに、これまでさまざまな労働組合と関わってきました。今日は、これまでの授業を踏まえて、少し理論的かつ実践的な話をしていきたいと思います。これまでの授業では、労働組合のめざす社会像や、自動車、生命保険、運輸などの各産業や公的部門での働き方、そこでの「ワークルール」のつくり方を中心に、労働組合の活動、地域での労働組合の役割などについて話があったと思います。
今日は、ワークルールとディーセントワーク、この二つのキーワードを中心に、これまでの議論を整理する観点からお話をしたいと思います。

1.ワークフェア(Workfare「福祉の基本に働くことを置く」)

 私は、東日本大震災あるいは福島第一原発事故を含め、この状況を回復し、新しい日本をつくっていくには、雇用・就業を中心に据えなければならないと思っています。最近の朝日新聞の記事(2011年7月10日付)に、被災地の果物園経営者の訴えが載っていました。その訴えは、「長年築いてきた信用が福島原発事故の一瞬でなくなった。われわれは東電からの補償ではなく、果物を売って自前で生きていきたい」という非常に明確なものでした。もちろん補償は必要ですが、あえて言えば、私は補償よりも仕事だと考えています。被災者の多くは雇用者だと思いますが、雇用・就業機会を軸に東日本大震災、あるいは福島第一原発事故からの復興と新たな発展を図るべきだと考えています。
また、このことは東日本大震災や福島第一原発事故に限定されない話です。経済や社会、福祉の問題の解決にむけて何を基準に考えるかというときに、ワークフェア(Workfare)という言葉がキーワードになります。WorkfareはWelfareという言葉に対抗して使われることが多いと思われます。要するにWelfareは、生活保護のように国がお金を寄付することと考えられることが多いのに対し、Workfare は、仕事や雇用機会を中心に所得を考えていく、福祉の基本に働くことを置くというものです。
私は、今日の福祉を考える際にワークフェアが非常に重要なキーワードだと思っていますが、実はワークフェアには反対論者が多いのです。何故かと言うと、最初にこの言葉を使ったのは、1970年代のはじめにアメリカの大統領になった共和党(保守派)のニクソンで、彼は、「福祉のためにお金をたくさん使うのはもったいない。福祉にお金を使わず、福祉を受け取っている人に働いてもらおう」と提案しました。つまり、福祉の切り捨て、削減という考え方に基づく提案をしました。そういう歴史的な経緯があり、ワークフェアには反対という人もいます。School to workは、学校を卒業してすぐ働くことを言いますが、Welfare to workはそれと同じで、福祉を卒業して働く、ニクソンのワークフェアはそういう考え方だと言って良いと思います。
一方、ヨーロッパでは、ワークフェアを働くために福祉のお金を使うという使い方をしています。ヨーロッパ流の働くための福祉政策としてワークフェアを理解することは大変重要なことで、福祉の基本に働くことをおくというのは間違っていないことになります。
連合は2010年11月に「働くことを軸とする安心社会」を提起し、「働くこと」を軸に日本の社会を安心できる仕組みにしていこうという考え方を持って現場に臨んでいます。ただ、それは無条件でいいのかというと、働かざる者食うべからずという考え方もあり、働くことを軸とするためには、3つの前提条件が必要だと思います。
第1の条件は、政府が雇用・就業機会をつくることです。働く機会もないのに働かなくてはいけないと言うのは無責任極まりない話です。そして、雇用・就業機会があっても、就業能力を持つ人々がいなければいけません。就業可能性、雇用可能性とも言えますが、教育や職業訓練を通じ、仕事に就く能力をしっかり身につけさせ、一方で就業や雇用の機会をつくる、この両方の責任を政府がきちんと果たすことが第1の条件です。
第2の条件は、労働能力がない人にも人間的な生活を保障することです。高齢者や障害者で働く能力を持っている人には、雇用への補助金やさまざまな訓練を行うなどにより、できる限り働いて社会に参加してもらうことが大変重要です。しかし、労働能力のない人には、人間として生きていけるよう、人間的な生活を保障する、これが第2の条件です。
第3の条件は、ソーシャル・セーフティネットが整備されていることです。東日本大震災や福島原発事故は、人々の暮らしから言えば大変大きなリスクですが、考えてみれば働く人々の人生はリスクの塊です。皆さんも大学を卒業後就職し、40数年働いた後、年金生活になることが想定されますが、その間にはさまざまなリスクが降りかかってきます。

