角川文庫
680円+税
1977年4月
評者:西野ゆかり(連合広報・教育局長)
「あゝ、飛騨がみえる・・・」野麦峠で命を落とした20歳の工女・政井みね。口減らしのため岡谷の製糸工場へ出稼ぎに行き、過酷な労働の末に病に倒れ、兄の背におぶられて貧農の実家へ連れ戻される途中、峠で息絶える間際に発した言葉である。明治42年のこと。
映画でお馴染の方も多いと思う。スクリーンでは、この工女みねを主人公とした女工哀史の痛ましいストーリーだが、本書ではそれはほんの一部である。著者は360名におよぶ元工女を一人ひとり、飛騨とその周辺を訪ね歩き取材、それまで歴史の闇に隠されていた明治期の製糸産業と工女たちのすさまじい労働に強烈な光をあてた、すぐれた記録文学である。
特に「女工惨敗セリ」の節では、昭和2年(1927年)におきた信州岡谷の製糸会社・山一林組の1300名の工女の決起と壮絶な闘いが描かれている。大規模な製糸女工のストライキである「山一争議」を、労働者サイドのみならず、経営者の苦悶、その背景にある暴れ馬のような生糸相場、工場を取り巻く地元の民衆がこの争議をどうみていたかなど、いくつもの角度から明らかにされている。
生糸が支えた文明開化。ではその生糸は誰がつくったのか。この野麦峠を越えた工女たちの辛抱と働きは日本の発展の礎となった。と同時に、劣悪な労働環境や労働条件はさまざまな議論を巻き起こし、明治44年の工場法制定となり、さらに戦後の労働基準法、労働安全衛生法とつながったのである。
労働運動のルーツがみえる名作である。
◆文明開化を支えた生糸、それは誰がつくったのか?
明治のはじめ、後進国日本は「文明開化」「富国強兵」を合言葉に先進国への仲間入りをめざした。しかし当時の世界は、軍事力がものをいう帝国主義の時代に移行しつつあった。明治24年にはロシアや清国の巨艦に威嚇され、日本の朝野を震え上がらせていた。ところがその3年後には日清戦争、10年後には日露戦争で日本は勝利をおさめた。これは決して「大和魂」などによるものではなく、日本が短い年月のうちに両国を上回る軍艦と兵器を手に入れたことによりつかめた勝利であった。なぜそれが可能だったのか、それは生糸であった。明治初年以来、昭和恐慌で製糸業が斜陽化するまで、生糸はわが国最大の輸出品であり、日本の文明開化を支えた。ではその生糸はいったいどこで、誰がつくっていたのか。それは長野県諏訪地方の中心の岡谷の地で、雪深い日本アルプスの難所、峠をいくつも超えてやってきた飛騨の貧農から送り出された多数の糸引き工女たちの手によって作り出されたものであった。
◆労働基準法もない、過酷な労働
少女の出稼ぎ労働は、最初は貧しい飛騨の農村の口減らしから始まった。工場での労働は朝4時半頃から夜10時頃まで、働きづめという大変過酷なものだった。さらに神経をぴりぴり張りつめた仕事であった。労働基準法もない時代である。
就業規則をみると工場主の都合で何時でも解雇されても異存を唱えることはできなかった。賃金は出来高制で、記録では明治8年の工女1日の最高は10銭、最低1銭、年間の最高9円21銭3厘。それでも年々上昇し、明治30年代には年間で100円を稼ぐ工女も出てくる。当時の価値で家が2件建つという金額である。本書には、政井みねのように結核で亡くなったり、冬の寒い野麦峠で行き倒れになる工女たちもいたが、年期まで働きあげ、もって帰った賃金で、親たちが田圃を買い、小作農から自作農に変わったケースもあることが紹介されている。飛騨の工女たちが過酷な労働に耐え得たのは、工場での食生活が田舎よりもまだましだという農村の絶対的貧困にあったと同時に家族に貢献するという思いも強く反映していた。
◆1300名の工女の決起と全面敗北
そうした中、昭和2年(1927年)8月28日、岡谷の大製糸会社「山一林組」で、大規模な製糸女工のストライキ「山一争議」が勃発した。大まかな流れをぜひお読み取り頂きたい。
<組合からの要求と会社の拒絶>
●組合から会社への要求内容
①労働組合加入の自由を認めよ
②組合加入を理由とする不当転勤、降格の禁止
③組合員ゆえの解雇をするな
④組合員に問題がある時は組合役員に連絡を!組合役員が責任をもって導く。
⑤食事・衛生の改善
