一橋大学「連合寄付講座」

2009年度“現代労働組合論I”講義録
Ⅰ労働組合とは何か

第11回(6/19)

雇用破壊・大失業時代・・・働くことは生きること

ゲストスピーカー: 笹森 清(労働者福祉中央協議会・会長)

はじめに

 みなさん、こんにちは。まず自己紹介をします。連合会長を2005年までしました。所属は東京電力で、電力総連の会長から連合の会長になりました。今は、労働福祉を中心にした社会運動をしています。連合は、大学で学生たちに「働くこと」を知ってもらおうと、講座を開設しました。最初の授業は5年前に日本女子大学で行いました。その後、私は、学習院、早稲田、明治、法政、同志社、京都、埼玉の7大学で授業をしました。
  学習院大学社会学部の学生に講義をしたときに、あるセクトの学生が正門で「連合会長、入学阻止」という横断幕を張っていました。騒いでいる連中に、「君たちも話を一緒に聞きなさい」と言ったら「いいんですか?」とついてきて、おとなしく話を聞いていました。昔の学生運動とは随分と変わったと思いました。
  社会人を対象に講演することもあります。2005年の郵政解散総選挙で自民党が圧勝したときに、小泉チルドレン83人の勉強会に呼ばれました。思想的にはまったく折り合わない人たちでしたが、まじめに聞いてくれました。そのときに「君たちが次の衆院選挙をしたとき、おそらく3分の2は戻ってこられないだろう」と言ったら、「われわれもそう思っている」と言いました。しかし、議員バッチをつけた以上は、国民や地域のために役に立ちたいので、敵の応援団の親玉の考えについて勉強したかったと言いました。こういう思いは非常に良いと思います。
  また、最近の経営者は、非常に熱心に勉強します。六本木ヒルズにあるITベンチャー60社の社長の勉強会にも呼ばれました。平均年齢36歳で、年商1億円以下はいません。毎週1回夜6時~10時まで4時間勉強会をしています。最初に1時間半話をして、30分間の珈琲ブレイクです。その間に感想文や質問が出てきます。もう1時間話をして、その後に質疑応答です。世界の経済・労働状況、政治や経営などの質問が出てきて、応えきれないほどでした。夜11時すぎまで平気です。「延長戦をお願いします」と言われて、翌日また呼ばれました。経営者の人たちは一生懸命で、日本を発展させた原動力であったのは間違いないですが、今後が問われています。
 今日は「雇用破壊・大失業時代・・・働くことは生きること」というレジュメを用意しました。過去の日本のうえに今があります。しかし、これから変わろうとしていて、だれが変える役割を負うのか、について、みなさんに思いを込めて話をします。

1.労働運動の歴史

(1)戦前の労働運動~1945年
  戦前の日本の労働運動と生活協同組合運動について、簡単に触れます。協同組合は、ロバート・オーウェンの思想から生まれました。労働運動の前身です。NHKの大河ドラマ『天地人』の直江兼嗣は、戦国武将でただひとり「愛」という日本語のかぶとをつけました。「博愛」「仁愛」という意味の「愛」です。
  その近代の先駆者は賀川豊彦です。日本に生活協同組合運動を持ちこみ、労働運動をスタートさせた人です。貧しい人を救う社会運動を始めてから2009年でちょうど100年です。徳島、兵庫、東京で「賀川豊彦献身100周年」というイベントをやります。 
  生誕の地である徳島県鳴門市に、日本で初めて第九が合唱されたという記念館と並んで賀川豊彦の記念館があります。第1次世界大戦中に捕虜になったドイツの兵隊が歌いました。東京では、世田谷と深川に記念館があります。ここでみてほしいのは、彼の生涯を記した色紙です。「私の人生は一切愛である」と書いています。もうひとつは「救貧より防貧へ」です。賀川は、日本では宗教家・社会運動家としてもそれほど有名でありませんが、世界では有名です。ワシントン大聖堂に胸像があるのは、日本人で彼ただひとりです。

