鈴木文治
『労働運動二十年』

評者:星野裕一(教育文化協会ディレクター)

 1912年に結成された友愛会は、連合に至る日本のナショナルセンターの原点である。本書は友愛会の創立者である鈴木文治の自伝である。
 大逆事件後の「労働運動冬の時代」にあって、東京帝大法科大学卒の超エリートであった文治はなぜ労働運動を志したのか。なぜ、わずか15名で始まった友愛会が急速に拡大し、まがりなりにもナショナルセンターとして社会的に認知されるようになったのか。そして、なぜ労働運動は戦前の日本社会に根付かなかったのか。本書を読むことで、その答えが明らかになるだろう。
 本書は1931年に刊行された。その後1966年に総同盟五十年史刊行委員会によって復刻され、1985年には生誕100周年を記念し、文治の長男の鈴木文彦氏による現代語訳が刊行された。本稿は現代語訳版に基づいている(なお、本書は現在絶版となっている)。

 本書は4章から構成されている。
 第1章の「生い立ちの記」では、1885年に文治が生まれてから、1912年に友愛会の創立に至るまでが記されている。文治は労働運動を志した動機として、「幼年時代からキリスト教の雰囲気の中で育って来たこと」、「青年時代からの窮乏の生活」、「(大学で社会科学を学んで)現代社会の不合理性に目覚めて来たこと」の3つをあげている。
 生家の没落によって苦学を強いられた文治だが、本人の努力と郷里のキリスト教人脈を中心とした周囲の協力によって、東京帝大を卒業する。大学進学率が1%に満たなかった当時にあって、文治には立身出世の道が約束されていたが、あえてその道を選ばず労働運動に身を投じた。なお、文治が大学を卒業してから友愛会を設立するまでの間に、秀英舎(現在の大日本印刷)で幹部社員として働いて組織経営を学んだことと、東京朝日新聞で記者を務めてジャーナリスティックな感性を養ったことは、友愛会の運営に寄与したと思われる。

 第2章の「創業時代」では、友愛会が順調に発展していく様子が記されている。創立間もない友愛会を支援したのは、高野岩三郎・渋沢栄一・添田寿一といった開明的な知識人・財界人・官僚であった。彼らは友愛会の顧問や評議員などの立場から、活動を陰になり日向になり支えた。東京帝大卒という文治の社会的信用が、労働運動とインテリとの橋渡しを可能にしたのである。
 文治の社会的信用は、労働争議解決の際にもいかんなく発揮された。本書には友愛会が関わった初期の争議として、日本蓄音器と東京モスリンの事例が取り上げられている。特筆すべきは、いずれも①まず警察を訪ねて争議への理解を求め、②使用者とつながりのある友愛会の評議員に仲介を依頼したことであろう。治安警察法第17条によってストライキが制限されていることを踏まえて、現実的な解決を図ったのである。
 文治はまた、すぐれた国際感覚の持ち主であった。当時アメリカではカリフォルニア州を中心に排日問題が起きていた。これを労働問題として認識した文治は、渡米してAFL(アメリカ労働総同盟)の大会に参加し、日米の労働者の連帯を訴え、強い共感を得た。その際、現地の労働組合を数多く訪問し、資料や器材を大量に持ち帰り、日本の労働運動に役立てようとしている。

 第3章の「飛躍時代」では、友愛会がナショナルセンターとしての地位を確立して、数々の労働争議や社会運動に関与する様子が記されている。友愛会は1919年に大日本労働総同盟友愛会に改称し(のちに日本労働総同盟に再度改称)、名実ともにナショナルセンターとなった。翌1920年5月2日には、日本で初めてのメーデーを主催した。また、大正デモクラシーの流れを受けて、普選運動をはじめとした社会運動に取り組むなど、労働運動の社会的な影響力は増していった。
 一方で、サンジカリズムの台頭による内部の動揺や神戸三菱・川崎造船争議での敗北など、友愛会改め総同盟の前には壁が立ちはだかる。とりわけ文治個人にとって痛手だったのが、協調会の設立であろう。内務省の肝いりで労働問題の調査研究と教育、および労働争議の調停を行う機関として設立された協調会には、友愛会時代から文治を支えてきた知識人や財界人が多数参加した。労働運動とインテリとの橋渡し役という立場を失ったことは、文治の総同盟内部でのプレゼンスの低下をもたらしたのである。
 文治は単なる労働運動とインテリとの橋渡し役ではなく、労働運動の自立性に強くこだわった人物であった。それが端的に表れているのが、第1回ILO(国際労働機関)総会における労働者代表の選出問題である。政府主導で候補となったのは高野岩三郎で、人物的には申し分なく、文治のインテリ人脈の一部もこれを支持した。しかし、文治はあくまで労働者自身による選出にこだわり、高野に辞退をせまった。原理原則にこだわる文治の面目躍如であるといえよう。

 第4章の「整理時代」では、総同盟が3度の分裂を経て、1930年に文治が会長を辞任するまでが記されている。ボルジェビズムの台頭と無産政党運動は、総同盟の屋台骨をたびたびゆるがした。大正末から昭和初期にかけての労働運動は、度重なる内部対立と分裂によって、本来労働者の地位向上に振り向けるべき貴重なリソースを空費してしまった。1924年に総同盟がILO総会に労働者代表として参加といった成果がある一方で、労働組合法の成立に失敗するなど、この時期の労働運動は停滞を余儀なくされた。
 文治は友愛会発足時に「(労働者)諸君自身の中から会長が現れてくるまで仮に引受けよう」と述べた。その言葉通り、労働者出身の松岡駒吉が、文治のあとを受けて総同盟の会長に就任した。一方で、文治はインテリの労働運動家に自分の後継者を育成することができなかった。野坂参三に始まって、赤松克麿や麻生久などが友愛会・総同盟の活動に参加したものの、最後はいずれも文治のもとを去っていった。

 文治は総同盟会長辞任後の仕事として、「労働問題の調査研究、出版、労働者教育事業」をあげている。そもそも友愛会は、綱領に「識見の開発」「徳性の涵養」「技術の進歩」があることからも明らかなように、労働問題の啓発や労働者教育を目的の一つに掲げた団体であった。友愛会は創設間もない時期に機関紙「友愛新報」(のちに機関誌「労働及産業」となり、さらに「労働」に改題)を発行して労働問題についての論説や調査記事を掲載するとともに、総同盟時代には全国各地で労働学校を開校するなど、一貫して労働者教育運動に力を入れている。まさに労働者教育こそ、日本のナショナルセンターの原点であったのである。このことは、現在その一端を担っている評者にとって、勇気づけられる事実である。

 なお、総同盟会長辞任後の文治について興味を持たれた方は、芳賀清明『鈴木文治のいる風景』(無名社出版、2010年)を一読することをすすめたい。文治研究の第一人者による評伝である。


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