労働組合、何ができるか、何をすべきか小畑 明(運輸労連本部・組織部長)
はじめに1995年に日経連(当時)が発表した『新時代の日本的経営』以来、労働市場の外部化、雇用の流動化が急速に進んでいる。また、2003年6月の労基法改正で紆余曲折の末、解雇制限規定が入ったが、次の法改正の焦点は、解雇事件における金銭解決とホワイトカラー・イグゼンプション制の導入であるといわれ、すでに労働政策審議会の分科会で検討が始まっている。 こうした中で、労働組合は組織率の低下にハドメがかからず、これからどのように労働運動を再構築していくのか。これを明らかにするのが本稿の目的である。 第1節で、運輸産業において今いる運転手が請負にされてしまう現実と、それに対する労働組合の取り組むべき方策を論じ、第2節では、雇用を守るために労働条件の切り下げを飲まざるを得ない労働組合の苦渋の選択について述べる。第3節で、労働運動の再構築に向け、戦後労働法解釈の枠組みを転換すべきことを論じ、第4節で、その転換を受けて、労働組合は何ができるか、何をすべきかについて提言する。 第1節 激変する労働の現場業務請負化の実態について具体例を紹介する。本社は横浜市、従業員数は約120名、年間売上は約20億円の運送会社である。会社は、経営状態の悪化を理由に給与体系を変更し、「給与」は今までの基本給のみとし、残りを各人ごとに業務委託契約を結び「委託料」とした。狙いは社会保険の事業主負担の軽減である。次に「委託料」の改定を行った。もともと「委託料」には基本給以外のすべての賃金項目が入っており、会社は「現行の給与支給額は100%保障する」としていたが、残業算定の基礎額を最低賃金である「707円」にするという内容である。さらに、委託料に含まれる諸種の手当カットが提案された。たとえば高速道路を使用する基準を設け、基準より多く高速を使用したら一定比率で手当をカットするというものである。ルールを設定し一見公正さを装ってはいるが、賃金カットを避けるために一般道を使えば、仕事の回転が落ち、今度は運賃歩合が減ってしまうという仕 組みになっており、構造的に賃金カットがもたらされるようになっている。会社はこれでも足りず、事故を起した場合の車両損害を、過失割合によって最大100%を従業員に負担させる提案を出している。「これが受け入れられなければ会社は倒産する」「この条件変更が飲めなければ会社を辞めてほしい」というのが会社の言い分である。次に来るのは、基本給部分を含めて給与全額を委託化する提案と予測される。 こうした現実に対して、どのような対抗手段を取り得るか。筆者は、変更解約告知に持ち込んで判例を蓄積していく以外にないと考えている。変更解約告知とは、新契約の申込を伴った従来の雇用契約の解約のことであり、切り下げた労働条件を受け入れなければ解雇するというものである。ドイツでは解雇制限法2条において「留保付き承諾」を規定し*1、辞めたくないので新しい労働条件は受け入れるが、裁判所に新しい労働条件の社会的正当性を審査してもらうという道が開かれた。しかし日本には、「留保付き承諾」という法制度がないし、そもそも変更解約告知という概念自体が確立しているとはいえない*2。したがって現行法では、使用者が変更解約告知を労働者に迫った場合、拒否すれば解雇になる。そこで拒否しながら雇用を継続させるには、留保付きの承諾だということを使用者に認めさせなければならないが、労働法上に規定がないため民法528条が適用され、留保付き承諾は、使用者からの申込に対する拒否と労働者から使用者への新たな申込に過ぎないものとなる。しかも使用者にはこの新たな申込に対する承諾の義務はない。したがって、使用者が承諾しなければ、解雇か変更受諾かの二者択一に戻ってしまう。しかし、労働契約内容を変更する申込については、民法528条は適用しないと解釈すべきであると主張する労働法学者もおり*3、裁判例の蓄積によって留保付き承諾を定着させていく以外にはないであろう。配転訴訟においては、異議を唱える労働者が配転を受け入れつつその正当性を裁判で争うわけで、変更解約告知の裁判も、そのように考えれば現実的な選択であると思われる。 *11969年の解雇制限法の改正によって立法化された。 第2節 労働組合の苦渋の選択日経連(当時)が1995年に『新時代の日本的経営』を発表し、規制緩和の流れの中で、労働市場の外部化、雇用の流動化を一層促進させる提言をした。すなわち労働市場の外部化については、「企業での能力発揮が満たされなかった場合、働く個々人の能力を社会全体で活用するために、企業を超えた横断的労働市場を育成し、人材の流動化を図る」*4とし、 雇用の流動化については、労働者を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」の3グループに分け、「経営環境の変化に応じて、どのような従業員が何人必要かといった“自社型雇用ポートフォリオ”の考えに立った対応が必要」であると*5している。 