バリー・シュワルツ著/田内万里夫訳
『なぜ働くのか』

バリー・シュワルツ著/田内万里夫訳『なぜ働くのか』

朝日出版社
1,400円+税
2017年4月

評者:鈴木祥司(生保労連労働局・政策局局長)

 本書は、なぜ多くの人々が仕事から充足感を得られないのか、なぜ朝起きるたび憂鬱な気分でベッドから這い出す日々を送っているのか、といった問いかけから始まる。仕事は本来つらいものだといってしまえばそれまでだが、それはけっして当然のことではなく、誤った認識・人間観にもとづいて仕事や職場がデザインされてきたためだとして、その中味が考察される。労働政策を考えるうえでも、どのような人間観・仕事観に立つかは重要であり、本書はその一助となると思われる。
 著者のバリー・シュワルツは、硬直的で融通の利かない官僚主義に陥らないよう、規則やマニュアルに頼り過ぎることに警鐘を鳴らす米国の心理学者である。本書でも、状況に応じた判断を下せる能力、すなわち「実践知」や「知恵」の重要性に触れており、現場力や想定外への対応が問われている日本の企業・社会にとっても参考になろう。

◆充足感の得られる仕事は限られているのか
 第1章では「仕事に喜びを覚える人が少ないのはなぜか」を考える。思い浮かぶのは、仕事のやりがい、裁量や自主性、成長や学習の機会を得られるのは一部のエリートであり、多くの人々にとって仕事とは単調でつらいだけだからというものである。しかし、「誰にでもできそうだと思われがちな仕事に就く人々の多くが、賃金よりも仕事そのものに関心をもって働いている」と著者は指摘する。
 第2章では、その事例がいくつか紹介されている。大学病院に勤める清掃員のケースでは、自分の言い分を抑えてでも、子どもの看病続きでいらだつ父親に配慮する姿が描かれている。患者やその家族へのケアについては、清掃員の職務規定には一言も触れられていない。しかし、病院という職場に勤めている以上、患者たちをケアし、その快復に努めることが重要な役割であると、清掃員たちは自認していた。自分たちの仕事は何のためにあるのか、何をめざしているのかを内在化していたといえるだろう。
 それは、奨学金の寄付を求める勧誘係のケースからも明らかである。在学生の保護者や卒業生に寄付を求める仕事は成功率が低く、精神的にもきついものがある。しかし、奨学金のお陰で就学の機会を得て人生が大きく変わったという人から寄付金への感謝の念を語って聞かせたところ、話を聞かなかったグループと比べ、より多くの寄付金を集めたという。そこから、「仕事に意味と重要性を与えることには、このような影響力がある」と著者は指摘する。

◆何がやる気を失わせるのか
 第3章では「どんな仕事でも充実感を得られるのであれば、それを分けるものは何か」を考察する。著者は、仕事の充実感は実際の作業内容ではなく、その仕事に意味を見出せるかに、より大きく関係しているという。仕事に意味を見出せず、やる気をなくしてしまう背景には、「人間とはそもそも働きたくないものなのだから、注意深く働きぶりを監視して報酬で釣らなければならない」といった思い込みがあると指摘する。その思い込みは、分業による効率を重視するアダム・スミスの人間観に始まり、その後継者たちによって洗練・拡張されてきたものだという。
 「監視」による弊害として、著者はアメリカにおける教育現場の事例を挙げる。アメリカでは、教師の働きを向上させることを目的に、教育課程のマニュアル化と標準テストの成績にもとづく評価が進められ、すべての教師がこの標準化されたシステムに従うことを余儀なくされた。こうした政策を続けて行けば、「有能な教師からエネルギーや情熱、積極性が奪い取られ、彼らが教育の現場からいなくなってしまう」と著者は警告する。
 「報酬(インセンティブ)」による弊害についてはこう述べる。「金銭的インセンティブがなくても良く働こうというモチベーションをもっている人々に対して、それを上乗せすると、モチベーションは高まるどころか、むしろ低下してしまう」。そうなると、やる気を引き出すために不可欠な価値基準(倫理的観点など)は脇に追いやられてしまうが、脇に追いやられたこの価値基準こそ、優れた仕事を生み出す動機となると指摘する。
 今日の社会では、監視とインセンティブによる仕組みをつくれば、従業員の自主性や職務への誠実さに頼らなくてもやっていけると一層考えられるようになってきた。しかし、かつて労働組合が「順法闘争」で生産現場を麻痺させたように、これらに頼らずして企業や職場はやっていけないのだと著者は訴える。