(2)戦後 1945年~
  そして、戦争に負けました。1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾しました。この写真の人はだれでしょう。知っている人は手を挙げてください。半分以上の人は知らないね。右は昭和天皇で、左がマッカーサー連合国軍最高司令官です。この写真を見たときに、国民全員が時代のかわることを知りました。
  その後、日本はどのような国になっていったのか。戦前のようにならないために、日本を改造しようと4つの政策が出されました。1つが「象徴天皇制」です。『人間天皇』宣言をしました。つぎに、主権在民、基本的人権の不変を約束させる平和憲法の精神を入れた、「新しい日本国憲法を制定」しました。さらに、「財閥解体」と「農地改革」の4つです。
  私は1946年に新制小学校1年になりました。今の北朝鮮よりも日本は貧しかった。窓ガラスがまったくない蒸気機関車に乗って食料を買い出しに行きました。学校に行くと先生が校門で噴霧器を持って待っていて、頭に白い消毒薬をかけられました。不衛生で食べ物もありませんでした。そこで「民主化五大政策」が持ち込まれます。

(3)マッカーサーの民主化五大政策
  明治維新以降、50年経つか否かの間に、資源をもたない日本が世界と闘う国力をもつようになった原動力は、何だったのか。ここが最大のポイントです。自力で生活ができて、日本を再生させるために自分たちの力をつけるにはどうしたらよいのか。
  まず、経営の民主化をさせること。経営だけが儲かればよいという話ではない。
  2つめは、人権抑圧を撤廃すること。労働組合が集会をすると、警官がきて排除命令を出す。人民・庶民が集まると、国家権力に対して何かをやりそうだと弾圧する。こうした法令を撤廃する、人権・民権の解放です。
  3つめは、学校教育の自由化。
  4つめです。選挙権を持っている人は手を挙げてください。現在は、20歳を過ぎると選挙権をもちますが、戦前はどんなに高貴な生まれでも、女性は選挙権を持ちませんでした。男性も高額納税者だけで、国民の2.2%しか選挙権がなかったときもあります。1925年に25歳以上の男性に選挙権を与えましたが、これは戦争に行かせるためでした。戦争が終わったとき、働きざかりの男性がいませんでした。これからの日本を支える働き手は女性だということで、20歳以上の女性に選挙権を与えました。
  5つめは、まったく資源のない日本が、世界のなかで国力をつけた理由は何だったのか。これは、戦前も戦後も、そして今も変わりません。世界に誇れる日本の最大の財産は、勤勉な労働力です。働く人の力です。この力を活用して日本を再建させるために、どうしたのか。「労働者よ、団結しよう」これは、ソ連が戦後日本に持ち込んだ思想ではありません。欧米の連合国からもたらされた思想です。労働者が団結するために労働組合をつくりなさいと、GHQは労働組合結成の奨励策を出しました。
  当時の幣原喜重郎内閣はこれを受けて、3つの法律をつくりました。1945年12月、戦後4か月で、まず労働組合法ができました。世界でいちばん組合のつくりやすい法律です。法律制定後、組織率は最高55.7%となり、二人にひとりは労働組合員でした。しかし、貧しい時代です。どこかで必ず労働争議が起きていました。1年間に最高で6,200件の争議がありました。あまりに争議が多すぎるということから、労働関係調整法が1946年10月に施行されました。そして、世界でもっとも勤勉といわれる人たちを大切にする法律として、労働基準法が1947年4月に成立しました。これ以下の基準で働かせてはいけない、という最低基準を定めた法律です。罰則規定つきで、守らない経営者は処罰を受けます。
  憲法の施行は1947年5月3日、教育基本法は同年3月31日です。ふつうの国の法律のつくり方は、まず憲法が生まれます。その下に教育基本法ができて、労働法ができます。しかし、日本では労働法から生まれました。日本を再建させるために、これが最大のポイントだったからです。これが日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の政策で、これを受けた日本国民も経営者も同じ考え方でした。

