新しい時代の組合指導者に求められるもの
堀内 昌子(塾教師)
『晴れた五月の青空に うたごえ高く響かせて 進む我らの先頭に なびくは赤い組合旗』
(作詞 江森 盛弥/作曲 関 忠亮)
本来は命を賭けた闘争の歌であったろうが、50年前の私には、さわやかな空に立ち上るこいのぼりとともに、伸びやかに歌われていたと感じた歌。私の青春はこの歌から始まったようなものだ。
今ほどの就職氷河期とはいえないが、私の卒業時はそれに近い就職難の時代であった。
紹介をして下さる方があり『全日本造船労働組合日本鋼管清水造船所分会』の書記として、社会人一年生となった。18歳の春であった。
労働運動とは何か、労働組合とは何かなどなど何一つわからずに。また、ポリシー、など何もなく、商店の売り子さん感覚で、何もない就職先がやっとで見つかったという思いで労働組合に就職した。
当時の日本鋼管の造船部門には、横浜の鶴見造船所、浅野ドックと清水造船所の3事業所があり、春、秋の定期昇給、夏季一時金、越年資金、賃上げ等、この3事業所が統一して要求し、闘争をしていた。
書記の仕事はというと、各会議の報告、代議員会と称する各職場代表の意見交換会の際の書記(議事録採取)、組合員が月賦で購入するものの給料からの控除手続き、集金、労働金庫を通しての住宅資金、生活資金の貸し出し、集金といったものが主たる業務であった。
私のいた組合は、執行委員長、副執行委員長、教育宣伝部長、給与対策部長、厚生部長、青年婦人対策部長に分かれており、名前に即した単純な活動をしていた。
労使交渉、団体交渉はほとんど横浜の鶴見造船で、三事業所が合同で行い、結果を電話で各分会で受け、いわゆる『教宣ニュース』としてガリ版で刷り、各職場に配る。
そうした仕事が主なものであった。
就職が決まったという安堵感とともに、来年は行こうと少しずつ受験勉強していた短大の夜間部に受験をし、運よく合格できた。2年間、ほとんど毎日ぴったりと5時に仕事を終わり、6時から9時までの授業を受けた。プラス教育課程まで受講することが出来た。
執行部の皆さんの『学校優先』の温かい心遣いがあったればこそだった。
我々書記の給料は、組合費の中から支払われる。初めは3000人余もいた組合員が、だんだん減っていき、組合員と同じペースで昇給する書記の給料が高すぎるといつも代議員会での議題となった。その議事録を取る身の辛さ。今考えただけでも身が引き締まる。
私は転職を考えた。東京の日本経済新聞社において、新聞読者への経済解説者、経営指導者を募集していると新聞で知ったので、応募してみた。
三次試験まで行き、重役面接となった。初めに一歩面接室に入ると、重役の面々がやにわにひそひそ話し始めた。
「女の人がいるよ」という声が耳に達した。私はびっくりしてしまった。女を採らないのなら、なぜ新聞広告に「男性のみ」としなかったのか。今のように男女雇用均等法が成立していた時代のことではない。女なんかに何が出来るか、という風潮の強かった時代だ。
悔しかった。天下の大新聞社の経営者がこんな考えを持っているから、日本の経営者は世界に伍して仕事が出来ないのだとつくづく思った。それならなぜこの最終段階まで残したのか、なんだかとてもいやだった。でも、その不満を出さずに面接を終えた。
そして、社内でこんなことも統一できていない日本経済新聞社だったのかと大きなマイナスイメージを持った。
面接には、『どうせ不合格が初めからわかっているのなら』と胸の思いを吐き出した。
地域の経済の指導者としての採用試験ということであったが、地方の『経済』というものは、中央の大きな企業の経済と違って、地方の中小・零細企業というものは、それぞれに独自のきめ細かい事情を持っているので、大所高所から見ただけの経営観察はとても難しいのではないか。きめ細かいそれぞれの事情をしっかり把握することがまず経営の第一歩であると思った。
しかし、経済新聞社であるからにはそれなりの情報収集、人的資源、情報源があるであろうが、それを元に中小、いや零細企業が7割以上を占める地方の各企業に適した型を構築していくことは並大抵のことではないと思った。
ということは、あらゆる資源を駆使して、各企業に合った経営方針を工夫、立案していくというのは不謹慎かもしれないが、ある意味では面白いこと、やりがいのあることだと思い、率直に話した記憶がある。怖いもの知らずの20代後半のことであった。
今にして思えば、かなりの冒険的思考も含め、自分としては、一番純粋な研ぎ澄ましたものの見方考え方の出来た最後のものであったと思う。