2.多段階のソーシャル・セーフティネットの必要性

 人は生まれてから死ぬまでの間に、病気になって失業する、高齢になって介護が必要になるなど、さまざまなリスクに遭遇します。こうしたリスクには、ソーシャル・セーフティネットが必要です。セーフティネットとは、サーカスの空中ブランコから落ちたとき、死ぬことがないように網を張っておく安全ネットのことです。雇用・就業中に起きるリスクをソーシャル・セーフティネットで救済していくことが重要であり、私は、多段階のソーシャル・セーフティネットを前提条件としたワークフェアの原則を、社会のあり方の一番基本に据えたいと思っています。そして、これが連合の「働くことを軸とする安心社会」というものの考え方であると言っていいと思います。
多段階のソーシャル・セーフティネットの最後の段階は、日本国憲法第25条で、国が健康で文化的な最低限度の生活を保証している、これが最後の段階です。例えば、失業した場合、最初は雇用保険の失業給付を受けますが、給付期間が終わると段々生活が苦しくなり、仕事がなければ最後は生活保護になります。東日本大震災の復興も雇用・就業を軸に政策を実施しないと、生活保護の申請が一挙に増えるだろうと思います。生活保護は最後のセーフティネットです。従来のセーフティネットは、この問題だけを考えてきました。
次に、失業のリスクについては、まずは日常的に組み込まれているセーフティネット、たとえば教育訓練によって企業の中で働き続ける、または別の仕事に移ることもできるようにします。しかし、例えば企業が倒産してしまうと雇用保険の失業給付で生活していくことになります。これが二段階目のセーフティネットです。しかし、雇用保険は加入期間や年齢で給付日数が変わり、給付期間を超えると失業給付は受け取れなくなります。
三段階目は、社会手当です。これは、民主党政権になって不完全ながらできつつありますが、まだ完全ではありません。OECD加盟諸国の多くには、長期の失業の場合には、社会手当を給付するという考え方があります。日本にはこれがなく生活保護を受けることとなります。一方、実際に生活保護が最後のセーフティネットになっているのかというと、非常に問題があります。例えば、生活保護の申請では、「あなたには労働能力があるのではないか、資産があるのではないか」と言われます。日本の生活保護は、持っている労働能力や資産をすべて活用し、使い切ってはじめて生活保護が受けられるようになっており、受給そのものが厳しく本当の意味で最後の手段と言えます。したがって、第三段階のセーフティネットとして、失業給付が終了した後も一定期間社会手当を給付します。生活保護のように厳しい資力審査はなく、所得やワークテスト(働く意欲があるかどうかのテスト)を基準に受けられる社会手当をつくっていく必要があります。安心社会を実現するためには、こうした多段階のセーフティネットをつくり上げて対応することが必要だと思います。
多段階のソーシャル・セーフティネットには、もう一つ注目していただきたいことがあります。概念図の社会保険、社会手当、生活保護の各段階の上向きの矢印は、社会手当を受けている人が、例えば職業訓練を受けて、もう一度働く機会を得て復帰していく、生活保護を受けている人も同じように働く場に復帰をしていく、という考え方を示しています。このように、「トランポリン型」のセーフティネットが必要です。このトランポリン型という言葉は政府も使っていて、連合の「働くことを軸とする安心社会」の提起でもでてきます。しかし、私は、トランポリンは、一度上に上がってもまた落ちるのでふさわしくないと思っていますので、他にどういう言葉を使えばいいか考えているところです。

