岩井克人
『貨幣論』

岩井克人著『貨幣論』

ちくま学芸文庫
840円+税
1998年3月10日

評者:山根正幸(連合経済政策局局長)

 「貨幣とは何か」。この問いに対する筆者の答えは実にシンプルなものである。「貨幣は、貨幣として使われるものである」。金の代わりが貨幣なのではない。兌換紙幣であれ不換紙幣であれ、あるいは電子化されているかを問わず、誰もがそれを別の商品と交換できると思って流通させている限り、貨幣としての価値と機能は保たれる。
 筆者は、マルクスが「資本論」で行った貨幣に関する議論を批判的に考察しながら、貨幣の本質に迫っていく。そのうえで筆者は、資本主義にとっての本質的な危機は、生産過剰による「恐慌」ではなく、すべての人々が貨幣から遁走し、貨幣が貨幣でなくなる「ハイパー・インフレーション」であるとする。いろいろな論議はありうるが、本書はいまや貨幣についての古典としての意義をもつと同時に、現段階の経済政策や金融政策を考えるうえでも示唆深いものがある。

 本書は5章で構成されている。
 第1章で筆者は、マルクスが論じた”特別な商品としての金”とその他の商品との非対称性に関する議論の矛盾を指摘する。その中で、他のすべての商品に直接的な交換可能性を与えると同時に、他のすべての商品から直接的な交換可能性を与えられるという、貨幣と商品の間で繰り返される「無限の循環論法」の存在を示す。
 そのうえで筆者は、貨幣は、「無限の循環論法」の中で貨幣としての位置を占め続けられるのであれば、それ自体が実態的な価値を持つ商品である必要はなく、均質的・分割可能・耐久的でさえあれば、金どころか、安っぽい金属、一枚の紙切れ、電磁気的な貨幣単位の情報コードすなわちエレクトロニック・マネーでも貨幣として機能すると指摘する。

 第2章では、貨幣論として長らく語られてきた「貨幣商品説」と「貨幣法制説」についての解説と筆者の見解が示される。前者は、それ自体価値を持つ商品が、交換活動を経て自然発生的に一般的な交換手段に転化したとするものであり、後者は、貨幣自体は価値を持つ必要がなく、共同体の申し合わせ、君主の勅令、社会契約、国家の立法にその起源を求めるものである。
 筆者は、両者ともに「神話」でしかないという。なぜなら、両者ともに貨幣という現実的な存在に実体的な根拠を求めようとしているが、第1章で示したように、無限の循環論法に支えられている貨幣は、その存在のためには何らの実体的な根拠を必要としていないからであるとする。

 第3章では、鋳貨や紙幣が交換可能性を持つのは「本物」の貨幣である金の「代わり」として機能しているからだと説明したマルクスに対し、筆者は、金の代わりでしかない鋳貨や紙幣それ自体が「本物」の貨幣として流通する逆説的な結果を指摘する。
 筆者は次のように指摘する。なぜ、減量されても1ポンド金貨が1ポンドの価値を持ち続けるのか。それは、誰もがそれを1ポンドの価値を持つ別の商品と交換できると思っているからであり、貨幣としての機能が使い減られることがないからである。それは兌換紙幣、不換紙幣、さらにはエレクトロニック・マネーへと変遷したとしても変わらない。貨幣は、まさに流通することによってのみ価値をもつ。古今東西、「本物」の貨幣の「代わり」が、それ自体「本物」になってしまう歴史が繰り返されてきた、貨幣が貨幣であることには、それがどのようなモノであるかは関係ない。