実際、1980年代後半から1990年代半ばにかけて、フレックスタイム制、裁量労働制、変形労働時間制など労働基準法の労働時間規制が緩和された。そして1990年代後半になると、長期不況や経済のグローバル化を受けて、国際競争力の強化を旗印に労働法における「規制緩和」が主張され、1998年改正が行なわれた*6。改正内容で重要なのは、労働契約期間の延長、変形労働時間制、新たな裁量労働制などである。特に労働契約期間の延長については、これまで1年が限度とされていたが、専門的知識等を有する労働者および60歳以上の高齢者については3年に(さらに2003年改正で5年に)延長された。契約更新が繰り返されると、解雇権濫用法理の類推適用で契約期間の満了による雇い止めが事実上できなくなる。したがって、1年から3年というのは雇用期間の延長ではなく、これまで更新によって可能だった長期雇用が3年という短期で打ち切られることを意味する。 労基法の2003年改正では、曲がりなりにも解雇制限規定が入ったが、次なる改正の課題は、時間規制の適用除外を拡張するホワイトカラー・イグゼンプション制と、解雇紛争の金銭解決制度の導入であるといわれている。前者は、割増賃金の支払い対象からホワイトカラーを全面的に除外して、サービス残業を合法化してしまう恐れがあり、後者は、迅速な紛争解決に名を借りた解雇規制の潜脱になりかねず、非常に問題のある制度といわざるを得ない。しかし、すでに厚生労働省は2004年3月23日、労働政策審議会の分科会を開き、採用から解雇を含めた雇用の終了までの労働契約全般にかかわるルールの法制化を目指す方針を決め*7、検討が始まっている。 このような政府・経営側の攻勢に対して労働側の現実はどうか。低下にハドメのかからない労働組合の組織率は、19.6%とついに2割を切ってしまった*8。5,300万人の雇用労働者の中で、人員で2割、企業数では1%しかカバーしていないことになる*9。こうした組織率の低下に加え、運動面においても「春闘の終焉」といわれるように経済闘争の成果が著しく低下している。ここ10年における連合春闘の平均賃上げを見ると、1997年の8,559円・2.89%を境に下がりつづけ、2003年になると5,204円・1.66%にまで落ちている*10。高コスト体質からの脱却、国際競争力の強化を理由に、首切りの異名となったリストラを推進する経営側を相手に、雇用のためにはあらゆる切り下げを飲まざるを得ないというのが労働組合の苦渋の選択なのである。生産手段を持たない労働者は、雇用を最優先せざるを得ないからである。 なぜ、労働運動はこうした窮地に追い込まれてしまったのか。それは、生存権を根拠に社会権としての労働法をこれまで展開してきたのだが、その枠組自体が現実社会と合わなくなってきたにもかかわらず、そのズレを修正できないでいることに問題の本質がある。 *4新・日本的経営システム等研究プロジェクト『新時代の「日本的経営」―挑戦すべき方向とその具体策―』(日本経営者団体連盟1995年5月17日)27頁 第3節 パラダイムの変換つまり、昭和20年代における労働法の形成期においては、均質的な工場労働者集団を前提に、集団の力で交渉する労働組合像が想定されており、そこでは従属労働論、生存権としての団結権、集団主義が強調された。しかし、従属性については、裁量性の高い労働者や専門的な知識・技能を身につけ自立化した労働者が増加しているし、生存権としての団結権は、生活が豊かになり肉体的な飢餓が去ると同時に、職場における能力主義の広がりによって、その基盤が失われつつある。また、組織強制を当然とする集団主義は、労働者を同質的な存在として捉えているわけだが、それは労働者個々人の個性・自由の軽視につながるであろう。労働組合をめぐる状況は大幅に変化しており、ここにパラダイムの変換が求められる理由がある。 その1つが「キャリア権」の考え方である。経済情勢の変化によって雇用保障が困難になった場合、転職や失業があっても職業能力の低下や人的資源の枯渇が起きないよう、国がキャリア形成と発展の機会を準備すべき*11であるとする。そしてキャリア権の保障を憲法13条(幸福追求の権利)、26条(教育権)27条(勤労権)に基礎付け、労働権を中心に職業選択の自由と教育権を統合した権利*12であるとしている。 もう1つは、自己決定権を労働法の基本理念に据える考え方である。従来の労働法理論においては、集団意思の貫徹が個々の労働者の利益になるので労働者の個別意思よりも労働組合の集団意思を重視してきた。しかし、労働組合の活動と機能がそれ自体に正当性をもつのではなく、その正当性の根拠は労働者の自己決定を基礎に集団的意思が形成されることにある*13とする。 現実に引き当てて具体的に述べるなら、冒頭の請負化の事例において、外部労働市場における教育機能の充実や、企業内部における成績評価の公平性などが確保されるという前提条件があるならば、本人同意のもとでの請負化はやむを得ないのではないかと考える。その根拠は、労働法は市民法と違い体制内の法だからである。