試験が終わって最後の面接に残った人たちと一堂に会してみると、衆議院、参議院議員の秘書、弁護士、司法書士などという経歴の持ち主などが居られ、私など丸きりのオネエチャンであった。
ところがこの若さの無手勝流が良かったものか、どう間違えたか合格の通知が来た。
そうなってみると、私は地方経済学に対するいろいろと自分のメニューを持ち、それなりに自分としての方法、夢があり、東京での半年間の講習が待ち遠しかった。
しかし、残念なことにこの直後父が病に倒れ、父子二人だけの私は、とても父を一人置いて、県下を飛び回るわけには行かず、あきらめざるを得なかった。一人っ子ということをこのときほど恨めしく思ったことはなかった。
このときを機に、今まで以上にいろいろと周りの経済事象をかなり客観的に見るようになった。いわゆる『冷めた見方』が出来るようになった。
私の勤めていた組合にも、当時本部であった「全造船労働組合」からオルグとして執行委員が来社され、ストなどを指導するようなことがしばしばあった。
また、当時日本鋼管には「社外工」といわれた造船労働者が、従業員と同じ3000人ぐらいいた。○○組、△△工業などといった具合に、一つの製造工程に本来の従業員(これを『本工』という)と、それ以外の下請け会社の従業員が居た。
あるとき、これらの下請け社外工を労働組合員として組織化するのだといって、本部からオルグがよく訪れるようになった。
その組織化を見ていて、実に歯がゆい思いだった。組合は何のために、誰のために、作るのか。組合に入会することによってどのようなメリットがあるのかなど何も知らせずに、いきなり入会申込書を配り、署名させてしまう。
そしてその票の多寡によって一喜一憂している。馬鹿みたいな話だと思った。
また、組合側はその加入者の朝令暮改をとても恐れており、組合加入者の歩留まりを2割と考えて計算したり、何ともお粗末なことだと思った。
とともに、労働者というものをこのようなレベルだと捉えている組合そのものの質を問われることだと思った。
子供でも、その理由をきちんと理解すれば、自分の信念で自分の所属を決めるであろう。
オルグという役は、いかにして相手に自分の勧めることを理解してもらうか。また、その導入の方法等が大きな戦略となるものなのだ。
それをただ闇雲に『組合に加入しませんか』などというビラを配って、朝出勤時に配布する。また、その各掌握している職場の本工員を通して署名してもらうなど、その加入方法はまるきりお粗末なものだった。
『労働組合』というものはどういうものなのか。誰のための、何のためのものなのかということをきちんと認識して、運動を展開しなくては、本当の意味での「組合員」は育たないと思った。
私は本来『組合員』と『経営者』はその立つべき立場の違いこそあれ、立場的にはほぼ同等と捉えるべきだと思っている。
鶏とたまごの論争と同じで、会社があるから労働者がいられるのだという人がいるが、会社があるだけでは、また経営者がいるだけでは、会社の運営は成り立っていかない。
『会社』『企業』というものの媒体を前に、『経営者』『労働者』が心を一つにして、その媒体物の生死を見つめるのが『会社がなりたつ』ということであり、これを成り立たせるのが双方の役目ではないかと思う。
私の勤めていた50年前の労働組合の時代とはまるきり何もかも変わってしまった。でも、一つ変わらないものが有る。それは『いのちを賭ける』ということだ。
『経営者』は、自分の会社の存続を根本に見据え、『労働者』は、労働力の提供による報酬により生活を守ることを目的として、それぞれ成り立っている。
今の時代、IT関連企業があっという間に設立され、あっという間に没していく。大手の企業も、毎年きちんと利益計上されていたものが、ちょっと赤字計上となると、クッション材のようにして労働者の切捨て、削減を行う。
これでは、昔労働者が赤旗をふりたてて『無産の民よ決起せよ』と騒いでいた時代に一挙に逆戻りしてしまう。あまりにも経営者としてお粗末ではないかと思う。
ワークシェアリングと称して、労働者がみんなで平均して給料を使い合う制度があるが、あれはお盆の水の使いまわしで、どこにも益は生み出せてはいない。
今の経営の状態を見ていると、私のような素人でも十分に経営していけるような様子だ。それは要するに、労働者が赤字のクッション材となっているからだ。
これでは経営をしているとは言えない。
ここに『労働組合』の重要性が生まれてくる。