 第4章では、貨幣の存在が恐慌をつくりだすメカニズムについて論じる。貨幣は、商品と商品の売り買いを媒介し、その中で貨幣自身も貨幣であることを確認されるが、世の中に不確実性があると人々は商品の値下がりを待って貨幣を保有しようと思うようになる。筆者は、こうした貨幣に対する欲望が総需要と総供給の不均衡、すなわち恐慌の可能性を作り出していることを見出す。
 しかし筆者は、恐慌とそれに続く不況がいかに長引こうとも、資本主義社会にとって本質的な危機ではないという。なぜなら、貨幣に対する欲望がある限り、人々は資本主義社会の永続性を信じるからであり、もし資本主義社会が崩壊することがあるとすれば、それは貨幣に何の欲望も示さなくなったときであるという。

 それはどういうことか。第5章で筆者はまず、貨幣が貨幣として使われてきた事実が、未来に向けた期待の根拠となり、未来への期待が現在の根拠を形成する。その意味で貨幣ははじめから貨幣になるのではなく、貨幣の機能、つまり交換可能性が保障されていることによって日々貨幣になるのであるという。
 そして筆者は、総需要が総供給を上回ることでインフレーションが発生した場合を想定する。たとえインフレ的熱狂が生じたとしても、それが一時的との予想が支配的ならば、流動性選好の増大を通じて需要を抑制しインフレを鎮静化させる。しかし、インフレがますます加速すると人々が予想した場合は、早く貨幣を手放し商品を手に入れようとする。こうした流動性選好の縮小が商品全体の総需要を刺激し、インフレを加速化する悪循環に陥ることが、筆者が真の危機と考える「貨幣からの遁走」、ハイパー・インフレーションである。すべての人々が未来において貨幣を貨幣として受け取ってくれないと確信した瞬間に、貨幣は貨幣であることをやめてしまう。それは交換のための商品となるべきモノが、単なるモノとして所有者のもとで朽ち果て、巨大な商品の集まりとしての資本主義社会の解体を意味する。筆者は、こうした世界貨幣そのものを崩壊させるようなハイパー・インフレーションが過去に起こらなかったからといって、今後起こらない保証はないとする。

 筆者は、貨幣は共同体的な存在であるいう。人々は貨幣を使うことによって貨幣共同体の構成員となり、貨幣共同体は貨幣が未来永劫にわたって存在しつづけるとの期待によって支えられる。ひとびとは、モノを売る(貨幣を手にする)ことによって貨幣共同体に参加し、モノを買う(貨幣を与える)ことによって貨幣共同体から退出する。商品の売り手は、商品をモノとして持ち続けることで貨幣共同体にとって「異邦人」となる自由を持っているが、商品の買い手にはそうした自由はない。実際に必要なモノはモノなのだからである。その意味で、貨幣を手に持つ商品の買い手は、常に危機の中に置かれていると筆者はいう。マルクスが危機と呼んだ恐慌は資本主義にとって本質的な危機であると結論づけることはできない、恐慌はモノの実体より貨幣共同体の永続性、ひいてはその基盤の上に存在する資本主義社会への期待を表明するものであり、人々が貨幣を貨幣として欲し続けている限り貨幣共同体の未来への信頼は失われない。貨幣が貨幣でなくなるハイパー・インフレーションこそが、より根源的な危機であるとする。

 前半の1~2章はやや難解さを感じるところもあるが、主張自体は一貫していることもあり、読み進めるにつれて理解が進む。あるいは「後記」から先に読むことで著者の意図がよくわかるかもしれない。四半世紀前の出版ながら、広がりを窺う仮想通貨、あるいは中央銀行によるデジタル通貨や自治体などによる地域通貨発行のこれからを考える土台を提供してくれる。
 働くことで生み出された付加価値の分配は通常、貨幣として受け取ることになる。しかし、その貨幣の本質について私たちは普段考えることはない。貨幣であれ社会であれ、当たり前と思っていることが実は微妙なバランスのもとに成り立っていること、だからこそ将来への信頼を確かにすることが重要であることを、本書は貨幣の考察を通じて考えさせてくれるようにも感じる。加えて、例えば中央銀行による安易な貨幣の増発が、長期的に貨幣そのものに対する信頼性を失わせることの危うさも、言外に指摘されているようにも思われる。


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