⑥福利厚生の施設を与えよ
⑦賃金の改善。
●会社側の拒絶・・・林社長「外の人間(労働組合)に干渉される必要はない」
<組合側・経営側の行動>
- ●組合側の行動
・ビラ「同志のために」を岡谷周辺住民に一斉配布
・薪炭店を借りて「争議団本部」の看板を掲揚
・千数百名が参加する決起集会での発言。
工女たちが工場側の虐待と不正をあげ、「労働者は団結せよ」「私たちは身売りされた奴隷ではない」「私たちは日本産業を担う誇り高き労働者である」「私たちはブタではない。人間の食べ物を与えてください」「この最低限の嘆願書を受け入れてくれるまでは、私たちは死んでも引き下がりません」
・岡谷の町に繰り出したデモ隊・・・労働歌は町々に響き渡った
- ●経営側の行動
- ・震え上がる製糸業界の経営者たち
もし山一で工女が勝利したら、おそらくすべての工場で工女たちが一斉蜂起するに違いない。「一致団結して山一を絶対に勝たせる」「山一の争議女工を一切雇用しない」と決議。
・団体交渉拒否の声明書
・大量のゴロツキと警察官を動員しての組合攻撃
・田舎の父母へ卑劣な手紙の送付
・会社のビラ・ポスター、デマ
「一部の扇動者に騙されるな」「犬も3日養えば主の恩を忘れじ」「破壊は易く、建設はむずかし」「働け稼げ、不平不満は身を滅ぼす」。さらに「争議団が爆弾を投げる」など。
・動揺させた田舎の親を大挙動員。娘を力づくで無理やり連れ帰る親たちと、それを阻止しようとする労組との必死な攻防が続いた。
<21日間の攻防と組合の全面敗北>
糧道攻め。警察・ゴロツキ・在郷軍人・町の青年団が、竹ぶすまで炊事場、食堂、寄宿舎を占拠・ロックアウトし、1000名全員を工場の外へたたき出す。雨中でふくろだたきにあう女工。多くの労組幹部が逮捕され、指導者をなくした。
全国から大量の食糧の差し入れ、支援が届けられた。のちに首相となった片山哲をはじめ多くの人びとが現地に支援にかけつけた。しかし9月17日、21日間におよび激烈に闘い抜いた争議団はついに解散を決めた。労働者の全面敗北だった。
翌日の信濃毎日新聞の「労働争議の教訓」はつぎのように論じた。「女工たちは、繭よりも、繰糸枠よりも、そして彼らの手から繰り出される美しい糸よりも、自分達の方がはるかに尊い存在であることを知った。彼らは人間生活への道を、製糸家(資本家)よりも一歩先に踏み出した。先んずるものの道の険しきがゆえに、山一林組の女工たちは、製糸家との悪戦苦闘ののち、ひとまず敗れたとはいえ、人間の道がなお燦然たる光を失わない限り、しりぞいた女工たちは、永久に眠ることをしないだろう」
◆一気に読み終えて
映画しか観たことがなかった私は、女工哀史の痛ましいストーリーを想像し、なかなか頁を開くことができなかった。しかし読み始めた途端、いきなり明治期にタイムトリップするかのように引き込まれ、さらに著者と共に元工女たちに聞き込みしているような不思議な錯覚におちいった。多くの生の声に裏付けられたすぐれた記録文学の力がなすことであろう。さらに読み終えて、哀史とはほど遠い、むしろ清涼感に似たものを感じた。それは本書が彼女たちの人生を単なる女工哀史的な暗いイメージだけではなく、一生懸命稼いで親を喜ばせたことがどれだけ嬉しかったのか、また彼女たちが自分の歩いてきた人生にそれなりの意義や喜びを見出していたという一見意外な事実にまで及んでいるからであろう。
さらに本書は、労働運動の原点の場にも連れて行ってくれた。彼女たちの崇高な闘いは、脈々と次代に受け継がれながら、今日の労働基準法や労働安全衛生法につながっている。こうした先人たちの血や汗を私たちは決して忘れてはならない。
それにしても今、私たち労働組合人が当たり前のようにシュプレヒコールや頑張ろう三唱を口にしているが、そこにはどれほどの魂が込められているのだろうか。動員要請に応え、日比谷野音からデモ行進していることで、どれだけのことが訴えられているのか・・・岡谷の地で闘った彼女たちの姿を思うと、考えさせられることしきりである。
ぜひ近い内に、工女たちが越えた野麦峠や、岡谷の地を訪ね歩きたいものである。
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