企業の従業員に「あなたの組合はどんな組合ですか」と聞くと「なんだかわからないけど、給料から高い組合費を引かれているだけ」という答えがかなり高率で返ってくる。
実に情けない、さびしい話だ。
しかし、これには組合運営者側にも責任がある。組合員一人一人の心を掴み切れていないということなのだ。
今の組合運営者は、『組合』は何のためにあり、どうすることが一番の望ましい姿と捉えているのだろうか。
この論文募集に応募するに当たり御会のサイトを拝見したが、対労働者に「労働契約」「就業規則」「労働災害」等々の運用などは書かれているが、労働者の根本である「なぜ働くのか」「なぜ給料をもらうのか」「なぜ自分の力、能力を傾注してその企業のために働くのか」「受け取った給料は、自分の力に見合ったものであったか」などという根本が噛み砕いて書かれていないように思う。そのようなことは『働くことについてのいろはだから』とお叱りを受けそうだが、 この根本をどこまで見つめられるかによってその提供される労働力は違ってくるのではないかと私は思う。これもまたあまりにもわかりきったことに過ぎるということなのだろうか。
お叱りを承知の上で敢えて申し述べさせていただく。
リーマンショック以来大勢の失業者が出て、その日の食にも事欠き、炊き出しまで出る事態になっているが、これは経営者、労働者双方にその原因の一端はあると思う。
経営者側は、極論を言わせていただければ、今この窮状に耐えて余力を持っておかないとこれからの企業運営に支障をきたすから、この際贅肉処理をしておこうということでの処分ということだと思う。
それに比して労働者側は、長年働いてこのたび急に退職勧告を受けたというより、今まで自分主体の人生スケジュールで、自分の都合の良い時に働き、自分の都合によってやめるということをしてきた人が多いようだ。
ここで、では、いったい組合は何をしてきたのか考えてみたい。
組合員が言うところの「高い組合費」の行方はどうなったのか。どういう事に使われたのか。この「組合費」について、「まるで組合の詐欺にかかったようなものだ」との給う元組合員の言を聞き、あまりの無理解に腹を立てたり、あきれるより、〈これは組合の組合員教育の不備から来たものだ〉と私は思った。
これからの組合は、《組合員を育てる》ことに大きなポイントを置かなくてはならないと思う。
昔のように、食うや食わずの命を賭けた労働者の時代とは違い、不況とはいえある程度どのようにしても命は支えていける今は、労働者としても問えるその根本の質が違ってきている。
その証拠に、我々世代であればただぶらぶら働かないでいるということは恥であったが、今は体のしっかりした若者、いや中年者までがいわゆるフリーターと称してあちこちに存在する。働かないでいることを何とも思わず、自分の都合の良い時に働き、お金のある間じゅうはそれを使い遊ぶ。そしてなくなればまた働くといった生活パターンを平気で繰り返している。
昔はルンペン、プータロウといわれたこの種の人は、ほんの一握りであった。ところが今はその数が多い。だからその声もかなり正当化されてきつつある。自分の履歴書に『フリーアルバイター』と平気で書き込む者も大勢いるということで、異常なことも数が多くなれば正常視されてしまう今の世情が異常であると思う。
そして食えなくなれば、世の中の優しい人々が、自分達は十分に食えているので、一握りの米、米代ぐらいは拠出してくれる。これでしばらくは凌げる。あまり命を見つめての緊迫感はない。いやその必要に迫られていない。
こういう状態が日常茶飯事に見受けられる今、昔の〈組合感覚〉での組合運営では、組合員は離れてしまう。また、詐欺師よばわりもされよう。
十年一昔が五年一昔の、いやもっと速いスパンになった今、『組合運動のあり方』も大きく様変わりしてしかるべきであろうと思う。
とにかく今は根本の「労働者の心」について多角的に分析することが急務であろう。
もっといえば、「労働者と経営者の違いは何か」にまで思いを至らしめねばならないと思う。
労働者は何も持たないので、経営者のご機嫌を伺って給料をもらっていれば良い。余分な口出しはしないほうが良い。くびになっては困るからという考えがまだまだ根強くあることだろう。
では、労働者だけでことが成り立っていくのか。もちろんNOである。
しかし、これを経営者の立場に立って考えると、いくら辣腕の経営者が企業を立ち上げようが、それを維持運営してくれる人、つまり労働者がいなければことは成就しないということは自明の理である。
