筑摩選書
1,800円+税
2014年2月
評者:末永太(国際労働財団 調査・広報グループ長)
今日、働く者の可処分所得の向上・賃上げが、景気回復の効果的な手段とされ、少なくとも言葉のうえでは、政府も日銀も積極的にとりくんでいる。本書の目的は、今、なぜ賃上げが必要か説明することにあり、そこで貫かれる論点は「企業貯蓄の過剰な増大を解消し、賃金を引き上げることにより家計の購買力を増加させる」というものである。労働組合の役割に積極的に言及しないなど、論理に問題点も少なくないが、企業の内部留保が成長を阻害する元凶であるという論理では一貫しており、一読の価値がある。
著者は、首都大学東京大学院社会科学研究科教授で、政労使会議の下に設置された、「経済の好循環実現検討専門チーム」のメンバーであり、現在の政府の「好循環論」についての理論的裏付けを行ったマクロ経済学者である。
本書は、7つの章で構成されている。
第1章は、本書の基本的視点を概説しつつ、なぜ賃上げが必要か解説している。その中で現状を打破するためのキーが労働市場にあることを指摘するとともに、日本経済の現状は、基本的には有効需要の不足によって資源が十分に活用されていないという意味で「ケインズ的状況」であるが、財政出動のような従来型のケインズ政策は、企業に内部留保が十分にあるなかでは、なかなか効果が出ないとする。
第2章と第3章はセットで、日本の外部労働市場と内部労働市場の関係、それら市場内での問題点を整理した章となっている。第2章では、非正規労働者の問題を中心に据えて企業の貯蓄が過剰になった背景としての日本の労働市場を批判的に検討している。著者は、平均所得が減少した主な要因として、[1]賃金の低い非正規雇用の増加、[2]非正規雇用から正規労働への波及効果のなさ、[3]非正規雇用の増加によるマクロ的生産性の伸びの停滞、の三つを挙げる。
著者は、2000 年代に非正規雇用者の急速な拡大は「……日本社会にいわば心理的な歯止めがなくなった」と述べている。しかし、非正規労働者の拡大には、様々な制度変更の影響を無視することができない。
第3章では、内部労働市場に直面している大企業の雇用者層に対する議論で「全面的に既得権の排除というスローガンで大企業の雇用者の「保険」をなくすことは、長期的な熟練形成を阻害し、時間をかけて努力しても報われない社会を作る可能性すらある」と主張する。これは「正社員の既得権を打破せよ」などといった浅薄な主張とは一線を画すもので好感を持てる。
第4章は、なぜ、適正な賃上げが行われてこなかったのか、を中心に本書の核となる部分である。著者は、経営者が主張してきた、不況期にはリストラはやむを得ないと主張する一方、好況期には企業存続のために賃金や配当は払えないといったダブルスタンダードをつづけ、設備投資も人件費も増やさず、貯蓄に振り向けた結果、企業貯蓄がGDPに匹敵する540兆円までに溜まってしまったことが、家計の消費を抑制し、企業への需要を減少させ、投資意欲をも減少させるという悪循環を引き起こしているとする。
また、著者は、この間、設備投資こそが景気回復のカギとして、企業を優遇する政策が取られてきたが、支出性向の低い企業の所得を増やしても貯蓄に向かうばかりで効果はない。冷遇してきた雇用者の所得を増やすことが消費増をもたらし、乗数効果の復活で、日本経済が回復軌道に乗る。賃上げ追求こそが、成功のカギを握るとする。具体策としては、「まず内部留保は合成の誤謬をもたらす、という側面を全体として認識することから始めるべき」としている。ただ、賃上げに重要な役割をはたすべき労働組合については、「自己資本比率等会計指標を監視すべきであり、もう少し会計士等を雇って、理論武装はできる」と述べるに留めている。これも著者の限界を示すものといえる。
第5章「自分を見失った政府」、第6章「少子化と家庭の変容」では政府部門と少子化問題を考察し、財政、人口減少、地方衰退が深刻であること、そしてその背景には少子化があることを述べている。第7章「立ちすくみの構造」では、「多くの経済学者らが教科書的なロジックにとらわれすぎるため」、著者の提示する解決策に違和感を持つからこそ、本来、なされるべき解決策がなされず、立ちすくんだままなのだとし、まずは企業が賃上げをおこなうとともに、迂遠なようでも少子化対策に重点的に取り組む必要があるとする。そのような所得分配政策こそが需要と供給の懸隔を埋める というのが著者の主張であり、このような問題を自分自身の問題として解決してほしいとして締めくくっている。
本書の細部にわたる丁寧な分析は、大変参考になる。全体の論旨も今日の状況を変えるうえでは一定の有効な役割を果たすものと考えられる。しかし、すでに個別に指摘した点以外で気になる点もいくつかある。
1つは政府による賃上げ要請やガイドラインの提示等、政府による賃上げへの積極的な介入のみの効果を期待しているように思える点である。賃金決定への政府の介入がどこまでみとめられるのかは、短期的な視点だけで論議してはなるまい。
もう1つは論議が基本的には資金の循環だけに目がむけられていて、社会保障や労働市場のあり方、下請け関係などにかんする構造政策にはほとんど言及がないことである。
労働組合の関係者がこのような点に配慮しつつ、論旨を読み解き、賃金交渉などに活用することが望まれる。
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