三島由紀夫
『絹と明察』

朝倉克己
『近江絹糸「人権争議」はなぜ起きたか』、『近江絹糸「人権争議」の真実』

評者:西野ゆかり(連合広報局長)

 1954年に勃発した戦後日本の労働運動史上特筆される近江絹糸の人権争議。労働界に身を置く人なら誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。私が近江絹糸のことを初めて“目の当たり”にしたのは、今から凡そ十数年前、岡山の友愛の丘にある友愛記念館を訪ねたときであった。もちろんそれまでに書物や先輩の口からその名や概要に触れたことはあったが、資料館に置かれた生々しく痛々しい写真や、「立ち上がる、女子労働者」の映像をつきつけられ、本当にこんなことがわが国であったのか・・・と愕然としたのを今でも思い出す。
 今回は、この争議について、1964年にこの作品が発表された前年に三島由紀夫が現地を取材して書いた小説「絹と明察」と、主要な登場人物である「大槻青年」のモデルで、実際に争議の渦中で闘った朝倉克己氏が2012年および2014年に出版した書籍をセットでご紹介する。前者は「使うてる者をわが子と思い、むこうもわしを親と思うてくれとる」と平然と語る社長の姿に焦点があてられ、一方後者は争議を闘い抜いた労働者本人が筆をとっている。全く違う角度から書かれており、ぜひセットで読んでいただきたい。
 それにしてもなぜ今、この60年以上も前におきた近江絹糸の人権争議を読んで欲しいのか。それは、残念なことに今のこの日本で未だに起きていることだからだ。外国人の技能実習制度の現場では、国際貢献とは名ばかりで人権侵害や賃金未払いなどのさまざまな問題が起きている。近江絹糸人権争議は決して昔の話ではないのだ。

朝倉克己『近江絹糸「人権争議」はなぜ起きたか』

サンライズ出版
1,600円+税
2012年8月28日


朝倉克己『近江絹糸「人権争議」の真実』

サンライズ出版
1,600円+税
2014年9月6日

■近江絹糸争議とは~朝倉克己氏の書籍より~
 1954年6月7日にスト突入し、闘いは106日間続いた。
 企業規模の拡大戦略のもと、過酷な労働環境のなか長年に亘って苦しめられてきた労働者の怒りが爆発したものであった。工員の人間性を否定し、結婚、信教、教育、外出の自由もなく、信書が開封され、私物検査される、格子なき牢獄といわれた女子寮生活、陰湿極まりなく、まるで封建時代の下女扱いを受けた女工たち。労働争議というよりも、まさに人間解放の闘いであった。結成した新組合の要求内容は、経済的なことではなく、生活上のことや労務管理のことなど、人権に関わるものであった。
 これに対し、会社は団交を一切拒否したまま、組合の動きを妨害するため、組合幹部や従業員全員の寄宿舎監禁、暴力団を雇い入れての弾圧作戦、家族へのニセ電報、外部との遮断、解雇通知の乱発など新組合への攻撃を激化させた。食堂閉鎖を各工場で実施し、立てこもる組合員の兵糧攻めの策にも出た。外部の人たちとの交流・接触を遮断し、従業員を会社の中に閉じ込める方策を徹底させていた。この常軌を逸した卑劣なやり方に、マスコミをはじめ世論は会社側に抗議の声をあげた。会社を糾弾する圧倒的世論の前に抗しきれず、労働運動史上歴史的な近江絹糸人権争議は9月16日に新組合の勝利によって終わった。
 当時、この争議は日本中の注目を集めた社会的な事件であった。個人では不可能であったことが労働組合の力ではじめて可能となったこと、労働組合が個人を守り抜いたこと、すなわち労働組合の力で強い個人を生み出した。その後、他の企業でも労働組合の結成が急速に進み、まだ古い体質を残していた中小企業の経営者に対しては特に合理的な労務管理への移行を促す警告となった。この争議がなぜ起きたのか、またこの争議がどのような過程で進められていったか、朝倉氏が詳述している。
 この朝倉克己氏は、1950年に近江絹糸彦根工場入社。1954年6月大阪本社の新労働組合結成に呼応し、彦根工場初代彦根支部長になる。オーミケンシ労組組合長を経て、彦根市議会議員、滋賀県議会議員を各3期、民主党滋賀県連幹事長を務め、2010年に旭日小受章を受賞している。

三島由紀夫『絹と明察』

新潮社
680円+税
1987年9月30日

■三島由紀夫が描写した近江絹糸争議~「絹と明察」より~
 小説「絹と明察」は、この近江絹糸争議を労働運動の側面ではなく、企業経営における「父親(経営者)と息子(従業員)」、さらに「旧態とした日本主義的経営と西欧文明(労働運動)の対立軸」から描いている。
 第1章から最終章まで、すべてタイトルを「駒沢善次郎(社長名)の風雅、事業、賞罰、家族・・・」などと綴りながら、物語が進んでいく。
 人情と熱血のかたまりのような駒沢は、昼夜なりふりかまわず働きぬいて事業に全精力を注ぎこみ、大企業の経営者に成り上がった男である。古臭い会社経営によって業績を伸ばし、従業員には熾烈な労働を強いていた。ところが彼の意識には「善意」しかなく、自分は工員たちの父親のような存在と感じていた。駒沢善次郎が言う。「わしの工場はむずかしいことは何もない。使うてる者をわが子と思い、むこうもわしを親と思うてくれとる。こんな人情味のある会社はどこにもないのやが。親御はんから大事な娘を預かっているわしとしても、すみずみまで目を届かせておらんと。」と。さらに「給料というものは働くから貰うのは当然という考え方は絶対にまちがっている。現在の労働基準法のごときも、労働者の権利の主張ばかりで、烈しい自由競争を生き抜き、世の動きに一歩先んじるだけの、労働者としての教養、判断力、体力の養成ということには一向目を向けていない。会社へ入ったならば、一日も早くそこに同化することが大切。会社の規則に従って全力をつくしてやらなければならぬ。常に経営者の立場になって、男子は一生を、女子は結婚までの娘時代を、この会社と一心同体の気持ちで送ってもらいたい」こんなことを平然と言ってのけるのだ。彼がどれほど唯我独尊のワンマンであるか、想像にあまりある。小説は、「絹」の代表である駒沢が最後にすべてのこと、すべての人を「恕す」とした心情で死を迎える。彼が死ぬ間際に到達したこの心情が、駒沢なりの「明察」だったのであろうか。
 この小説を書いた三島由紀夫はこの後、政治活動、特に日本の防衛問題に身を投じ、おおよそ6年後に割腹自殺をとげる。

■最後に
 冒頭にも述べたが、これはぜひセットで読んでいただきたい。「絹と明察」では、駒沢は、死の間際も家族的心情から仇をした者たちを許し、駒沢の人間性に惹かれるような描写で締めくくられている。三島由紀夫は、この小説で書きたかったのが「日本および日本人というものと父親の問題」と語っている。しかし近江絹糸の人権争議をそのような形で描いて良いのだろうか。あの争議をこの小説はすっかり美化してしまっているように思えてならず、読んでいて憤りさえ感じた。しかし想像を絶するようなあのような卑劣な経営をする人たちが、三島由紀夫が書いたように、間違ってはいるものの「善意」からだったとしたら、わかり合えるはずなど到底ないのであろう。善意であることが返って最悪である。
 しかし、今現在、外国人を低賃金や過酷な労働条件で酷使している日本人たちには、決してこの「間違った善意」さえあるとは思えない。この状況を三島由紀夫がみたら、このような小説は書けなかったに違いない。


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