概念図 多段階のソーシャル・セーフティーネット

3.働くことの意味を考える

 働くことの意味を通じ、何故働くことが軸になるのかについて考えてみたいと思います。何故就職するのかを聞くと一番多いのは、自分あるいは自分の家族の生活のために働くという答えです。自分の能力を発揮するという人もある程度います。自分のため、あるいは家族のために働くことは大変重要ですが、実はそれだけでなく、働くことには社会的意義があることをしっかり認識する必要があると思います。これまでの講義では、産別組織の方々が、それぞれの産業の社会的意義を話されたのではないかと思いますが、どんな仕事、産業も、社会的意義を持っていると考えてよいと思います。
人間は、社会的分業の一部を担うという意味で基本的にすべてつながっています。自分の働きが人の役に立ち、人の働きが自分の役に立つという形でつながっています。「働く」ということをこのように理解することが大切であると思います。働くということは社会的参加の基本条件であり、できるだけ多くの人が働くことで社会につながることは、自分が孤独ではないということにつながります。
働くことは経済との関係からも重要です。中には例外があり、ある人の働きが全体の生産性を落とすということがあるかもしれません。しかし、それは例外であり、人間の限界生産性はプラスであると考えます。限界生産性とは、1人がある仕事についたとき、全体の生産がどれほど増えるか、減るかということですが、限界生産性がプラスであれば、就業者が1人でも増えることが日本のGDPをあげる基本的な条件であると考えられます。日本は今から約20年前に1人当たりのGDPで世界のトップになりました。ところが段々順位を下げ、特に2001年から始まる小泉内閣で急激に順位を下げ、2010年からは円高という状況から少し条件が変わってきていますが、2008年までの条件で言えば、当時のOECD加盟国30カ国(現在は34カ国)中18位、真ん中あたりまで下がっています。
下がっている理由は非常に明確で、日本の女性の就業率が他の国と比べ、際立って低いことです。例えば、北欧諸国の女性の就業率は約70%ですが、日本は約50%です。また、女性就業者の50%以上がパートタイマーですから、労働時間レベルで言っても、男性に比べ低い就業率と言えます。日本の女性の就業率の低さがGDPを下げている原因で、女性の就業率を上げる政策的な措置をきちんと取っていくならば、日本が世界一とは言わないまでも、経済的に三流国だと言われるような状態にはならないはずです。つまり、就業・雇用を軸に経済を考えるならば、就業・雇用機会や働き続けられる条件づくりなどが、経済成長に大きな影響を及ぼすことを示していると言ってよいと思います。
いま、財政困難と社会保障の問題から消費税をどうするか、という税と社会保障の一体改革が議論になっていますが、私は先にやるべきことがあると思っていて、それは、就業者、雇用者を増やし、保険料収入を上げるということです。すでに他の国ではやっています。高年齢者も働ける機会をきちんとつくれば年金給付は少なくてすみます。もちろん、それだけですべてが解決できる訳ではありませんが、社会保障や財源をどうするかという話の前に、働くことを中心に考えていけば、別の解決策が見えてきます。
働くことは人間社会の存続の基本条件であり、自分の生活のためだけに働くのではないという認識を持つことが重要である、このことを改めて申し上げておきたいと思います。

4.現実の労働には苦痛がともなう

 しかし、現在も含め、産業革命を経て産業社会が成立して以降、現実の労働には苦痛がともなうと言っていいと思います。どんな苦痛があるかといえば、労働が正当に報われず低賃金で生活が困難であること、自分で仕事の判断をするような裁量権がまったくない、自分の権限がまったくない労働をやらなければならないこと、長時間労働で家族生活と両立できない、友人と好きな活動ができなくなってしまうこと、危険な仕事やストレスを強いられる仕事をやらされる、報酬が高いからといって、どんどん仕事をやらされることなどで、これに近いことは福島第一原発の事故現場の中で実際にあると伝えられています。
また、部分的な仕事しかやらせてもらえない、自分のやっている仕事の意味がわからないという状態にあること、それから孤独であること、これは最近とても大きな問題です。チームで仕事をしている、社会全体からみれば互いにつながり合っているはずが、市場万能主義の風潮の中では、仲間は競争相手になり、孤独感が非常に強まっています。
そして、労働者の間にも身分差別があります。例えば正規従業員と非正規従業員との間、フルタイム労働者とパートタイム労働者との間には、身分差別があります。そして差別をされた非正規従業員やパートタイム労働者には、キャリアアップやキャリアパスなど、将来の見通しがたちません。しかし、嫌な仕事でもそれを失えば生活できなくなってしまいます。結局、産業社会における労働は、苦労と骨折りであるということとなります。

