西尾は新党をいつ決断したか?
統制委員会への付議を決定した社会党大会の第3日目にあたる9月14日、西尾末広は『朝日新聞』の八幡政治部長と会談し、民主社会主義新党の構想を明らかにした。これが社会党の決裂を決定的なものとした。この新党構想がいつ生まれたのかはナゾである。西尾はこの大会以前から新党にむけての周到な準備をととのえていたのかどうか。大会2日目に西尾は弁明に立って、統制委員会への付議について詳細な弁明をおこなっている。この日、向坂逸郎と対談した西尾支持の猪木正道は「西尾派は党内にとどまってヘゲモニーを握るべきだ」と主張した。これらのことは、事前に新党構想がかたまっていたとはいえない状況証拠であろう。
この2日目の夜、西尾派と全労の幹部が集まった。中地熊造の回顧によれば、この席上で、西村英一は新党論、伊藤卯四郎と曽弥益は慎重論で、全労の和田書記長はいかようにも対応する、と述べた。海員組合の中地は新党論を強力に推進して、一座がまとまったとしている。
この大会に新産別を代表してあいさつに立った三戸信人は分裂の危険性を警告していたが、この分裂がけっきょく「ときの勢い」であったとしている。また、当時、主流の鈴木派に属し、各派との折衝も担当していた山本幸一は、「西尾氏の反党的言動をマスコミがあまりにも誇大に取りあげ、党内の不信感を増幅させたと思っている。さらに西尾新党結成には某有力新聞が物心両面で協力したと聞いている」と述べている。主流派としては、除名ではない以上離党などはないとふんでいたようである。情報につうじたこれらの見解は、西尾新党は、全労の一部に新党論がつよかったとはいえ、かならずしも事前に準備されたというものではなく、統制委員会付議が可決されたという条件のもとでの、三戸の言うようにかなりの程度「ときの勢い」としての要素がつよかったといえるのではないか。