アマルティア・セン
『アマルティア・セン講義 経済学と倫理学』

『アマルティア・セン講義 経済学と倫理学』

筑摩書房
1,000円+税
2016年12月

評者:末永太(国際労働財団調査・広報グループリーダー)

 本書はノーベル賞経済学者であるアマルティア・セン氏が、1986年4月にカリフォルニア大学バークレー校で行ったロイヤー講義の内容である。 経済学には二つの流れがある。一つはA.スミスの系統を引く倫理学と結びついた伝統、もう一つは「工学的な」、つまり数理上での因果関係の証明というかたちで、問題処理に専念する伝統である。この二つの流れのうち、もっぱら工学的アプローチのみが近年、排他的に発展してきた。本書は、倫理学から離れることによって貧困化した経済学に対し、数理的定式化による制約から脱し、資本主義の初期のA.スミスの時代のように、経済学が倫理学と密接に結びついていた思考方法を取り戻すことが、経済学にとっても、また、倫理学にとっても、必要なことだとする著者の信念を理論的にコンパクトにまとめたものである。

 本書は、第1章「経済行動と道徳感情」、第2章「経済的判断と道徳哲学」、第3章「自由と結果」の3章から成り、全体として分量もさほど多くはない。しかし、訳者あとがきにもあるように本書には数多くの難解な著作のエッセンスが詰まっている。そのことは、本書の半分をも占める原注を読めばうかがい知れる。

 第1章では、倫理学を拒否した現代の経済学が人間の行動の前提としている、自己利益の最大化という動機づけについて述べている。
 近代経済学は、合理的な個人として、自分の利益を最大化したいと考える個人(「経済人」)を想定して 理論を構築しており、それにあてはまらない複雑な人間の行動は、集計しにくい・数量化しにくい、などの事情で排除される。
 しかし、実際の生活を分析してみれば明らかなように、人間は経済的な合理性だけで行動するものではなく、人間にはさまざまなタイプの人物が存在する。たとえば環境保護や原発ゼロ政策、貧困対策などが社会にとって、あるいは個人にとって経済的にはコスト高になったとしても、そこに何らかの価値が見出されるのであれば、さらにそうした価値観が他の人々と共有されるほどに、人は信念に基づいて行動する。逆にそうした行動が経済に影響を与える。
 「実際の行動を特定するために(自己利益を最大にするという)合理的行動の仮定だけでは不十分である」と著者は語る。自己利益追求という従来の経済学的アプローチだけでは人が経済的・社会的問題に関心をもち,それに対処していこうとする動きを説明するのには限界がある。経済活動が市場ルール、つまり、経済的規範に従うように、人は行動を促す要因として、社会で共有される社会的規範にも従っているのであり、「合理的経済人」という前提は,実際の人間行動や現実の経済問題に照らして修正を迫られているとする。

 つづいて第2章では、厚生経済学が功利主義的な人間観の影響を強く受けており、その影響が功利主義以後の厚生経済学に依然としていかに強く残っているか、経済学を歪めているのかについて述べている。
 伝統的な厚生経済学においては、個人間の効用比較を用いながら、倫理学的考察を背景にした価値判断の下、人の「よい暮らし」の評価と、さまざまな公共政策の提言も可能であった。生み出された効用の総計の大きさによって達成を判断し、他の何ものにも本質的な価値を与えないという功利主義的な基準が採用されていた。たとえば1000円といったおなじ金額でも、貧しい人びとにとっての効用は,金持ちの効用より大きいから、金持ちから貧しい人への再分配は効用の総計を大きくするから、適切な政策であるとみなされた。
 しかし、厚生経済学は、ロビンズの個人間効用の否定をきっかけに変質し、他者への同感や同情などを論外とし、生身の人間とはかけ離れた、冷徹で自己の利益のみに関心を持つ「経済人」を分析の対象とするようになってしまった。著者は、このことを「形式における数学的厳密性と内容における驚くべき不正確さとが、相俟って進行してきた」と評する。
 ここで確立された考え方がパレート最適であった。パレート最適は、「他人の効用を減らさずには誰の効用も増やせない社会状態」である。これによると、極貧の人が悲惨に暮らしていても、裕福な人の効用を減らさなければ、極貧の効用を増やせない場合には、パレート最適状態と言え、これを動かす理由がなくなる。つまり再分配は理論的に否定される。「パレート最適を唯一の判断基準とし、自己利益最大化行動を経済的選択の唯一の基礎とする厚生経済学は、これによって小さな箱の何かに押し込められたのも同然だから、もはや、大したことを言える余地などほとんどなくなってしまった」とし、「厚生経済学が前提とする基本的な考え方を修正してゆく必要がある」としている。

