ゲストスピーカー: | 萩原克彦 自動車総連事務局長 |
【はじめに】
こんにちは。ただいまご紹介いただきました自動車総連・事務局長の萩原です。
今回、「グローバル競争の荒波の中で―仲間の雇用を守り抜くために―」というテーマをいただきましたが、おそらく私にこのようなテーマが与えられたのは、「日産労組本部時代に現場最前線で経験した“現実の労働組合が苦闘する姿”を語ってもらいたい」という思いがあってのことだと思います。
私は、92年から日産労組副中央執行委員長、97年から4年間は同中央執行委員長をつとめましたが、まさにこの時期は、創業以来の最大の危機に瀕した日産自動車が、“痛みを伴う再建策”を講じ、そして死の淵から奇跡的な生還を果たした激動の時期でした。日産の再生については、皆さんもご存じのカルロス・ゴーン氏の手腕によるところが大きいとよく言われます。確かにそれも事実ですが、私の眼には、ご家族や自身の生活の将来のために、歯を食いしばって厳しい施策に懸命に対応してきた多くの働く仲間の皆さんこそが主役であったと映っています。そのような意味で、本日は、日産自動車の再生を支え続けてきた働く者の立場からお話させていただきたいと思います。
【自動車総連の概要】
まずはじめに、自動車総連についてご紹介させていただきます。
私が事務局長をつとめる自動車総連(JAW)は、自動車メーカーや自動車部品製造、販売、輸送など、主に自動車に関連する業種で働く皆さんが加盟する産業別労働組合です。ちなみに、自動車関連業種で結成される産業別組織としては、UAW(全米自動車労組)を上回る世界最大規模の労働組合組織です。また、自動車総連としてIMF-JC(金属労協)を通じIMF(国際金属労連:100か国、2,500万名)に、販売部門としてUNI-LCJ(UNI日本加盟協)を通じてUNI(ユニオン・ネットワーク・インターナショナル:140か国、1,580万名)に加盟しています。
現在、組合員数は約724,000名であり、日本国内の民間労組としては、UIゼンセン同盟に次ぐ規模となっています。主として企業グループごとに構成される労働組合連合会を加盟単位としており、47都道府県には地方協議会を設けています。
【日本の自動車産業の現況】
次に、日本の自動車産業の現況についてお話しさせていただきます。
まず国内販売台数は、97年の777万台をピークに減少傾向にあります。近年の国内市場低迷の要因としては、車の保有が行き渡り市場が成熟したこと、車の保有期間が長期化していること、本格的な少子高齢社会を迎えていることなどがあげられます。こうした状況は今後とも継続し、かつ人口減少も予測されていることからも、引き続き国内販売は減少傾向が続くものと考えられます。
一方、日本国内における生産台数は、完成車輸出の増勢継続から、ピーク時には及ばないながらも1,000万台を超える水準で増加し続けています。なお、この「国内生産1,000万台」という水準は雇用確保の分水嶺とでもいうべき象徴的な意味合いを持つ数値となっており、実際に、1,000万台を切った99年や01年は、トヨタ自動車ですら生産ラインの休止など生産能力の削減を強いられ、日本の自動車企業が総じて雇用削減・雇用調整を余儀なくされました。その意味で、日本の自動車産業においては、「1,000万台を守っていく」という認識が労使で共有されており、いわば労使間の合意事項となっているのですが、この「国内生産1,000万台」を守っていくためには、「競争力を持ち続ける」以外にありません。一歩先行く車輌品質、為替変動に左右されないコスト競争力、世界のあらゆる地域に短期間で車を届けるためのデリバリー力等において、絶えず優位性を保ち続けるしかないのです。この考え方は、グローバル経済体制のもとで、“日本人の雇用を日本で確保していく”ために、労働組合、とりわけ「ものづくり(製造業)」に関わる労働組合が重視しなければならない基本的な視点なのです。