5.苦労と骨折りは賃金だけでは解消できない

 18世紀末に『国富論』を書いた経済学者アダム・スミスは、労働の本質を明快に語っていて、労働はtoil and troubleであると言っています。大河内一男先生はこれを「苦労と骨折り」と訳されましたが、この訳はとても良いと思います。労働は苦労と骨折りであり、それには代償が必要で、その代償は賃金であると、アダム・スミスは言っています。労働経済学の根幹はここに出発点があります。現実の労働は苦労と骨折りですが、それなくして社会は存立せず、労働への参加によって人と人とのつながりが出てきます。労働には、このような積極的な意味があることを忘れてほしくないと思います。
一方、いま働く人々の中で、メンタルな病気が非常に増えてきています。それは何故か、心理学の学説の一つで示された「努力-報酬不均衡モデル」というものがあります。これは、一生懸命努力をしても、それに対する報酬が少ないとストレスが生じ、メンタルな不健康な状態をもたらすというもので、身体疾患や睡眠障害、精神的不調などを引き起こすというものです。また、労働に対する報酬の基本は賃金ですが、報酬には、賃金だけでなく、心理的報酬(尊敬、承認、正当な評価)や、社会的報酬(キャリアの安定性や継続性、社会的な名誉)などが含まれると言っています。つまり、苦労と骨折りは、賃金の補償だけですべてが解決されるわけではないということです。

6.「labour」を「work」へ変えていく

 カール・マルクスの資本論では、働くという言葉には、英語ではWorkとLabourという2種類があると言っています。Workは、自分の主体的な意思をもって働くということで、それに対してLabourは、他人の命令通り働くということです。賃金を受け取るかわりに経営者の言う通りに働く、会社のために少々違法なこともやってしまうということです。
つまり、苦労と骨折りの代償として正当な賃金を受け取るだけでなく、人間労働のあり方をLabourではなく、Workに変えていく努力もまた、非常に大切なことだと思います。

7.働く人びとのあいだの分断

 WorkとLabourを基準に働くということを考えていくと、日本の労働者が分断されている傾向が非常に強まっていることがわかります。皆さんに是非読んでもらいたい本があります。ロナルド・ドーアさんの『働くということ~グローバル化と労働の新しい意味』(中公新書)で、この中でドーアさんは、「能力があり希少な技能を身につけている人口の約30%の人と、残りの70%の人との2極分化」が進んでいる傾向を指摘しています。すなわち、能力があり希少な技能を身につけている人口の約30%の人とは、高い報酬を受け取っている人のことで、残りの70%の人は非常に低い賃金、ワーキングプアすれすれの人です。しかもいったん70%の方に入ると一生その状態が続き、最近の傾向では次の世代にまで続いてしまい、貧困の再生産につながっていく可能性が高くなっています。
この状態をどうするのか、たぶん皆さんの多くはロナルド・ドーアの言う30%に入るだろうと思います。30%に入った時に、皆さんは自分で自分のことを幸せだと思うだけではなく、残りの人々、つまり社会全体のあり方を労働の観点からきちんと見極め、考えていくことがとても重要だと思います。この状態をどうやって改善していくのかが、現在の日本の最大の問題です。連合が提起した「働くことを軸とする安心社会」中のキーワードの1つは「すべての働く者」という言葉です。これは当たり前のようにみえて、現実の運動においてはなかなか難しいことです。労働組合はメンバーシップ制です。すべての働く者とは、メンバーシップ制でありながら、メンバー以外の人のことも考えていくことを宣言しているわけです。このことは、さまざまな問題点をはらむと同時に、非常に積極的な意味を持っていると思います。労働組合に入っている人々が、労働組合に入っていない、あるいは入ることができない多数派の人々のことを含めて考えていくということは、非常に大切なことです。皆さんの場合、実際に30%に入るのか、70%に入るのかわかりません。Work についても20%説や、極端な例では10%説まであります。どこで区分をするかは別として、社会が2つに割れている、こういう状態をどうしたらいいのか、みなさんも一緒に考える必要があります。

