三谷太一郎著
『日本の近代とは何であったか ― 問題史的考察』

三谷太一郎著 「日本の近代とは何であったか ― 問題史的考察」

岩波新書
880円+税
2017年3月

評者:照沼光二(連合政治センター事務局次長)

 本書は、我が国が幕末以降、欧州に準拠して試みた近代化の概念と、その中で育まれた政党政治と資本主義、天皇制等の成り立ちを考察した一冊である。
 今年は明治維新150年。折しも国政では、教育勅語や9条を含む憲法改正が取り沙汰されている。また、議会制民主主義の危機とも言うべき事態が起きている。加えて、来年には天皇陛下の退位と皇太子の新天皇即位が控えている。著者が執筆を引き受けたのは2003年のようだが、時宜にかなう発刊となったのは偶然か。
 なお、本書は、各章のタイトルが「~か」と投げかけとなっている。自分の読解力のなさを棚に上げて恐縮だが、全体的に難解な表現が多いこともあり、答えの書いてある終章から読み始めることをおすすめする。

 第一章は「なぜ日本に政党政治が成立したのか」。そもそも、なぜ立憲主義が我が国に導入されたのか。著者は、かつての幕藩体制に受け入れの条件が整っていたと分析する。具体的には、幕府の老中、若年寄、町奉行等は数名ずつがそれぞれの役職を共同して担当する体制で、複数の要員が政策決定のための合議制を運営していたとされる。政治的特質として、権力の集中を相互的に抑制し、均衡をはかるためのメカニズムが備わっていたのである。
 幕末期から維新へ。開国が迫られ、幕藩体制にとっての立憲主義の危機が訪れる中、大政奉還後の政治体制をどうするかが問題となる。そこで出てきたのが議会制である。1889年公布の明治憲法は、第三章「帝国議会」で議会制の枠組みを定めることになったが、維新の一つの理念は王政復古であった。したがって、めざされたのは幕府的存在の排除であり、そのために導入されたのが権力分立制であった。それは、政党内閣をも排除するものであった。事実、伊藤博文は、反政党を掲げるとともに、特に議会は幕府のような覇府であってはならないと強調した。
 一見集権的な明治憲法のもと、実は相互的抑制均衡メカニズムが機能としていたことは大変興味深い。しかし、その裏側の問題として、明治憲法は最終的に権力を統合する制度的主体を欠いていた。そこで、体制の安定を確保するには、憲法には書かれていない非制度的な主体が必要となった。その役割を期待されたのが藩閥だが、政党でない藩閥は衆議院を掌握できず、一方で、政党も衆議院の多数だけでは権力は保障されないという限界を感じていた。結果、双方が接近、政党からの独立を鮮明にしていた伊藤博文が立憲政友党の初代総裁に就き、反対勢力も政党化に踏み切る中で、複数政党制が成立していくことになった。
 著者は、政党政治に体現された「議論による統治」の日本的形態が、批判や非難を受けながらも、そのことでまた議論による統治の実質をつくり上げ、日本の政治的近代の不安定の安定に資してきたと評価する。ただ、日本的形態の「議論による統治」に、国民のどこまでが実質的に参加できたのか、という論点は残ることになる。

 第二章は「なぜ日本に資本主義が形成されたのか」。欧州的資本主義の形成をめざした我が国だが、当時は不平等条約の下にあったため、外資に依存できず、自立的資本主義の形成をめざすしかなかった。それを可能にした要因に、維新後の幾多の対外的危機を外交的に処理しながら4半世紀以上にわたって対外戦争を回避し、平和を維持したことがある。それは、明治天皇の確信によるものであり、明治天皇に忠告したのが米国第18代大統領のユリシーズ・グラントであった。
 このような中で、歳出抑制と増税などにより一国資本主義を財政の上で実質化したのが松方正義だった。しかし、非外債政策では安定した資金供給源を欠き、その後、日清戦争が開戦、我が国はそれに先立って不平等条約の解消に向けた第一歩を印し、松方正義自身が路線を転換、外債依存度が急速に上昇する中で、自立的資本主義に代わる国際的資本主義が登場することになった。
 著者は、日本の資本主義が「議論による統治」の確立と結びついた成果であることは認めつつも、グラントの忠告と明治天皇の確信に背いて我が国が日清戦争を契機に富国プラス強兵路線に転じたことを憂える。