(4)対立する労使
  最初にストライキをしたのは、東芝です。このときのスローガンは、「明日働けるだけの食い物よこせ!」でした。それくらいに貧しかった。この争議は引き分けでした。47年に2.1ゼネストが計画されましたが、GHQの命令で中止されました。ゼネラル・ストライキとは電気も電車も皆がストに参加して、国を麻痺させる争議です。
  1952年、戦後7年目に「血のメーデー」がありました。昔は皇居前広場でデモや集会ができましたが、このとき、機動隊とデモ隊が衝突して広場が血に染まって以来、禁止されました。私が所属していた電力産業労働組合は1年半に16回も電気を止めました。このとき、電気を止めるストは認めないという規制法ができました。あまりにも争議が多く、争議のとき、個別の企業が組合と対応していてはたまらない、経営者も団結しようと54年に日経連(日本経営者団体連盟)ができました。
  当時、戦後の大きな争議がありました。近江絹糸争議です。新聞やラジオのニュースが行き届かない時代に、この争議をみな映画館で知りました。映画と一緒に上映されていた「今週のニュース」で、若い女性たちが工場の前でピケをはっているときに経営者に雇われた暴力団がなぐりかかっている映像が流れました。それに怒った労働者がカンパを持って応援にかけつけました。なぜ女性たちは争議に入ったのか。それは、親からの手紙までチェックされ、人間として生きる権利、人権さえも認めらないのか、と立ちあがったのです。
  1960年に、国を二分する闘いが2つありました。1つは日米安保闘争、主役は学生運動です。これから72年の連合赤軍の浅間山荘事件まで、学生運動は日本の社会運動の主流でした。安保闘争ではデモ隊が国会に突入して、樺美智子さんが亡くなりました。
  もうひとつが、「総資本と総労働の闘い」と言われた三井三池闘争です。石炭から石油にエネルギーが変わるための合理化で、炭坑労働者がものすごい首切りにあいます。全国を巻き込む闘争でしたが、負けます。
  10年ひと昔と言いますが、歴史の大きな変わり目は15年タームです。戦後の大きな節目は1960年、戦後15年目です。日本は1964年に東京オリンピックを開催しました。このときの高揚感はすごかった。開会式に合わせて、新幹線を走らせます。高度経済成長に入りました。スローガンは「欧米に追いつき、追い越せ」です。

(5)55年体制
  1955年は大きな変化の年でした。世の中を変えたのは政治体制です。左右に分かれていた社会党が1955年10月に統一し、それに対応して、分裂していた保守も合同します。今の自民党です。これが自社55年体制の始まりです。
  1955年は、経営と労働にとっても重要な年です。ひとつは、春闘によって一斉に賃上げするスタイルが出来上がりました。そのうえで、貧しい日本が豊かになるためにどうしたらいいのか。今の中国や発展途上国も同様です。自国でつくった製品を外国に輸出して買ってもらうことです。そのために良い製品を安くする、つまり生産性を上げるということです。輸出産業である鉄鋼や造船、自動車、電機などの製造業で、生産性を上げる運動をしようと労使で話し合われました。
  当初組合側は、会社が儲けるためになぜ、組合が協力するのか、と反発しましたが、輸出が増えて、経済が繁栄して生活が安定するのであれば、やってみようということになりました。そこで「生産性三原則」を確認します。けんかだけの労使関係はやめて、日本経済や個別の産業問題について話し合い、労働条件をどうするのか決めようと、労使協議を充実させました。経営側は、従業員のクビは切りませんと雇用の維持を約束します。そのうえで、収益については公正な成果配分をしようと、ステークホルダーを確認しました。つまり、経営者と労働者と消費者の三者の間で配分することを、生産性三原則で確認したのです。このなかに株主はいません。これが日本的資本主義です。日本型経営です。この一番の基本は、働く人を大切にする従業員主権主義です。
  サラリーマンの人に「あなたは社員ですか」と質問すると、全員そうだと答えます。実は、会社法上は違います。会社法で「社員」というのは株主のことです。しかし、日本では、大手企業でも中小零細企業でも、社長は「ウチの社員」と呼びます。言われた社員は「ウチの会社」と言います。これが日本の労使関係で、日本を繁栄させてきた一番のポイントです。