そもそも労働法は市民法との抗争の中で勝ち取った戦利品であり、従って労働法は政策論であることにその本質がある。そして政策論であるならば、時代に合わせて政策を変更することはむしろ当然である。それに対し市民法は、封建体制を否定することで成立している。つまり労働法が立法論たり得ないのは、体制内の法だからである。しかし、それでは労働者の権利を守ることはできず、労働法としての意味がないのではないかというと、それは違う。内部労働市場が続くのか労働市場が外部化していくのか、あるいは長期雇用慣行が続くのか短期雇用に移行するのかといった問題は、実は労働力の需給によって決まる*14。したがって、グローバル化によって激変している雇用システム・雇用環境も、必ず揺り戻しが来るであろう。経済情勢や雇用の変動に対応するだけの労働組合ではなく、先に述べたキャリア権や自己決定権など、より普遍的な原理に基づく労働組合運動でなければならない。19世紀の思想家トクヴィルが指摘したように、国家と個人の中間に位置し、個人の自由を守る防波堤の機能を持つ中間団体*15として、労働組合を位置づけることが重要であると考える。それは、企業の中にもう1つの精神世界を築くことであり、結社の自由、すなわち自由権*16に基づく運動として構成することができる。 *11諏訪康雄「キャリア権の構想をめぐる一試論」『日本労働研究機構雑誌』No.468 (日本労働研究機構 1999年7月)57頁 第4節 何ができるか、何をすべきか戦後労働法の形成期においては、労働組合を結成して団体交渉することが、飢餓状態から脱出するための経済闘争そのものであり、団結権は生存権として認識されてきた。しかし、団結権を生存権ではなく、自由権、教育権そして幸福追求権に基礎付けることで、時代状況に即応し、より普遍的な労働運動の展開が可能になるのではないかということを前節で述べた。 そこで最後に、労働組合は具体的に何ができるか、何をすべきかを考察したい。まず、何ができるか。労働組合の目的は、労働条件の維持改善と経済的地位の向上である(労組法第2条)。冒頭の請負化の事例でいえば、使用従属関係にある労働者を、本人の同意なしに請負化することは許されない。請負化を阻止することは、まさに「労働条件の維持改善」である。この事例で労働組合が訴訟の当事者になるには、変更解約告知を「集団的に」通告されたと構成して、判例を積み上げることが必要である。また、「経済的地位の向上」は、立法当時、労働運動の左傾化、政治化を防ぐために規定されたものであるが、国際競争が熾烈になり人件費を人に対する投資*17ではなく、コストと捉える昨今の市場原理主義経済の中でこそ、活かせるのではないかと考える。あくまでも公正さを追求した武田薬品工業の「稲作流」成果主義*18、「従業員が自立し、成長し続ける以外、企業の発展はあり得ない」として、「脱春闘」政策を進め、雇用と賃金を確保するため組合員の自立支援を行うセイコーエプソン労働組合*19などの動きが、時代に適合した「経済的地位の向上」の取り組みであると評価することができよう。 次に、何をすべきかである。団結権を幸福追求権や教育権に根拠付ければ、そこから導き出される労働組合の役割は、教育訓練機関としての機能であろう。労組は、人材養成機関になることが求められ、その場合、「ウチの組合に来ればコンピュータができる、社労士が取れる」等々、企業別ではなく横断的な組織として展開していくかも知れない。現在、働きながら専門的知識・技能・資格をとる人が増えている。独立・転職志向の高まりといえるが、その延長線上に何があるか。人に勝る能力を持たないと会社に採用されにくくなる。しかし、そういう能力を高めれば独立自営業、顧問、請負人化する可能性があり、そうなると労働者と使用者の関係ではなく委託者と受託者の関係になってしまう。能力主義・能力開発は雇用関係を崩壊させる要因をはらんでいるのである。そこで、能力開発プログラムをたて、スキル開発をし、非営利で労働者を企業に送り込んでいく労供事業を見直していくべきである。そこには真に自由・平等のコントラクターを養成し組織化できる可能性があるからである。 最後に、労働組合の社会福祉事業も今後すべきことの1つであろう。国は、お金がなくて福祉事業を民営化という名の下に外注化・委託化を行っている。その委託先としての労働組合である。年金制度の補完や独自の住宅政策などが考えられよう。 *17S・パーシー「グローバリゼーションと国際自由労連(ICFTU)の役割」連合総研編『グローバリゼーションと労働の未来』(連合総合生活開発研究所 1998年8月)51頁 おわりに労使協調は労使共闘であり、その緊張感がなければ慣れ合いになってしまう。政府の各種委員会に労働組合から委員を輩出し、政策決定に関与することは望ましいことではあるが、コーポラティズムに過度に依存することは、労働運動を停滞化・弱体化させることに繋がりかねない。労使関係は自主解決が主体であり、労働組合は自分の土俵に持ち込んで、集団的に解決していくことが本来の姿であることを確認しておきたい。 |