私の提言 連合論文募集

第1回入賞論文集
優秀賞

障害者雇用と労働組合

原 均(横須賀就労援助センター指導員・元鎌倉地区労事務局長)

ガンバローは禁句

 私は労働団体に勤めていたが、組織が解散し、失業した。

 ハローワークに通っても、年齢条件のためにほとんどの求人に応募すらできなかった。そのとき、唯一「45歳以上」という年齢指定の求人があった。1年間の有期契約で自治体関連団体の仕事である。「とりあえず、これで喰いつなぐか」。私は深い考えもなく応募した。定員1名に対して何人かの応募があったようだが、私が採用された。

 数人の職員の上に立つ施設長は障害者福祉行政の退職者であり、私にこう言った。「ここは障害者の就労を進め、自立を促すところです。ところが私たちは福祉に係わってきたためにどうしても障害者の立場になり、企業の論理がよくわからない。あなたの経験から私たちの足りない部分を教えて下さい」。正確には企業の論理だけでは働く場面は出にくい。そこに働くものの立場である労組役員としての経験を活かしてほしいという意味である。私は少し感激した。豚もおだてりゃ木に登る。まじめにこの仕事を勤めようと思った。

 勤務すると早速あちこちに引き回され、障害者の前で突然「指導員」としての役割を求められたりして、理詰めの説明よりも体で仕事を覚えさせられた。

 その団体のシステムは次のとおりである。行政機関の紹介や自治体広報により、知的障害者と精神障害者が随時登録してくる。彼らに簡単な職業訓練を行い、就労の心構えを教え、その適性を確認しながらハローワークや求人広告などの情報を基に仕事を探す。そして事業所(一部上場企業から個人商店まで)と折衝してその就労を果たす。必要があればその職場でジョブコーチも行うし、その後も問題がおきれば対応して定着を図る。こうして年間数十人の障害者が仕事に就いている。

 すべてが初めての私にとっては貴重な体験の連続だった。

 そこで最初に考えさせられたことは、「仕事」のもつ意味である。

 訓練に来ているときは無気力そうにしか見えない知的障害者が、就労すると生まれ変わったように目を輝かして仕事をしている姿を何回も目撃した。彼らは身体を動かすのが嬉しいのではない。自分が仕事(労働)をすることによって完成する商品やサービスがあることを知り、その達成感を求めて仕事をしているのだ。そして、その達成感は賃金というかたちで立証される。

 賃金は、それまで保護者から与えられていた小遣いとは異なる。自分の労働によって得た賃金で生活費や自分が欲しかったものを賄える。それは、保護されるだけの立場であれば永久に得ることのなかった自立の原動力である(もちろん、そこで得た賃金が一人立ちできる水準かどうかという問題は残るが、当面は障害基礎年金とあわせて生活することになる)。

 次に考えさせられたことは、精神障害問題にかかわる人たちから異口同音に語られた「頑張ろうは禁句です」という指摘である。これには少し困った。自分はつい先日までガンバロー三唱の手配をしてきた人間である。そうでなくても、仕事をしている障害者に「頑張れ」と声をかけたくなる。むしろ、頑張れと言ってはならない仕事とは一体なんなのか?

 しかし、知的障害者や精神障害者は競争や闘争をしているわけではない。文字通りに自己実現のために仕事をしているのだ(そういえば自分も失業している間、生活費を稼げない危機感とともに自己表現の場がなくなった事実に呆然としたものだ)。そのとき、それ以上に頑張れと追い立てるように言うことはむしろ障害者の思考に混乱を持ち込むことになる。そう言われて私は「そんな働き方もあるのか」と納得した。

 ただし、作業所や授産所での作業と異なり、就労すれば障害者といえども市場原理と無縁でいられるわけではない。当然、効率も求められる。頑張ろうという言い方はしないが、その努力の大切さは障害者にも理解をしてもらわなければならない。それが先述した私の役割だと悟った。(保護より自立推進が経済政策としても効率的だという興味深い提起があるが、今回の主題ではないので省略する)

偽善のパフォーマンス?