 第三章は「日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか」。我が国が自立的資本主義の形態をとったのは、欧米諸国への対抗戦略だったとされる。国際的資本主義に転じた際も、欧州の植民地帝国を模しつつも、それとは異なり、実際に植民地を獲得する戦略を採用する。その理由は、我が国の地位が国際的に認められていなかったことと、我が国の植民地帝国構想が経済的利益よりも軍事的安全保障への関心から発したものであったことが挙げられる。
 結果、植民地帝国は近代における我が国の最大の負の遺産となり、対象国のみならず、我が国自身にも深い傷跡を残す。その点で、欧州では難民の問題がクローズアップされているが、著者は、難民の問題は欧州の植民地帝国の負の遺産であり、日本の植民地帝国は欧州のそれを模したものであることから、難民の問題は決して他人事とは言えない、難民の問題は形を変えて、あるいは潜在的に我が国にも存在すると見るべきかもしれない、と投げかける。欧州から遠いという理由だけで他人事のようにしていてはいけないと改めて考えさせられる。

 第四章は「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」。我が国が欧州化をはかるには、機能的欧州化を推進する国民的主体に対して機能主義的思考様式の確立が要請された。具体的に、当時の政治指導者たちはその機能をキリスト教に見出す。しかし、伊藤博文は、我が国の既存の宗教にはキリスト教と同じ機能を果たし得るものはないと見て、「機軸とすべきは独り皇室あるのみ」との断案を下す。我が国における「神」の不在が天皇の神格化をもたらすことになった。
 なお、明治憲法では、天皇は、第一条で国家元首として統治権を統合する国家主権の主体、すなわち「立憲君主」とされた。一方、第三条では天皇の「神聖不可侵性」が謳われ、法論理上、両者の矛盾が生じていた。そこで、明治国家の設計者たちは、天皇を単なる立憲君主にとどめず、「皇祖皇宗」と一体化した道徳の立法者として擁立し、憲法の外で天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示、それが「教育勅語」であった。しかし、立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇は両立し得るのかという問題は解消されないまま、敗戦の翌年、文部省は教育勅語奉読等の廃止を通達、その後、衆参両院で失効が確認され、天皇は「国民統合の象徴」として新しい役割を担うことになった。
 著者は、「もちろん現実の天皇は『神』に代替することはできません」とあえて記すことで当時を批判する。その上で、天皇は自らの意思を主権者である国民に直接伝えることは可能なのか、可能だとすれば、いかなる方法によるべきか。かつての立憲君主としての天皇が勅語によって教育の基本方針を示すことはいかなる形において許されるのかという問題と重ね合わせて著者が問いかけるテーマは深い。

 さて、本書のタイトルは「日本の近代化は何であったか」。著者は「象徴天皇制もまた、現行憲法の制定過程においては第9条の挿入を前提として制度化され、それと密接に結びつけられました。戦後日本は国民主権を前提とする『強兵』なき『富国』路線を追求することによって、新しい日本近代を形成したのです」と評しつつ、2011年の原発事故を契機としたエネルギー危機により再び「強兵」が目を覚ましつつある現状に警鐘を鳴らす。著者が、我が国の近代化を「富国強兵路線と敗戦による最初の挫折」までを第一期、「強兵なき富国路線と原発事故による挫折」までを第二期と捉えていると考えればわかりやすい。
 その上で、個人的には、グローバリゼーションという言葉が闊歩し始めた辺りが近代から現代への境目だと考える。持てる者は国境に関係なく資源や富を求めて世界中を飛びまわり、持てない者はどこにもアクセスできずにますます孤立するか、閉じこもるしかない。そして、強力な権力を持った前者が、圧倒的に後者を支配する。そこにはもはや国民国家を富ませる(富国)という発想すら存在しない。とりわけ人口減少下の我が国においては、かつてのような経済成長は期待できず、格差や貧困が拡大、一方で、集団的自衛権の行使に道が開かれ、9条改憲が現実問題として浮上している。言わば「富国」なき「強兵」路線。その行く末は。直接的な言及はないが、著者の批判の矛先がどこに向いているかは想像に難くない。
 「議論による統治」を要素とする近代の延長線上にある現代にあって、今まさに民主主義の土台が蝕まれている。そもそも民主主義とは何なのか…。いつの時代にあっても「今」を生きる人々に課せられた課題だが、残念ながら、そのような根元的な問いへの答えは本書には書かれていない。ただし、多くのヒントは提供してくれている。少なくとも、民主主義を毀損した状態を次代に引き継ぐことは許されない。高校の大先輩の教えとしてもしかと受け止めて、今後の議論に生かしたい。


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