次に、海外現地生産の状況については、日本メーカーは海外のあらゆる地域で現地生産を急拡大させており、90年の300万台から05年は国内生産規模とほぼ同水準の1,060万台に達しています。
全世界の自動車生産に占める日本ブランド車の比率は30%を超えるまでになりました。日本の自動車メーカーが世界でここまで競争力を発揮しプレゼンスを拡大できた背景には、長年、日本人の気質や文化・伝統の特徴を表現する際に使われてきた「秩序」「規律」「風紀」「集団」「均質」「中流」といった言葉にあるのではないかと私は考えています。こうした言葉は、時としてネガティブなイメージでとらえられる場合もありますが、何万点もの部品を非常に多くの人手で作り上げる「車づくり」においては、こうした日本人の特徴が、世界市場で闘っていく上での「強み」になるのです。
【日産自動車が経営危機を迎えた時代背景】
次に、皆さんに本日の私のお話をよりご理解いただくためにも、日産自動車が経営危機を迎えた時代背景について触れておきます。
日産自動車がルノーとの資本提携を発表し「日産リバイバルプラン(NRP)」を打ち出したのが99年でしたが、わが国の企業にとって90年代後半とはいったいどのような時代だったのでしょうか。例を挙げると、山一証券、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、長崎屋、そごう、マイカル等々、これらは全て90年代後半以降に倒産あるいは破綻していった代表的な一部上場企業です。最近はようやく落ち着きを見せつつあるとはいえ、バブル崩壊以降、まさにグローバル競争の荒波の中で、企業倒産件数は急増し、特に、80年代まではあまり見られなかったような上場・店頭企業といったいわゆる大企業の破綻もあり得るという時代に突入したのです。
こうした状況が現実化した90年代、企業を取り巻く最も大きな環境変化として、日本が本格的にグローバル経済体制下に組み込まれ、グローバルスタンダード、つまり世界標準が急速に導入されました。それは株主権重視、ROE(株主資本利益率)重視、株主配当重視といった言葉に表されるわけですが、そうした中でも最も象徴的であり、かつその後の企業行動や経営手法、ひいては従業員個々人や社会情勢等にも大きな影響を与えたのが、99年決算から適用された国際会計基準の導入でした。こうしたグローバルスタンダードの導入は、突き詰めれば、市場経済社会の原則である株主の権利を明確化し強化するものであったと言えます。
また、金融逼迫、信用収縮といわれるクレジットクランチの発生も90年代後半の日本経済の特徴でした。バブル崩壊により総資産が大幅に減少し自己資本比率も大きく低下した各金融機関は、BIS規制に対応するため企業に対する貸出金の大幅な抑制や早期回収を余儀なくされ、いわゆる貸し渋りの姿勢を強めました。その結果、金融機関からの借り入れを当然視してきた当時の多くの日本企業は、さながら血管が詰まるような資金難に陥り倒産の危機に瀕していったのです。
さらに政治的な要因も90年代後半という時代背景を語る上で忘れてはなりません。橋本内閣(96年~97年)において消費税増税や医療費本人負担増など合計9兆円の国民負担増が実施されました。以降、今日まで勤労者世帯の収入は一貫して低下し続け、消費支出、家計支出も対前年マイナスを続けています。昨年(2006年)11月には、「いざなぎ景気」を超える戦後最長の経済回復と喧伝はされましたが、実際は設備投資を中心とした企業部門に牽引された景気回復であり、決して国民生活全体の改善を伴ったものではありません。
以上ご説明してきた、90年代後半以降の様々な社会経済情勢の変化は、国民生活や日本の社会情勢にどのような影響をもたらしたのでしょうか。経済的理由や勤務上の問題を背景にした自殺者数の急増、生活保護世帯数や保護率の増加、若年層の雇用情勢の悪化、教育現場の荒廃、凶悪で反社会的な犯罪の増加等々、90年代以降のわが国の姿は、こうした様々な社会指標の急速な劣化に特徴づけられるという側面もあります。グローバル経済の進展をはじめ様々な情勢変化が何をもたらしたのか、深く考えさせられるところです。