 障害者就労支援事業に関わり始めたころは、この課題について労組との関係はないと思っていた。

 ところが、ある日、施設長が私に「○○(企業名)って組合が強いんですか?」と周知の労組名を挙げて聞いてきた。なんのことかと思ったら、次のエピソードを語ってくれた。

 施設長がその企業の事業主と知り合う機会があり、知的障害者の雇用を要請したところ、事業主は善処を約束し、その後、知的障害者の職種を用意したと連絡があった。こうして障害者雇用がほぼ内定しようとした矢先に改めて連絡があり、実現が難しくなったと通告された。その理由は労組が納得してくれないからと言うのである。

 労組は、知的障害者が職場に配置されれば組合員がその面倒を見なくてはならず、労働強化になるから反対だと主張しているそうだ。会社からの伝聞だから全部が事実かどうかはわからないが、そういう話になっている。私は「その組合が障害者を排除する方針だとは思わないが、現場にはいろいろな意見の人がいますからね」と答えるのが精一杯だった。

 さらにある日、私は別な中堅労組委員長と遭遇した。懐かしそうに声をかけてくる彼に今の自分の仕事を説明し、「御社でも障害者雇用の場がないかどうか検討してよ」と依頼した。すると彼は「無理だなぁ。職場は人員減が進み、とてもそんな状況ではない」と素っ気なく答え、ついでに「法定雇用率は達成しているから良いじゃないか」と付け加えた。

 ところが次の日、私はその会社構内の別会社の求人広告を見つけ、障害者雇用の可能性があると判断し、その会社に問い合わせをした。結果は成就しなかったが、その会社はまじめに障害者雇用を検討してくれた。その態度は本体の労組委員長よりも余程積極的だった。私はその事実だけを労組委員長にメールで報告した。彼は一言「よくわかりました」と返信してきた。

 彼は障害者の法定雇用率という意味を理解しているから、まだ良いほうだと言えるかも知れない。その後、私は旧知の多くの労組役員に話をしたが、その言葉を知っていてもその内容は知らず、その件を組合や会社で話題にしたことはないものがほとんどだった(もっとも、私も組合役員を務めていたころは同じようなものだったが)。

 あるとき私は障害者団体の資料を読んでいて、障害者雇用推進のために市内の主な企業や労組の意見を聞きたいという一文を見つけ、思わず唸った。働く環境作りを模索しているこれらの人たちの質問に答えられる労組が果たしていくつあるだろうか?

 その一方で、労組や連合(地協)や労福協などは、その主催行事によく障害者団体を招く。また、ボランティアとして障害者に接する機会を作る。見方によっては、自分たちの職場に障害者を受け入れないが、イベントでは障害者を招請したり世話をするかたちになっている。私は自分が障害者雇用に関わるようになったからと言って急に偉そうに指摘するわけにはいかないので、社会福祉関係の労組役員にだけこっそりとその矛盾を語った。すると彼はあっさりと「そうですよ。あんなのは偽善のパフォーマンスに過ぎない」と言い切った。

 そんな話が続くと、労組というのはいかにも正社員(組合員)の既得権益だけにこだわる守旧派集団だという気がする。

 考えてみると、障害者雇用を進めるための入門書はいくつかあるが、ほとんどは福祉関係者や行政によるものであり、そのほかには日経連(現・日本経団連)発行のものがある程度だ。日経連の本は活用しやすい内容で評価できる(ただし、あくまで財界団体が作成したものであり、当然のことながら個別企業がそれに従って障害者雇用を推進するかどうかは別な問題である)。ところが、労組がこの問題について作成したテキストというのは皆無なのだ(私が知らないだけなら、むしろ嬉しい)。

 連合か産別組織か労福協かどこかで「職場で障害者を受け入れるために」というタイトルの本を発行しませんか? 私は読みたい。多くの労組員にも読んでほしい。さらに、障害者にも読んでほしい。それは労組の社会的評価を高める一歩になるだろう。

労組役員経験者の奮闘

 しかし私は、意外にも障害者雇用に労組関係者が少なからず関わっている事実を徐々に知るようになった。

 直接的には特例子会社の運営に労組役員経験者が多く携わっていた。なぜそうなのかは私の短い経験ではわからない。かれらも役員経験を強調しているわけではなく、交流の場で「労組役員を務めたことが役に立っています」とさらりと語り、私は初めて「あぁ、この人もそうなのか」と知るくらいである。