(6)欧米に追いつき、追い越せ 1970年~
  70年代に、日本は欧米を追い越しました。オイルショックをはさんだ75年をへて90年まで、一億総中流時代と言われます。5年毎に実施されている世論調査のなかに「あなたの生活は上・中・下流ですか?」という設問があります。この時代、ほとんどの国民が「ウチは中流」と答えました。
  一世を風靡したのが「サラリーマンは気楽な稼業」と歌った、植木等とクレージーキャッツで、これが一億総中流とイコールだった。ウチは上流ではないけど、中の中かな、と言えたのがサラリーマン家庭でした。
  なぜそうなったのか。日本独特の三種の神器、「終身雇用、年功賃金、企業別組合」がその理由です。年功賃金、つまり去年に比べて今年は必ず賃金があがるというシステムをつくりました。みなさんのなかには、能力主義や成果主義が良いという人がいるかもしれません。一時は良いです。しかし、今年は倍以上収入が増えても、翌年は成果が上がらずに半分になってしまうかもしれない。ローンは組めません。そのため、労使で協議をして、少しずつでも収入を増やすという日本独特の制度が、定期昇給制度です。これによって、日本のサラリーマンは生活設計が組めるようになりました。年をとるから賃金を上げるというとらえ方はしないでください。
  もうひとつは、終身雇用です。今は正社員を採用しないという雇用状況ですが、どんな経営者と話をしても、ベースは長期雇用を残すと言います。そのうえで、短期的に能力を発揮して働く人と、中期的・長期的に働く人に分かれます。
  この2つの制度を可能にしたのが、世界で唯一の企業別労働組合です。この三種の神器を日本は捨てるのか、捨てないのか、というときに来ています。
  そして、欧米に追いつき、追い越していきました。それを可能にした三種の神器は「ルックイースト」「東洋を見ろ」と言われました。それはなぜか。「ジャパンアズNO.1」だからです。両方とも、外国人の書いたベストセラーのタイトルです。何も資源のない日本が世界一の経済大国にのし上がった。だから、外国は日本から学ぼうと言われましたが、残念ながら1990年にバブルがはじけます。