◆誤った認識が現実になるとき
 第4章では、「人間はお金のために働く」という、人間の本質に関わる認識に疑問符を投げかける。誤った認識は、たとえそれが誤りであっても、人々がそれを信じる限りその行動に影響を及ぼし、社会の隅々にまで広がってしまう。「人間はお金のために働く」という認識に基づいて職場をつくれば、経済的効率だけを追求する非人間的な職場になるのは自明であり、そこには第2章で触れた清掃員のような、仕事に意味を見出す存在はいなくなってしまうと憂慮する。
 また、従業員の能力を固定したものとする認識に異論を唱える。こうした認識に立つ経営者は、得てして従業員の仕事ぶりの変化に気づかず、能力向上のために尽力することも多くないが、そもそも「人間は未完の動物」であり「人間の本質は環境によって形作られる」と著者は主張する。従業員の能力を固定したものとする認識が、いかに経済的効率ばかりに目を向けさせ、労働環境を非人間的なものにしたかは想像に難くない。

◆人間の本質をデザインする
 第5章では、仕事の未来を展望する。「人間の本質は環境によって形作られる」のであれば、「人間はお金のために働く」という誤った認識を正せるかは、私たちが人間の本質や職場をどうデザインするかにかかってくる。仕事に意味や目的を見出すことを人間の本質としてデザインすれば、従業員、経営者および顧客は本当の満足を得られる一方、監視が強まり、裁量や自主性を発揮できる余地が狭まれば、仕事の質やステークホルダーの満足度は低下しかねないと著者はいう。日本を例に挙げれば、サービス産業を中心に生産性の低さが課題視されているが、数値には表れないステークホルダーの満足度を加味した生産性の向上が求められているとすれば、経済的効率だけを追い求めることは大きく道を誤るおそれがある。それだけに私たちは、仕事の意味や目的を問い続けることが大事であり、そのことが、ひいては職場や社会を豊かにするのだといえよう。
 そのために私たちは何をすべきか。最後に著者はこう問いかける。「私たちは、従業員に自分の頭と裁量で日々の問題を解決する自由を与えているだろうか」「厳しく監視せずとも従業員が自ら積極的に、良い働きをするのだと信じているだろうか」と。熾烈な競争のなかで、労働組合も、ともすると仕事の効率性や生産性だけに目を奪われかねない。しかし、働く者の現場力や創意工夫こそが競争力の源泉となり、それらの発揮が働きがい・生きがいにも直結する今日、労働組合は、働く者の自主性や矜持をより大切にした運動を進めていく必要がある。

 このように本書は、働く者が本来、誇りある存在であることをあらためて感じさせてくれるが、一方で、本書の課題意識から漏れる視点も指摘できる。
 一つは「ルールの重要性」についてである。たしかに著者が指摘するように、規則やマニュアルで従業員を縛りつければその自主性を奪いかねないが、しっかりとした規則やルール(法律や協約・協定など)がなければ、経営者にとって都合のよい働き方を押し付けられかねないのも事実である。そういう意味で、働き方に関するルールづくりへの従業員ないし労働組合の関与が重要であることは今後も不変である。
 もう一つは「劣悪な環境下にある従業員」の視点である。著者は「どんな仕事でも充実感を得られる」というが、実際には、劣悪な労働条件や非人間的な職場環境の下で、仕事に希望や意味を見出したくても見出せずにいる人がいることを忘れてはならない。労働組合はこうした厳しい現実からも目を背けてはならないであろう。


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