ヘンリー・ミンツバーグ著/池村千秋訳
『私たちはどこまで資本主義に従うのか-市場経済には「第3の柱」が必要である-』

私たちはどこまで資本主義に従うのか-市場経済には「第3の柱」が必要である-

ダイヤモンド社
1,600円+税
2015年12月

評者:鈴木祥司(生保労連 労働局・政策局局長)

 私たちはとかく政府か市場かの二元論もしくは二項対立的発想に陥りやすい。左右の対立が長く続いた影響もあり、さまざまな課題に直面しながらも、大きな政府か小さな政府か、保守かリベラルかなどに目が行きがちである。
 本書は、こうした二元論の下で埋没してしまっている、いわゆる「中間集団(団体)」(著者は「多元セクター」と呼んでいる)の役割や重要性に光を当てることをねらいとしている。資本主義でも共産主義でも、社会がうまく回るにはバランスが大事であること、そのバランスを取るには政府と市場だけでなく「中間集団」がコミュニティを基盤にしっかりと機能する必要があることが論じられている。中間集団の中には労働組合も入る。そういう意味では、これからの社会における労働組合の役割や可能性を感じさせてくれる貴重な提言にもなっている。
 なお、著者のミンツバーグは経営学者であり、本書のテーマの専門家ではない。にもかかわらず、著者がこうした包括的な社会構想を示したのは、主にアメリカ社会を念頭に、行き過ぎた資本主義、バランスを失った社会に警鐘を鳴らすためである。

「多元セクター」とは何か
 1989年の共産主義体制の崩壊は資本主義の勝利などではなく、あくまでも「バランスの勝利」であったと著者はいう。西側諸国では社会の3つのセクターのバランスが比較的取れていたが、共産主義体制では過度に政府に権力が集中していたため崩壊に至ったとする。3つのセクターという考え方自体は新しいものではないが、セクター間のバランスに着目した点に著者の独創性があるといえる。
 3つのセクターとは、政府(Public)セクター、企業や市場に基盤を置く民間(Private)セクター、そしてコミュニティに基盤を置く多元(Plural)セクターのことである。中間集団としての「多元セクター」には、労働組合や協同組合、NPO・NGO、宗教団体、大学、病院などに加え、社会運動や社会事業なども含まれる。これら3つのセクターのバランスが取れてはじめて、社会はうまく機能するとの見方に立っている。
 著者が「多元セクター」と呼ぶのは、そのセクターの組織がきわめて多様であり、メンバーの参加や所有の形態も多様であるためである。「第三(third)セクター」などと呼ばれることもあるが「付け足しのように聞こえてしまう」ことを危惧しており、こうしたところにも多元セクターを柱の一つに位置づける著者のこだわりが感じられる。

アメリカにおける民間セクターの暴走
 アメリカは元々、多元セクターが活発な社会であった。フランスの政治思想家トクヴィルは1830年代にアメリカを視察し、その社会の特徴としてコミュニティに多数の「結社(associations)」(著者のいう「多元セクター」)が存在することを指摘、それらの結社が民主主義の屋台骨を支えていると見た。第二次世界大戦後も、アメリカ社会は3つのセクターのバランスが取れていたという。
 ところが1989年以降、アメリカ社会では民間セクターが暴走し始め、政府セクターと多元セクターの弱体化を招くなど、バランスが失われていく。強欲は好ましく、所有権は神聖不可侵で、市場に任せておけばすべてうまくいくと考える経済思想が、経済学の後押しもあって社会に蔓延していく。こうした意味で本書は、とくに現代企業と新古典派経済学への厳しい告発という側面をもっている。
 このような事態を招いた背景の一つとして、「アンバランスの種子」がアメリカの歴史の中ですでに蒔かれていたという。とりわけ、1886年の連邦最高裁判所の判決において、合衆国憲法に謳われた個人の権利から派生する形で営利企業にも法人格が与えられたことは、その後の飽くなき利益追求に決定的な根拠を与えたとする。