 そして、第3章「自由と結果」では、厚生経済学の思想的な基礎をなす功利主義について厚生経済学に関連した、効用主義、帰結主義、総和主義の各論点から批判する。
 このうち効用主義について著者は、効用主義の自己中心主義、自分だけがよければよいという自己厚生の目標、人びとの相互依存が自己の選択を制約しないという自己目標の選択という3つの特徴のうち、まず、「自己中心的な厚生」の原理について、人間の厚生はその人個人の消費だけに依存すると考えるが、他者への共感や反感なども考慮にいれるべきとし、「自己厚生の目標」の原理では、個人の目標は自己の厚生の期待値を最大にすることが目標とされるが、他人の厚生も人生においては重要な要素となるとする。さらに「自己目標の選択」の原理についても、各人は目標を追求することで選択するとみなされているが、孤独に行動する人はいないのであり、他者との相互依存関係を無視すべきではない。著者はグループの利益が優先されて、個人の利益は重視されない場合もあるし、追求されている目的が例示として記載されている労働運動のように「非自己的な目標」であることもあるとする。
 そして著者は、『倫理的評価における情報の多元化を、また、「権利」や「自由」と、「結果」への考慮の調停を目指すべき』とし、功利主義が一つのものとして区別していない、帰結と過程との区別、行為主体の概念について考慮することで、「豊かな生の側面(=主に自分の「取り分」に対する評価)」と「行為主体性の側面(=経済的な要素以外も含めた自分の目標や生きがいなどに対する評価)」と、それらを獲得するための自由として、「豊かな生を求める自由」と「行為主体性を求める自由」の四つのカテゴリーごとに集計していくことを提案している。
 さらに、ここから著者は,倫理学へと議論を拡張し、「倫理的な考慮によって,人は自分の厚生以外の目的を最大化することができ,その人の個人的厚生はその人自身の消費よりも広い基盤に基づくようになるかもしれない」とする。
 日本経済が「成功」した理由に著者は着目し、「ルールに基づく行動の遵守」という倫理性が果たした役割について言及している。“国の経済”は社会性の産物であることと、他国とつきあうときには“その社会の特性”を観察しなくてはならないことを、この本は教えてくれる。
 従来の経済学が前提としていた人間モデルについての反省は、多様な形で行われている。最近流行の「行動経済学」もその一つだろう。経済行動の結果に対する倫理、「善」という観点からの評価について思い浮かぶのは、日本でもブームとなったマイケル・サンデルが思い浮かぶ。サンデルの議論が注目されたのも、倫理あるいは善というものに対する”渇望”が、その背景にあるのではないだろうかと思う。あるいは、いまはなき宇沢弘文の多くの業績が思い浮かぶ。宇沢は、ここで著者がごく簡単にしかふれていない外部性や時間の視点を発展させたうえで、価値観による基準を設定したのち、数理的手法を用いて現代の問題の解決に接近しようとした。
 多様な文化と伝統を土台に捉え、情報多元性によって経済学と倫理学の融合をうったえる著者の論理は、論理展開が細密であるが、結論が新古典派経済学者以外のふつうの人びとにとってはむしろは常識的である。常識的ではあるが、単純な新古典派の影響を受けた大学教授らが政府審議会などで猛威をふるっている現状をみるとき、論理的精密さにうらづけられた常識の復権はぜひとも必要である。その意味で本書は古典としての位置を占めている。


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