【日産自動車の再建と労働組合が果たした役割】
1.99年春闘と同時並行的に進んだギリギリの提携交渉
~死の淵から生還を果たした激動の一週間
バブル崩壊後の日本にとって90年代はまさに激動の時代であり、グローバル競争の荒波の中で、上場、非上場、大企業、中小企業の区別なく、不幸にも企業倒産の憂き目に遭い、職場を去っていった働く仲間も急増しました。こうした中、日産自動車もまた、経営危機の度合いを強め、最終的には、フランス・ルノーの資本を仰ぎ再建に臨むという劇的な変化を迎えることになります。
ところで、日産自動車については、ルノーと提携して以降、カルロス・ゴーン氏の指揮によりリストラクチャリングにはじめて取り組んだかのように思われがちなのですが、例えば90年代前半には、当時、私自身も当該支部の執行委員長の任にあり社会的にもセンセーショナルに報じられた座間工場の閉鎖など取り組むべき構造改革には鋭意取り組んできました。しかしながら、そうした改革に着手しながらも、十分な成果をあげられず、急速に進展するグローバル競争の荒波の中で苦悶し続けていたというのが実情でした。
そのような中、日産は、99年3月、ダイムラークライスラーとの提携交渉決裂からルノーとの資本提携発表という激動の時期を迎えることになるわけですが、こうした背景にはどのような事情があったのでしょうか。
まず一点目は、当時の日産の連結収益力の低迷です。実は、90年代の10年間で連結ベースでみると日産はたった3回しか黒字計上できない状況に陥っており、このまま収益力が回復しなければ遠からず深刻な経営危機に直面することが予想されていました。
二点目は、返済が疑問視されるまでに膨張した有利子負債です。日産は、90年代、2兆円規模の有利子負債を抱えていました。当時の売り上げが6兆円規模であったことを考えると、その大きさがわかってもらえると思いますが、先ほど申し上げたように10年間で3期しか連結当期利益が黒字化できない状況において、まさに返済能力が問われるほどに有利子負債が膨れあがっていたのです。
三点目は、クレジットクランチの中で市場から厳しいメッセージが発せられたことです。ご存知のとおり、ムーディーズやスタンダード&プアーズといった格付会社がありますが、先ほどから申し上げているような赤字経営を続け負債がますます膨れあがるような状況では、こうした格付会社から格付が早晩引き下げられ、その影響で株価は下落し、資金調達リスクが顕在化してしまいます。
ご記憶があるでしょうか。97年の山一証券破綻の背景には、当時の山一証券の経営の先行き不安から顧客資産の流出に歯止めがかからず、資金繰りのメドが立たなくなったという事情がありました。97年11月に入って、ムーディーズは投資適格ランクとしては既に最低ランクの「Baa3」に位置していた当時の山一証券の社債格付を引き下げる方向で見直すと発表しました。これを受けた山一証券は、自力での経営立て直しは困難と判断し、複数の外資系金融機関との間で資本参加を軸にした提携を模索し続けました。しかしながら、事前の発表通り11月21日にムーディーズは山一証券の格付を「投資不適格」に引き下げました。山一証券が自主廃業の道を選択せざるを得なかったのは、その翌日の11月22日の出来事だったのです。
連結収益力が問われ、返済が疑問視されるまでに有利子負債が膨れあがり、格付会社からは極めて厳しい評価が下されていた99年当時の日産の状況は、まさに山一証券が辿った道とほとんど変わらないものであり、企業存続のために、外資との資本提携を模索せざるを得ないところまで追い詰められていたのです。
さて、前述のように、日産はダイムラークライスラーとの提携を模索し続けてきましたが、99年3月10日、ダイムラークライスラーのシュレンプ共同CEOから、日産との提携交渉の決裂が一方的に発表されました。