多元セクターの役割とその衰退
 そこで、社会のバランスを取り戻すためには多元セクターがカギになると著者は指摘する。共産主義社会と資本主義社会はそれぞれ一本の脚でバランスを取ろうとしてきたが、前者は多くの人の消費のニーズに応えられず、後者は一部の人たちの最も基本的な保護のニーズに応えられていない。多元セクターには政府セクターと民間セクターでは応えられないニーズをコミュニティの力でカバーする機能があることに着目する。
 中間集団としての多元セクターには民主主義を強化する機能もある。経済学者の猪木武徳氏は、トクヴィルの考察から、個人は基本的にバラバラで無力な存在であり、連携・連帯することではじめて強者に対抗することができること、中間集団は「援け合う術を学ぶ装置」としての役割を果たしていることを指摘する。(猪木武徳『自由の条件』2016、ミネルヴァ書房)
 しかし、共産主義社会でも資本主義社会でも、多元セクターは弱められているのが現実である。共産主義社会の政府は、共産党の全能性が脅かされるため、多元セクターが主体的に行動するのを嫌う。大企業もローカルな多元セクターを好まないことが多く、たとえば、グローバル展開する小売りチェーン大手のウォルマートは労働組合の結成を阻止してきた。グローバル化を進めれば均質化が避けられず、コミュニティの独自性とは相反することになる。それゆえ、民間セクターがグローバルな規模で拡大していくのに伴い、ローカルな多元セクターは衰退を余儀なくされたと著者はいう。

社会のバランスを取り戻すために
 著者は、民間セクターの力が強まり過ぎている状況に、革命以外の方法でストップをかけるにはどうしらよいかと問い、現状に抗議する社会運動(Social Movement)と現状の改善に取り組む社会事業(Social Initiative)に期待を寄せる。とりわけ社会事業に対しては、「真に発展を遂げている国は、市民グループが社会事業を起こして、人々の生活を改善し、自由を高めている」と高く評価する一方、数多くの社会事業を大きな運動にまで発展させるには至っておらず、アンバランスの拡大にストップをかけられていない現状を課題視する。
 個人に対しては、一人ひとりが傍観を決め込まず主体的に行動することを訴える。今日の世界が抱える課題はすべての人の身に迫っている。個人主義を利己主義と同義であると理解したり、強欲が善であるかのように振る舞ったりと、みずからのことだけを考え行動し続ければ、行き着く先は破滅的な社会で、人類そのものの消滅にもつながると警告する。

日本社会の現状
 本書に照らして日本社会の現状を見るとどうか。ここでは3点指摘したい。
 一点目は、民間セクターの暴走についてである。日本ではアメリカほど民間セクターが暴走していないし、文化的な側面などから今後も暴走することはないとの見方もあるが、果たしてそうだろうか。著者が「アンバランスへの歩みの先頭を歩んでいるのはアメリカだとしても、アメリカだけがその道を歩んでいるわけではない」というように、日本においても、株主主権の高まりなどを背景とした利益至上主義的な企業行動など、その兆候が見られることから、今後も注意深く動向を見ていく必要がある。
 二点目は、中間集団の役割についてである。日本においても他の先進国と同様、国家機能の拡大や個人主義の浸透により、地域コミュニティなどの伝統的な中間集団は弱体化してきた。しかし、1990年代以降、市場原理主義や「小さな政府」論が台頭し、いわゆる「公共性」が敗者・弱者の差別的な救済に矮小化される中で、「新しい公共」を担う中間集団の役割は高まっている。これらの中間集団が活力ある姿を取り戻すには、労働組合を含め、組織間の連携を強化し、それぞれの強みを活かしながら相互に支え合うことが肝要となろう。
 三点目は、中間集団の現状と課題についてである。中間集団の役割が高まる一方で、安全に関するデータの改ざんや過労死につながる長時間労働が相次ぐなど、一部の労働組合では企業のカウンターパワーとしての役割を十分に果たせていない面が露呈してしまっている。また、一部のNPOでは実質的に政府セクターの下請けになってしまい、多元セクターならではの役割を十分発揮できていない現状にある。私たちは、これらのことを直視し、多元セクター本来の役割について、あらためてしっかりと議論する必要がある。

 いずれにしても、バランスの取れた社会をつくるうえで労働組合をはじめとする中間集団が不可欠だという点が、本書の要諦である。これからの社会のあり方や、その中で労働組合はどのような役割を果たすべきかを展望するうえで、本書は大いに役立つ。多元セクターのあるべき具体像にまで迫っているとはいえないが、それはむしろ私たちのこれからの課題であろう。
 なお、本書はたんなる資本主義批判の本ではなく、そのような誤解を招きかねないタイトルは少し残念である。原著タイトルは“Rebalancing Society”であり、著者の問題意識の核心でもある「社会のバランスを取り戻す」をタイトルにも活かしてもらいたかった。


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