(7)失われた15年 1990年~
  日本はインフレからデフレ経済に変わり、経済体制が激変します。そのため、戦後45年間以上にわたって維持されてきた分配構造が変わります。従業員主権から株主主権が入ってきます。会社はだれのものか?と問われ始めます。そして、1995年に大きな変化が起こります。経営者が働く人を大切にする姿勢を捨てました。日経連が「新時代の日本的経営」というビジョンを出したのです。その柱は、正規から非正規に変えることです。終身雇用を捨てることです。人件費でコストカットして、国際競争に勝つということを打ち出しました。
  1993年、宮沢総理とクリントン大統領が覚え書きを交わした後、アメリカから日本に対して、規制緩和と自由化と民営化について、情報通信、交通運輸、化学エネルギー、薬品、金融、建設その他すべての産業に対して、年次改革要望書が出されました。正式には「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」というタイトルです。今年の分は70ページです。これに基づいて、日本の小泉構造改革は行われました。これは、いわば第2次アメリカ連合国の民主化政策です。1945年に日本改造計画と民主化政策が実施されましたが、50年経ち、今度は、経済大国日本が世界でひとり勝ちするのを防ぐため、ということです。
  それ以後、安倍、福田、麻生と、一年に1回ずつ政権が変わったなかで、生まれたのは格差社会です。数字をいくつか言うと、ひとつは失業率です。いま5.0%で、300万人の失業者がいます。ひどいときは5.4%で375万人でした。失業するスピードが違います。2007年3月のサブプライムローンの破綻に始まり、2008年9月のリーマンブラザーズの破綻から、世界は大不況になりました。今後も失業率は上がり続ける可能性があります。派遣切りや非正規・正社員の首切りが理由です。
  最大の問題は自殺です。年間3万人をこえる自殺者が11年間続いています。これは世界でも日本だけです。警察庁はこれまで年間トータルで自殺者数を発表していましたが、今年から毎月発表することにしました。4月の数字は3060人です。1か月の数字です。1日に100人、1時間に4.2人です。この講義中に6人が自殺しています。経済破綻を苦に自殺した中小企業の経営者、家計がどうにもならずに自殺した父親、失業してホームレスになって死を選んだ若い人たち、こういう人たちが圧倒的に増えています。世界で豊かと言われる日本でなぜ、自殺者が多いのか。自殺者とは、その日のうちに亡くなった人だけをカウントします。翌日まで生きていた人は自殺者になりません。その人たちまで入れると年間5万人、倍近くになります。この脅威をどうみるのか。
  先日、麻生総理と鳩山代表が国会で党首討論をしたときに、鳩山さんは自殺者のことを話題にしました。その後、官房長官が、お涙ちょうだいの話を党首討論でやるなと言いました。こんな感覚だから、日本はおかしくされてしまう。その極めつけはどこにあるのか。
  ひとつは貧困率です。相対的貧困率とは、年収が全国民の年収の中央値の半分に満たない国民の割合です。OECDの欧米、日本など先進国30か国のなかで、日本はアメリカに次いで下から2番目、13.5%です(2000年)。また日本全体では、1,100兆円の預貯金があると言われており、1軒あたり1,500万円あることになっています。しかし、預貯金ゼロ世帯は23.8%、4軒に1軒は貯金がないのが、今の日本です。
  1億総中流から格差・貧困社会になってしまいました。こんな日本にだれがしたのか。貧困とはどのような人を指すのか。派遣村の村長である湯浅誠さんが、興味深い質問をしました。野宿する人を貧困と言いますか。明日の朝飯代のない人を貧困と言いますか。親戚の葬式に香典がない人を貧困と言いますか。1年間に1回しか旅行ができない人を貧困と言いますか。貧困のイメージは人によって違います。ホームレスの人を貧困と思わない人が4分の1もいます。明日の朝飯代のない人を貧困ではないと答えた人が3割います。でも本来は、明日の朝飯代のない人は貧困層ですよね。貧乏と貧困は違います。漢字のとおりで、乏しくて貧しいのが貧乏です。貧困は貧しくて困っていることです。

(8)4つの社会変化
  今の社会の4つの変化は、1つは、国境のないグローバル社会、次に少子高齢化人口減少社会、ITを中心とする情報化社会、地球環境・循環型社会です。今日はとくに、少子高齢化について述べます。
  1900年に、日本の人口は4,300万人でした。1945年の7,200万人から2000年の間に急速に人口が増えました。ピークは1億2,700万人で、戦後60年間で5,500万人の増加です。1947年からの3年間に生まれた団塊の世代は、1年間に270万人が生まれました。戦争が終わった6年間で1,400万人生まれたのです。その人たちが今、60歳を超えます。高齢化がものすごいスピードで進んでいます。
  問題は0~14歳の年少人口で、2005年の合計特殊出生率は1.25です。1975年は1.91で190万人でした。日本の女性が平均して子どもを2人産まなくなったのは、この年からです。それ以後、一度も2.0を超えていません。団塊の世代と比較すると、子どもの数は3分の1です。
  子どもの数よりも高齢者の数のほうが上回ってしまいました。さらに、2010年以降は、高齢者のなかでも、前期(65~74歳)と後期(75歳以上)が入れ替わり、75歳以上のほうが増えます。さらに、平均寿命80年時代から将来は90年時代に入ります。平均寿命が延びると、その分多く年金を払う必要が出てきます。新たな社会保障の構造を考える必要があります。長寿は人類の夢ですが、同時に人類の宝である子どもの数が減ることを、どうしたらよいのか。人生50年から90年時代のシステムに変更するために、働き方・暮らし方・生き方を問い直すことが必要です。