実はこのとき、日産労組は99年春闘交渉の真っ只中という時期であり、3月10日は、17日の会社回答指定日を目前に控えた第3回目の団体交渉日でした。ただ当時、日産労組の中央執行委員長として会社とのトップ交渉に臨んでいた私は、トップ交渉のさなかにも、社外から頻繁にかかってくる電話への応対のため中座を繰り返す社長の姿を目にし、日産自動車が追い詰められるところまで追い詰められていることを実感し、心の中では、「今次春闘の本当の要求内容は日産の存続である」との思いを強くしていきました。一方、ダイムラークライスラーとの提携交渉決裂を受け、ムーディーズは直ちに日産の格付を「投資不適格」である「Ba1」に引き下げ、翌3月11日には株価が急落しました。まさにここまでは、山一証券と同じ道を辿っていたわけです。日産労組としても極めて大きい危機感を持っていたことは言うまでもなく、ダイムラークライスラーとの交渉決裂が発表された3月10日の第3回団体交渉の職場報告の場は異例の場となりました。もちろん交渉内容の報告自体は行ったのですが、報告を締め括るにあたり、私たち組合執行部から全組合員に対し、次のようなメッセージを発信しました。
まさに異例の呼びかけでした。それだけ職場にも大きな衝撃が走ったのです。
こうした中、3月17日、フランスのルノー社から日産への資本参加を含む提携申し入れが正式になされました。3月10日のダイムラークライスラーとの交渉決裂直後、格付引き下げもあって株価は急落し、まさに日産は死の淵に立たされたわけですが、その直後に今度はルノーとの提携交渉が表面化し、株価暴落までには至りませんでした。そして迎えた17日のルノーからの正式な提携申し入れによって、日産の破綻という最悪のシナリオは何とか回避され、一つの危機は去りました。逆に、もし仮に、このとき表面化していたルノーとの提携交渉に失敗すれば、日産の破綻は明らかだったのです。
さて日産労組は、ルノーとの提携交渉と同時並行的に進められた春闘交渉過程を通じ、
との認識で臨んできました。まさに労働組合としても、職場を守り、仲間の皆さんの雇用と生活を守るための最大の正念場であったわけです。そして、ルノーから正式な提携申し入れがなされた3月17日、99年春闘の会社回答指定日を迎えました。結果はベースアップゼロ、一時金は近年最低水準というものでしたが、職場の存続をかけてギリギリの提携交渉が春闘と同時並行的に進む中にあって、多くの組合員の関心は、労働条件の改善というより、安心して働ける職場、つまり企業の存続に移っていきましたし、私自身も組合員の雇用確保に責任を持つ労働組合のトップとして、そのことを誰よりも痛切に感じていました。日産労組にとって、まさに3月10日からの一週間は、自分たちの職場が創業以来最大と言っていい危機に瀕し、そこから奇跡的な生還を果たした本当に長い一週間だったのです。
2.日産リバイバルプラン(NRP)と労働組合の対応
経営破綻という危機は当面は去り、日産は、新たにルノー社からカルロス・ゴーン氏というトップを迎え、99年10月、「日産リバイバルプラン(以下、NRP)」を発表し、いよいよ“日産再生”に向けて歩み出していくわけですが、これらに先立つ99年7月、日産労組は、C.ゴーン氏との労使トップ会談に臨み、以下の三点を要請しました。
この三点の要請は、その後すべて守られていくことになります。特に、「②目標の達成責任の明確化」について、その後、NRPの中央労使協議会の場で、日産労組のトップとして私からC.ゴーン氏に対し「もし計画が達成できなかったらどうするのか」と問うたところ、彼は「それは、あなたの交渉相手が代わるということであり、ここにいるメンバーは誰も残ることはない」と断言しました。このことは今でも語り草になっています。
そして、99年10月18日、02年度までの3か年の経営再建計画としてNRPが発表されました。NRPのコミットメント内容は、
●2000年度 連結当期利益の黒字化
●2002年度 連結売上高営業利益率 4.5%以上
●2002年度 連結自動車事業実質有利子負債 7,000億円未満
であり、その実現のために以下の具体施策も示されました。