8.ディーセントワークの実現を

 したがって、「ディーセントワーク」を実現しなければならないということになります。ディーセントワークは、1990年代の末から、ILOの中で盛んに使われるようになった言葉です。現実はディーセントではなく、ディーセントな労働をつくっていこうということです。ディーセント(Decent)という言葉は、人間が人間としてきちんとしている状態を意味しています。ほかの言葉で言えば、Well beingな状態と言ってもいいかもしれませんし、それよりも少し快適な状態かも知れません。ディーセントワークのはじめての訳は、「人間的な労働」でした。近年、連合は「人間の尊厳に価する」と訳していて、これはディーセントという言葉に近いものだと聞いています。ILOの文章からディーセントワークを要約しているものを引用すると、「生産的で公正な賃金を保障する機会、職場の安全、家族に対する社会的保護、個人の発達の展望、社会的統合、自らの関心の表明・団結・自らの人生に影響を与える物事の決定への参加の自由、機会と処遇の男女平等」となっています。「公正な賃金や、職場の安全が保障されなければいけない、家族生活と仕事のバランスがとられていなければならない、個人が発達できなければならない、障害者や退職者だからといって社会から排除されてはならない、ものが言える状態でなければいけない、そのためには団結が自由でなければいけない、男女平等でなければいけない」。このような人間的な労働の基本となるものを実現していく、これがディーセントワークという考え方です。

9.働くということの現代的意義

 まとめて言うと、働くということには3つの内容があります。1つは、自分の所得の確保を超えた社会的意義がある、人間は働くことを通じて社会的につながっていて、それによって社会は存立している、この社会的意義を積極的に考えていくことが必要です。
2つ目は、しっかりしたワークルールが必要であるということです。近代の産業社会において、雇用・労働は苦労と骨折りであり、それを少しでも改善するためのルールをつくらなければなりません。ディーセントワーク実現のためのワークルールが必要です。
3つ目は、誰がルールをつくるのか、政府や経営者が勝手につくるのではなく、当事者、つまり働く者が当事者として参加してルールをつくるということです。このことは、さきほどふれたディーセントワークの内容の一つでもあります。
働くということの現代的意義は、労働の社会的意義、労働に関するルールの形成、ルール形成への当事者である労働者の参加の3つにあると思います。

10.労働組合がディーセントワークを実現する方法

 ディーセントワークの実現方法には、企業のなかで、働くルールを確立し改善するための団体交渉があります。しかし、企業のすべての労働者が対象になっているかというと疑問があり、対象を拡げていかなければならないと思います。労働組合が春季生活闘争の団体交渉で、企業内の最低賃金の対象にパート労働者や非正規労働者を加えるよう要求し、交渉する、こういう形で対象を拡げていくというやり方があります。
2つ目は政府にしっかりとした制度をつくらせることです。例えば、日雇い派遣や製造業の現場への派遣を規制することなどです。これは実際にはまだ実現していませんが、連合が民主党を応援した理由は、政治を通じてワークルールを普遍化することにありました。
3つ目は、私の願望です。東日本大震災後の復興策は、雇用機会を軸にすることを政府に一生懸命働きかけることです。と同時に、自分たちでつくることができないかと思っています。労働者が団結してつくった労働金庫のお金を利用して、社会的に貢献する企業をつくって雇用機会を増やす、このようなことを自分たちでできないかと考えています。
つまり、労働組合には3つのレベルでやることがあり、1つは企業・産業のレベルで交渉する、2つ目は政府や自治体に働きかけ、労働者生活の充実とルールの普遍化のための制度をつくる、3つ目は、自分たちで必要な雇用機会をつくることであり、労働組合は、この三点セットで存在するのではないかと思います。この3つはすべて働くことを軸にしています。連合の新しい方針の中に、「連帯経済」という言葉が出てきますが、政府に頼るだけではなく自分たちでやる、こういう方向へ展開してもらうと良いと思っています。労働組合運動は、企業の中の運動だけではなく、社会的な運動としての展開を求められています。働くことを中心に経済社会の仕組みを全体的に捉えなおし、日本の新しい社会ビジョンをつくり出していく必要があると思っています。
経済学は、ここ20年でお金を中心にものを考える癖がついてしまいました。しかし、もう一度考えてみてください。お金が本当に社会の中心でしょうか、働くことが社会の中心ではないでしょうか。確かにお金を持っていれば、食べ物は買えます。しかし、百円玉を飲みこんでもお腹が痛くなるのが精いっぱいで、空腹は満たされません。ところが働くことは、それによってパンもおコメもつくることができる、まさにそれが実態です。
世の中の方向を働くという実態から見直し、働くことを軸に社会のシステムを見直す、皆さんには、こうした作業を行った上で社会に出ていっていただきたいと期待していることを申し上げ、私の話を終わりにしたいと思います。

以 上

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