この論理から考える時、労働者と経営者は互角の位置にあるといってよい。その双方の行事役を担うのが『組合』ということになると思う。
組合員が自分達の拠出した組合費が、自分達の生活向上のために使われていると知れば、これからもっと運動展開をしていく中で組合費を値上げしても、組合員からは異義は出ないと思う。そして自分達も組合と協力をしようということが生まれてくると思う。
では、新しい時代の組合運動はいかにあるべきか。
これは今までも御会でもかなり論議されて来たであろうが、いろいろな立場によりその見方考え方は違ってこよう。しかし、その違いがとても大切であると私は思う。
そして、私はそれにもう一つ、組合運動をぐーんと長い目で見て、経営者の長期計画以上の長さで見つめて、その上に立って指導方針を決めてほしいということだ。
これは私の50年の教育者生活からいえることだが、ある意味で大小といえども、現象としてことが表に露出してきてからでは遅い。子供たちの性質、学力は、まだ子供がお母さんの胎内にいるとき、ある程度形成されているということが言える。
もっといえば、そのお母さんも、その育った環境等の形成から及んでいるといえる。こうして考えると、これからの労働運動は、当面の課題消化と、未来への先行投資的要素を含んで展開されるべきだと思う。
今の組合員の家族、子供さんをしっかりと教育してほしいということだ。
この気持ちは50年前から私がずっと持っていた持論だ。男であれ女であれ、労働者の背後にいる人々を含め組合は一つと見るべきであると思う。
労働者が健康を損ねれば、仕事に支障を来たし、仕事が遅れれば全体に負担がかかる。
これは一つの負の連鎖反応で、家族、周囲の者みんなの注意力を結集して一つのことが成就するという観点に立ち、労働者の基盤となる家庭の円満構築、健康維持への配慮等々大切なことであると思う。
時を捉えて、たとえば組合の結成記念日、会社の設立記念日などに家族を招待して「やさしい組合の話」をイベントに組み入れたり、夏休みなどに子供たちをお父さん、お母さんの職場見学会に招待したりして、そのときに、組合の話をあまりにうるさくない程度にしていく。ほんの少しずつで良いから、自分達家族は「組合」というものに守られて生活しているのだということを意識注入して行く事が大切であると思う。
2000年に施行された介護保険制度が、介護保険利用者が、軽度な障害者(病理者、高齢者を含む)の利用があまりにも多くて、予算が圧迫されるということで、このほど2006年改正時から『予防』に重点を置くことになった。とにかく少しでも早く介護保険適用予備軍となる人を発見して、大事に至る前にその芽を積んでおくという方針を打ち立てた。
これはまさに正解であると私は思う。『予防』は、国にとっても、適用者となる国民にとっても、お互いに良いことである。
これと同じことが『労働組合』についても言えるのではないか。一朝事が起きてから縄をな綯うのでは遅すぎる。
昔の「闘争資金」に相当する生活積立金のようなものを少しでも組合費から積み立てをしておく。何かあってもしばらくの間はそれで凌げるくらいの用意をしておけば、家族が路頭に迷うこともないではないだろうか。
先ほどの家族への意識注入と相俟って、この資金の積み立てはたとえ僅かずつであっても、第二の生活形成に役立つことであろう。
最後に、組合の組合たる役目に『経営』のあることを認識しておきたい。
《労働者はただ働くだけ》であったのは昔のこと。今は、労使協議会において組合側からどしどし経営方針について質問が投げかけられる状態にしておかなくてはならない。
経営の良し悪しによって、その根本の企業の存続はもとより、すべての歯車のかみ合わせが違ってくる。労働者だから経営には一切関係がないとはいえない。
ある意味ではその企業の生命線を握っているのは労働者であるといっても過言ではない。
生産企業でも、販売企業でもその企業を労働者は各分野において一番ホットに掴んでいるはずだ。その情報を生かして、企業を見つめていけることは労働組合執行者の特権であると思う。
そのためには企業分析、情報解析等々の目をしっかりと養わなくてはならない。ある意味では経営者よりその力は問われることになる。
そして、経営者と互角に、現場生産者側の立場から経営の目を向ける事が必要であろう。
新しい時代の労働者には、新しい時代の感覚を持った指導者が必要である。これがこれからの組合指導者に問われる力量である。
労働者が、その生活維持のために水先案内人として『組合指導者』を認識した時、新しい時代の新しい行動運動が始まったといえよう。 |