(1)コスト削減(約1,200社ある部品・資材サプライヤー数の半減等)
(2)工場閉鎖(村山工場、日産車体京都工場など国内工場の閉鎖)
(3)資産売却(自動車部門以外の事業、不動産、有価証券の売却)
(4)人員削減(グループ全体で2万1千人の人員削減)
日産労組は、これを受け、NRP発表当日、次の見解を内外に発信しました。
その後、NRPを巡る労使協議が本格化していくわけですが、日産労組は、今後の協議・交渉に臨むにあたって以下の方針を堅持していくこととしました。
こうした方針を踏まえ、NRP発表以降、組合は精力的に労使協議・交渉を展開していきました。協議の場としては、「中央労使協議会」を核としながら、個人事情の把握や異動・受け入れ体制の整備、異動困難者の就労支援といった主に“人”に関わる課題については各事業単位ごとに「特別労使協議会」を設置し本部・本社レベルで協議を行いました。また、労働条件設定が異動をサポートする上で重要と判断し「労使専門(労働条件)委員会」を設置し協議・交渉を行いました。
最終的に、日産労組としては、赴任条件、通勤条件、寮・社宅入居使用条件、住宅売却・購入支援等々、広範な支援策を申し入れ、職場の強い期待を背に粘り強く協議・交渉を重ねた結果、ほぼ要求内容どおりの解決をはかり、ご家族帯同での異動や住居移転等へのサポートなど組合員の皆さんからも極めて高い評価をいただくことができました。半年間にわたる日産労組の全精力をかけた協議・交渉を経て、NRPに含まれていた“人”に関わる諸施策に係る諸条件が整った00年5月、NRPが実質的な労使合意に至ったのです。
その後、NRPは、いよいよ本格的な実行段階に移され、“日産の再生”に向かって、日産労使はまさに一丸となって取り組みました。その結果、連結当期利益・連結営業利益率ともに00年度に早くもコミットメントを達成。また、連結自動車事業実質有利子負債も01年度にコミットメントを達成し、NRPは一年前倒しで目標実現することができました。こうした成果を生み出した源泉は、何と言っても、ご家族や自らの生活の将来のために厳しい施策にも歯を食いしばって懸命に対応してきた大勢の働く仲間の皆さんのご努力であり、まさに職場の汗と苦労の結晶として結実したものと考えています。その後、日産は、NRPを土台にし、再建プロセスを完結するための新たな3か年計画「日産180」を発表するなど、熾烈なグローバル競争を勝ち抜くための諸施策を展開し今日に至っています。
【さいごに】
以上、本日は、私が日産労組時代に経験したことを、ありのままにお話させていただきました。本日の講義を通じ、ぜひとも皆さんにご理解いただきたいことは、労働組合が、組織している組合員の労働条件や就労環境の改善に取り組むべきことは言うまでもありませんが、それ以前に、と申しますか、もっと根本的な問題として、企業という存在そのものに倒産や破綻といったリスクが存在する以上、しっかりと経営を監視し、そうした事態に至らないよう最大限の努力を行うことこそが、組合員が安心、安定して働くことができる職場を確保し続けるためには極めて重要だということです。
かく言う私自身も実は、90年代、労使協議に明け暮れる毎日の中で「組合役員としての自分は、組合員に対していったいどのような貢献ができているのだろうか」と内心忸怩たる思いを抱き続けた時期がありました。そんな折、ある記事の一節だと記憶していますが、次のような一文と出会うことが出来ました。
この一文を目にした当時の私は、まさに霧が晴れるように迷いを払拭することができましたし、この言葉は今なお私の組合観の基本となっています。
最後に、これから社会に出ていかれる同志社大学の皆さんに、トルストイの言葉をお送りし締め括りたいと思います。
どうか本日の私のお話が、今後少しでも皆さんのお役に立てれば幸いです。どうもご清聴ありがとうございました。
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