  ひとつは、高齢者の働く環境の整備です。それを提供することで、社会に還元できる高齢者がいます。年金を受給せず、医者にかからずに生きることができます。
 次に、女性です。残念ながら現在の日本社会では、昇進のスピードが男女で違います。女性の社会進出に対して、きちんと保障する働き方をつくることができるのか。
 3つめが、障害者です。目で見てわかるハンディキャップは、比較的カバーされていますが、メンタルヘルスや認知症になるとわかりづらい。その数が急速に増えています。障害者が自立できるシステムが日本社会にありません。
 次に、新卒、ニートやフリーターです。たとえば、フリーターという働き方の場合、生涯年収と生涯のなかでいろいろな保障を受けられないことで、どのくらいの損失があるのか。新しいかたちの働き方を、どのように社会に取り入れていくのか。
 もうひとつは外国人労働力。この言葉を使っているのは日本だけです。世界では、移民労働者といいます。今後人口が減少するなかで、労働力として、定住する働き方である移民を受け入れるか、ということです。フランスとイギリスで、昨年、一昨年と暴動がありました。ネイティブと移民との権利闘争、すなわち、労働条件の格差と宗教の問題です。ヨーロッパの移民労働者のほとんどはアラブ圏からのイスラム教徒です。イギリスとフランスの大半はキリスト教徒です。宗教戦争が日本に持ち込まれたことはありません。文化と生活、福祉、治安だけでなく、このことを理解して、外国人を移民として受け入れることができるのかどうか、決める必要があります。現在、浜松や前橋には外国人の失業者があふれています。外国人の失業問題をどのように解決していくのかが課題です。
 そして格差問題。正規と非正規の働き方をどうするのか。以前は、派遣労働者になりたいという人がたくさんいました。子育ての終わった女性たちが、英語の能力を生かして国際オペレーターになりました。今労働争議になっています。専門能力を生かす派遣という働き方に、様々な問題が出てきています。
 北海道大学の宮本太郎教授が私たちの研究会で、次のように言いました。「『労働を中心とした福祉型社会』。これは2000年に連合事務局長だった笹森さんがつくった言葉です。連合とその周辺のマイナーな言葉でしたが、めざす社会のスローガンとして正しい。それが裏付けられた証拠に、2009年5月に政府の『安心社会実現会議』が出したスローガンは、「雇用を中心とした安心社会を実現する」です。」
 1億2,700万人のうち、サラリーをもらって生活する世帯は約85%です。働くことを中心にして生活の安全保障をめぐらすことが「労働を中心とした福祉型社会」です。最も大切なのは均等待遇です。正規と非正規が同じ仕事をしても、賃金は同じではありません。1時間当たりの換算で、正規は4,000円、派遣は2,000円、パートは1,000円、4:2:1の賃金格差です。同一労働同一賃金という、均等待遇をめざした社会をつくる必要があります。

