JIL「労働組合の現状と展望に関する研究」(41) |
日本労働研究機構(JIL)は、1994年1月に「労働組合の現状と展望に関する研究会」(略称:ビジョン研)を設置し、1996年8月以降、順次、その研究成果を刊行してきております。
(社)教育文化協会はこのたび、日本労働研究機構(高梨昌会長、花見忠研究所長)のご厚意により、ビジョン研の研究成果を当協会の会員各位に頒布させていただくことになりました。ご尽力を賜りました皆様方には、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。
本書には、ビジョン研の2000年11月10日報告(2001年3月刊行)を収録しました。どうぞご活用ください。
報告概要 |
1 沿革
労働基準をWTOに入れることの是非を問う場合、経済問題とそうでない問題とを峻別するという前提がある。労働問題は社会・政治問題であり、WTOが扱う純粋経済問題とは違う。よって、違う質のものをその中に入れられるかという問題提起が出てくる。
認識しておかなければいけないのは、労働問題はすぐれて経済問題であるという歴史的な事実である。フィラデルフィア宣言の中に「労働は商品ではない(Labor
is not commodity)」という一文がある。これは逆説的に、労働はすぐれて経済的な問題であることを意味していると理解しなければならない。しかし、
労働は単なるcommodityではなくて、人間の肉体・精神を離れて存在することはできない特殊な商品であるということを表現している。
その証拠にGATTの20条e項、刑務所労働の産品に関する措置は例外として認め、貿易を行ってもGATT違反にならないという規定がある。この背後には、刑務所で作られた物品は労働コストゼロなので公平な貿易を阻害する、他の正規に生産された物品等が同じレベルで競争できないという発想がある。
さらに、ILO憲章の前文、「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となるから」とある。
ILOが1919年ベルサイユ条約時代に設立された背景には、他の国が労働条件を下げている状況で一つの国だけが労働条件を上げるのは輸出競争力を削ぐことになるから好ましくないので、一緒に労働条件を上げていこうという発想、いわゆるソーシャルダンピングという概念が表れている。
したがって、そもそも労働というものが経済問題の限りにおいて経済問題を取り扱う貿易機構の中に入ってくるのは、ある意味では当然のことという前提で、この問題に対処する必要がある。
2 社会条項
1919年以降、この問題はあまり表面化しないで推移してきた。社会条項論として登場するのは、1990年ウルグアイラウンドの最後の方でアメリカがこの問題についてWTOマラケシュ協定の中に取り込もうとする動きを示したことによる。このことは大きな論議を巻き起こし、主として途上国から非常に強い懸念が
表明された。
アメリカの動きの背後にはAFL-CIOの強い働きかけがあった。AFL-CIOには、チープレーバーがアメリカの労働者の地位を危うくしているので、経済制裁を含めた手段を講じて、自分たちの職場を確保しなければいけない、という発想がある。
AFL-CIOの努力は一部実り、NAFTAのサイドアグリーメント(North American Agreement on Labor Cooperation)として抱き合わせで条約が採択された(2,000万ドル以下の罰金を含めた制裁措置が取られる仕組みが盛り込まれている)。必ずしも思った通りに機能していないようだが、幾つかのケースでは罰金を科せられたか.あるいは科す寸前までいったらしい。
WTOの場では、アジアの途上国が全面的に反対しているので成果は上がっていないものの、アメリカは機会があればと狙っている。
アジアは理論的にも反対しているが、結局、アメリカの主張は隠された保護主義であるというところに帰着する。アメリカのドグマチックな主張に対してドグマチックに反対しているだけで、なかなか議論がかみ合わない。 ILO勤務の経験とその後の研究者としての調査から、アメリカの攻勢に対する反発の中には、保護主義で貿易ができなくなるから、輸出しにくくなるからという理由に加えて、アメリカが特に主張するコア条約というもの自体が西欧的な人権条約・人権基準であるから、我々アジア人にはそぐわないという感情的な反発があることが分かった。
興味深いのが日本の立場である。当初の態度は曖昧であったが、ある時以降、社会条項論には反対であると明確に公式の立場を表明し、現在でも同様である。
使用者(日経連)の態度はよく分からない。連合はICFTUのメンバーなので社会条項推進論である。しかし、推進論といっても若干ニュアンスがあり、アメリカ流ブリュッセル流のどんどん行けという推進論よりも、アジアの動向を考慮した上での少しオブラートがかかった社会条項論である。
アジアの労働組合はかなり反対派が多い。タイの労働組合は特に反対、またインドの労働組合も強烈に反対で、政府と同じである。マレーシアのMTUCはむしろ賛成、フィリピンも賛成のところがある。社会条項論は本来は労働組合にとって利益になる、つまり、労働条件が悪い国には貿易上の特典を与えないか、経済制裁を加えて労働条件を向上させるので、労働条件が上がるように思えるが、実際、アジアの労働組合は意見が分かれているのが実情だ。