 初めてそのことを知ったときは、長い専従(あるいは半専従的)期間を終えた後の配置職場としては特例子会社しかないのかとうがった見方もした。しかし、それだけでは割り切れないほどに彼らは情熱をこめて障害者に接し、その実績は高く評価されている。

 たくさんの人の共通項を捜すうちに、私は自分なりにこう理解した。第一に、労組は本来、人を統率しながら、人の話を聞き、人を大事にする組織である。その経験が障害者の就労に対しても活かされている。第二に、労組役員を務めることによって得た人脈を活用している。さまざまな職場の組合員と顔がつながっており、会社上層部にも話ができる。

 そういう意味で、たとえば障害者を初めて職場に迎える場合の目に見えない色々な軋轢に対して、組合役員経験者はそれを克服する能力を兼ね備えているのである。そして、かれらがその経験を語るときに「労組役員を務めたことが役立っています」と問わず語りに触れることがあるのは、かれらの自負を垣間見せていると思う。

 いくつかの事例のなかで、私が驚愕したケースを報告する。

 特例子会社の事業として多いのは会社構内の清掃や、製品の梱包、あるいはメール整理、パソコンのタイピングなどである。つまり、従来はアウトソーシングしてきた単純労働を特例子会社に任せるという内容だ。ところが私もよく知るN社では、特例子会社の知的障害者のなかから本体(親会社)の製造職場に何人も配置していた。その土台として、その特例子会社では労務改善のための提案制度を積極的に進めていた。

 知的障害者が提案制度に参加し、複雑な製造現場で仕事をしている姿は、障害者雇用に関する私の認識をはるかに超えていた。それはもう保護の対象ではなく、自立の巨歩を踏んでいると言って良い。かつて特例子会社に寄せられた「障害者の囲い込み」という批判はここでは全く当たらない。健常者と障害者が一緒に仕事をすることによって、健常者自身の偏見がなくなっている。

 その作業を推し進めているのは労組役員出身のA氏である。A氏自身も試行錯誤を繰り返していると語っているが、これほどの成果は社内を知り尽くしているA氏がいるからこそ達成できたと思う。

 余談だが、私はその会社で少数派である全労連系組合の役員とも顔見知りなので、A氏の評価を聞いてみた。競合関係にある連合系労組役員だったA氏について、全労連系労組役員は「あぁ、あいつはまじめだよ。それに優秀だ」と好意的な評価を示した。そう言う彼の職場にも知的障害者が配置され、一緒に仕事をしていると言っていた。

 特例子会社のほかに労組役員経験者の顔を見るのは、役所の障害者福祉や教育委員会などの行政担当者である。かれらがその職務者のなかでも光っている理由は、組合役員の時期に他労組と交流したことにあるようだ。役所や学校の論理しか知らない吏員が多いなかで、企業主の主張する資本の論理に迎合するのでもなく、働くものの実態を少しでも知る機会を得た経験は、貴重な自信と自覚につながっているように思える。

 労組役員経験者がその経験を生かして障害者雇用を前進させている成果は大きい。しかし言うまでもなく、現役の労組自体がどのような役割を果たすかが問われなければならない。

 私もつきあいが深かった電機連合神奈川地協は障害者雇用開拓のパイオニアとして高く評価される(全単組が職場で障害者を受け入れているという意味ではないが)。それらの先進的な取り組みを全体化する努力がもっと求められる。そこで聞きたい。連合は何をしているのか?

共生の社会と職場

 連合のスローガンのなかに共生という言葉がある。共生はどのようにして達成されるのか?

 労組の舞台は職場である以上、職場での実現に努力することが大原則になる。法定雇用率の未達成企業の労組は、まずそれを達成するように要求することから始まる。連合がその方針を掲げていることは承知しているが、そのための具体策は見えない。

 先述したとおり、最近は特例子会社の新設が進んでいるが、その理由としては東京労働局が昨年、情報公開法の成立による請求に迫られて、法定雇用率未達成企業を公表したことが大きい。「環境にやさしい」とか「人を大切にする」と標榜している企業が障害者雇用の法律を守っていないという事実は市民社会での企業イメージを危うくし、その解決のために障害者雇用を推進する動機づけになった。

 ところで、近年、企業の大事故や倫理に触れる問題があいつぎ、本来それを監視するべきはずの労組の役割が鋭く問われた。同じように、労組は自らの企業の障害者雇用について社会的評価に耐えられるような働きかけをどれだけ行っているだろうか?