(8)新たな労働運動・社会福祉運動をめざして
  人口構造がピラミッド型から逆ピラミッド型に変わっています。その社会のなかで、どのようなルールとシステムをつくっていくのか。そのために運動は何をするのか。
  世の中を変える運動は、世界も日本も同じです。1つは60~70年代の学生運動です。日本社会について、なぜ今の学生は考えないのか。農民運動も世の中を動かす力をもっています。レジスタンスを中心とする市民運動。これはNGOやNPOに変わっています。そして労働運動。この4つが社会運動の担い手でした。
  労働運動に限定をすると、残念ながら、ピーク時55.7%の組織率が、いま18.1%です。2人に1人から、5人に1人になってしまった。この組織率の低さをどのようにカバーするのか。労働運動が社会的影響力をもっていた時代を思い出そう。『ALWAYS 三丁目の夕日』を観た人はいますか。ひとりか。昭和30年代を描いた映画です。東京タワーが完成したところで、映画は終わります。貧しかったけれど、温かい家族と地域のきずなの物語です。いま、それが壊されています。
  その時代にヒットしたのが『キューポラのある街』です。吉永小百合さん主演の、最高にヒットした映画です。早稲田大学篠田先生のゼミで、この映画を観たあとに、労働運動の問題について議論をしました。その主力の場面に次のような内容があります。学業優秀だった彼女は高校進学をあきらめます。それは父親の勤めていた鋳物工場が倒産したからです。キューポラとは、鋳物工場の煙突のことです。川口の鋳物工場の風景です。主人公が、母に就職で本当によいのかと問われて、中学校教師から聞いた「1人の1歩より5人の1歩」と答えます。これは監督が考えたセリフではありません。当時の最強の組合である国鉄労働組合のスローガンです。労働組合のスローガンをアイドルに語らせました。
  その後、主人公は就職が決まって工場見学に行きます。日立武蔵工場です。組合の女性たちが集まって労働歌を練習します。倒産した鋳物工場は組合が再建をして、父親はまたそこに勤めます。再建した組合は、JAM、当時の全金同盟加盟です。労働組合が社会的影響力をもっていた時代がありました。
  2004年8月12日に、労働組合プロ野球選手会委員長のヤクルトの古田敦也さんが私を訪ねてきました。プロ野球がストライキをするというときに、本当にストをやるのか否かで相談に来たのです。そのようすはお盆の間のトップニュースで流れ、私と古田さんの2ショットがスポーツ新聞の1面に掲載されて、一時有名になりました。孫と街を歩いていたら、プロ野球の応援団のおじさんだと言われました。
  プロ野球選手会が相談に来たことで、私たちは逆に教えてもらいました。ストをしたことに対して、けしからんと言った国民はいなかったことです。よくやった。交渉をやった後に、古田さんが球場に行くと、古田コールが起きました。われわれがかつてやったストライキで、国民からがんばれと言われたことは、ほとんどない。これは何だろう。これに気づかせてくれたのが、古田さんたちです。組合は変わらなければならない。共感が得られなければ運動の発展はない。これまでのやり方ではだめだと実感しました。
  労働運動とNPOとの関わりを、もっと意識する必要があります。労働組合はNPOでありNGOです。非営利集団であり非政府組織です。今後は、NGOの性格をもてるのかどうか。そのために、今までのやり方をどのように変えられるのか。
  最後に、派遣村について話をします。2008年12月31日、日比谷の派遣村開村式で挨拶をしました。あそこに、久しぶりに社会運動の4つのうちの3つが集まりました。農民運動、NGOなどの市民運動、労働運動で、来なかったのは学生運動だけです。しかし、学生運動は団体としてではなく、学生のひとりひとりがボランティアとして参加しました。1,700人のボランティアのうち、3分の2が学生でした。
  普段、いくら厚生労働省の前で集会をやっても、政府は動きません。NHK・民放のトップニュースで流しました。政治家もたくさん集まり、助け合うという雰囲気がありました。日本社会は捨てたものではない。自己責任という言葉はあるが、壊されたもの、家族や地域社会のきずなを取り戻す必要がある。働くことは生きることであるという原点を思い出して、声をあげて行動することで政治が変わる、そして日本が良くなるし、その主役はみなさんであることを申し上げて、話を終わります。ご清聴ありがとうございました。

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