労働組合ですら反対論が強いところから使用者はだいたい反対で、政府は日本も含めて反対ということになり、アジアは全体的に反対が強い。
3 社会条項論の吟味
(1)WTOの見地からの要請
WTOに労働基準を取り入れることが理論的にも正しいしうまく機能するという側面は、児童労働と強制労働についてはあり、客観的に分析したときにも成り立っ議論である。
囚人労働は無償で物ができて、それをただに近い値段で売れば貿易では競争にならないので、ソーシャルダンピングがそのまま適用される。注意を要するのは、これはソーシャルダンピングではなく単なるダンピングではなかろうかということだ。つまり、一定の物品についてのダンピングであって、それがその国全体の
ソーシャルダンピングになっている。よってWTOで経済制裁を科すという大げさなものになるべきではない。また、児童に対して最低賃金さえも支払われないで低廉に物品を生産できるとなると、ここでもダンピングが行われていることになる。物の価格と労働の過程とに具体的・直接的な関連性が見られるということ
からは、貿易ルールの基準としてそれを使っても基本的には間違いではない。
ところが、AFL-CIOやその他の社会条項推進論者が言うところの社会条項論で物差しとして使われるものは、強制労働、児童労働だけでなく、組合権と平等権、差別禁止もそこに入ってくる。貿易における公正なルールを実施するために適用する物差しとして、平等権、組合権を用いると、ルールはうまく機能しないだろう。理論的にも間違っている。その論拠は、OECD『貿易、雇用および労働基準』報告書にある。そこで明確に、組合権と平等権が自由貿易に貢献するという直接的な関連は見出すことはできないという分析結果を明らかに示していることによる。
さらに、無関係な物差しを持ち込むことは、貿易推進の面からも労働条件向上の面からも、危険な結果に陥ることがあり得る。WTOでは、パネルの判断が出て、最終的に経済制裁が行われる前に互いが妥協することをむしろ推奨していて、その場で人権や労働基準が妥協の題材になりかねない。労働条件を上げろと言っているにも拘わらず経済的理由でそれが落ちて、落ちた途端に逆にお墨つきが付いてしまうという危険性がある。
(2)ILOの見地からの要請
ILOにおいて労働条件を高めようとする努力は、最終的には制裁が背後にないために実効的でないという批判がしばしぱなされるし、力、つまり経済の圧力の下で労働条件が変わるのは事実である。この意味で、ILO側からの要請で社会条項を容認する理論的な基盤がないこともなし、。
問題は、最終的に制裁がないからILOは効率的ではないとの議論である。ILOの会議で成立する合意は、三者構成を採って労使が議論に参加しているので、法的拘束力がないとしても非常に強い影響力がある。ILOの手続には制裁がないからだめだという議論はそのままでは受け入れられない。また、経済力を背景に強制をしたものは長く持続できない。
よって、ILOを強化する意味で社会条項を持ち込むというのは、それほど得策ではない。
4 結論
ILOは、今までにも増して監視機構の強化を図るということしかない。拘束力がなくても、実際には拘束していくような形をとるという方向を探るしかない。
WTOは、直接的な貿易ルールとして関連させることはないにしても、社会的視点を導入していく必要がある。この点については、AFL-CIOが行っている様々な努力を評価すべきであろう。AFL-CIOはアメリカ政府だけではなく、非常に精力的に、世銀、IMF、アジア開発銀行、米州開発銀行へもロビー集団を派遣
して、社会的な側面に力を入れるべきと主張している。
WTO、IMF、世銀の発想は、貿易の自由化と経済の発展だけで、社会的な側面の発展にかかわる指標を欠いている。国連総会、経済社会理事会・UNCTADは、社会的な側面を念頭に置いた決議を採択して様々な活動を行っているが、同じ国連の専門機関である世銀とIMFはそれをほとんど無視している。この状況は変えなくてはならない。
UNDP(国連開発計画)の人間開発指標は、その問題に国連側から警鐘を鳴らした最初のものとして価値があるものと思われる。この報告書は、経済的な発展だけに着目したブレトンウッズ体制と、社会的な側面も含めて考慮していく国連との間に話し合いが持たれなくてはならないし、互いの活動を融合させなくてはならないという主張を行っており、この問題は今後さらに重要性を増していくと思われる。
この意味において、WTOも社会的な側面についての理解をしていく努力はしなければいけないが、それが直接的に社会条項として論議されることは、理論的にも実際的にも危険を伴うので推進すべきものではない。
*報告のテーマについて
はじめに I 沿革
──GATT20条(e〕──ILO憲章前文 II 社会条項
──アジアの強い反対──日本の立場 III 社会条項論の吟味
児童労働、強制労働、囚人労働──組合権、平等権は物差し(基準)になるか [2]ILOの見地からの要請 ILO手続での「制裁」の欠如 IV 結論
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