 そう考えると、連合は障害者雇用の達成目標を設定して各産別組織に方針化を求めるべきではないか?

 さらに、障害者が地域(家庭、学校、作業所、行政、企業など)との関係が深いことを考えると、地方連合や地域連合はそれらを横断的に把握できる貴重な位置にいることを自覚し、積極的な交流と雇用開拓を進めてほしい(先述した労組のボランティア活動は課題を認識するための第一歩としては有効だが、現状はそれ自体が目的化していないだろうか?)。

 ところで、連合は過日、日本経団連とワークシェアリングの研究で合意した。ワークシェアリングは現在の組合員の労働条件を制限しても雇用拡大を図る試みだが、その雇用拡大の対象に障害者は含まれるのだろうか?

 ハローワークでは「健常者でも雇用が厳しい時代なのだから障害者はなおさらです」と言われる。一方、世の中の労組は「雇用を守れ」と叫んでいる。まさか労組が要求する雇用確保というのは健常者だけの話だとは思いたくないが、企業内の労使関係だけに任せていればそうなる可能性は否定できない。

 また、障害者雇用に取り組んでいる経営者は極めて先進的な開明者が多いが、中小零細企業のなかには障害者を搾取しているだけものもいる。労働法令を守らず、社会保険も未加入で、行政からの補助金を違法に受け取っているケースも見た。許せない現実だが、本人と保護者から「そっとしておいてほしい」と頼まれると逆にどうしようもない。問題が顕在化することによって自分たちの身の置き場がなくなることを恐れているのだ。本当の弱者はなかなか声を出せない。(私は県労働局や労働基準監督署との付き合い方を知っているので、その関係で一部改善させた。労組役員の経験がせめても役立ったと言える)

 そう考えると、障害者は労働組合員になれるだろうか? すでに組合員である場合は、健常者が障害者になったからと言って組合から除籍されることはあり得ない。身体障害者が雇用された場合も組合員になる。すると新たに雇用された知的障害者や精神障害者は組合員になれるのか? あるいは、特例子会社での労組結成は認められるのか?(例外的には「障害者組合」の発足も聞いているが)

 ここでは障害者雇用の課題として語っているが、ほかの社会的弱者の雇用や課題にあてはめても間違いではない。たとえば男女雇用機会均等法は一定の成果を収めているが、実際の求人・求職では性差による制限はあいかわらず歴然としている。年齢による差別はもっと甚だしい。さらに、育児や介護による休業制度を充実させても、所詮、労働者のなかの勝ち組と負け組で活用の格差が拡大するだけだという指摘を無視することはできない。

 これらの共生の課題は障害者雇用と同じように企業内だけをいくら見つめていても気がつかないが、同時に外部のボランティア活動などで解決するものではない。

 共生の社会を実現するためには、現在の競争社会の是正を進めなければならない。障害者が自己実現のために仕事をしている姿は、本来すべての働くものが享受して良い労働のあり方ではないだろうか? そのための職場と運動・政策をつないだ提起が求められる。その役割を連合が担ってほしい(たとえば企業や自治体などの競争入札が厳格化した結果、障害者を雇用している会社はむしろ下請けや委託事業に参加しにくくなっている。公正な社会的ワークルールの確立やリビングウェイジの柱のひとつに立ててほしい)。おそらく、こうした取り組みを進めると、労組の運営のあり方自体を見直さなくてはならなくなるだろう。

 今日も障害者が一人「仕事をしたい。相談に乗って下さい」と新規登録に来た。今は18歳から51歳の登録者が通い、私を含めた指導員の指示に従いながら就労できる日に備えている。一旦就労したが、仕事と職場に適応できず、出戻ってきた者もいる。

 そう言う私自身も秋になると任期が終わるから、新しい仕事を探さなければならない。この1年間は予想もしなかった得難い経験の連続だった。その経験が今後の自分の職業に直接役立つかどうかはわからない。ただ、今までとは別な角度から働き方と労組のあり方を見つめることができるようになったという感じはする。その視点を持ちながら、連合や労働組合が市井の民の期待に応えているかどうか見守って行きたい。


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