宇野重規
民主主義のつくり方

筑摩選書
1500円+税
2013年10月

評者:鈴木祥司(生保労連 局長)

 民主主義に対する不信が募っている。社会の変化に民主主義が対応できていない、移ろいやすい「民意」をどこまで信じてよいのかなど、その機能不全を指摘する声が高まっている。民主主義をどうしたらもっと身近で信頼に足る仕組みにできるのか、成長時代から収縮時代に入った日本社会において、どのように痛みの分かち合いを合意していけるのか。
 本書は、アメリカの精神的基礎となっている「プラグマティズム」の思想を手がかりに、困難に直面している民主主義の再生をはかることを目的としている。

民主主義の理念を取り戻す
 現代民主主義は、18世紀フランスの思想家ルソーが提唱した「一般意志」という概念を基礎としている。一般意志とは、個人の意志のたんなる集計ではなく社会の共通意志とされるが、一般意志と個人意志が異なった場合は一般意志が優越する(個人意志はそれに従う)という意味で、共通意志とはいいながら一つのフィクションに他ならない。
 これに対して著者は「一般意志というフィクション抜きに民主主義の構想はできないのか」と問題提起し、新たなオルタナティブとして、一人ひとりの経験や習慣を重視する「プラグマティズム型」の民主主義像への転換を試みる。そこには、民主主義の理念を自分たちの手に取り戻したいという思いがある。

民主主義の経験
 第1章では、これまでの民主主義の経験を辿る。現代社会において民主主義は選挙や政治家による議会政治と同一視されるほど制度化・形式化され、その本質が見えにくくなっている。しかし、民主主義は制度である以前に、一つの実践である。移民社会アメリカでは、自分たちが誰にも従属していない、自分たちこそが政治を支配しているという感覚が出発点にあり、その原初の経験が社会の基層に流れているという。
 こうした「経験」は、プラグマティズムの思想家たち(ウィリアム・ジェイムズ、ジョン・デューイら)にとって特別な意味をもった。伝統的に哲学は、日常の経験よりもその背後にある本質を追い求めてきたが、彼らにとっては、人がともに行為し経験を共有することこそが重要であり、それによって人の成長や民主主義の基礎がつくられると考えたのである。
 日本でも敗戦による欠乏や混沌の中に「明るさ」や「平等意識」が見られ、著者はそこに民主主義の経験を見出す。これらはやがて高度経済成長とともに風化してしまったが、民主主義を立て直すためにいま一度想起する必要性を説く。

近代政治思想と民主主義の担い手
 第2章では、現代民主主義の行き詰まりの背景を考える。近代政治思想の出発点は宗教内乱にあったが、政治はこれを避けようと、宗教など内面的価値の問題を切り離し、もっぱら人間の外面の問題を扱うようになった。そのため、そこで描かれた人間像は、「緩衝剤で覆われた自己」という概念に代表されるように、他者とのコミュニケーションに消極的な人間となった。近代政治思想は「自立した個人」からなる社会を構想してきたが、過度な自立の強調も他者への不干渉を助長した。他者への依存は服従につながるため、悪とみなされたのである。また、みずからの属性を知らず、他者にも関心をもたない「原初状態」という仮想設定でのみ正義が導き出されるとしたロールズ(現代アメリカを代表する政治哲学者)の考えも、不干渉を補完することにつながった。
 これらの人間像は、人と人との合意の難しさを表しているのかもしれない。しかし、「他者と向き合い関係をもつことを避けようとする孤立した個人」は民主主義の担い手となり得るのか。著者は、近代政治思想が前提としてきた人間像そのものを問い直す必要があると訴える。

習慣の力
 第3章では、プラグマティストの思想を紹介し、彼らが重視した「習慣」に着目する。プラグマティストにとって、ある理念がそれ自体として真であるかどうかはさほど重要ではなく、その理念にもとづく行動がどのような結果をもたらしたかが肝心であるという。結果が望ましいものとなり、それが繰り返されれば、その理念や行動はその人の習慣となる。その習慣は、社会的なコミュニケーションを介して他者へと伝播し、共有される。人々の理念が結びつき、結果として社会を変えていく。
 こうした人と人との関係を基盤とした「習慣」の力による社会変革は「投票によらない社会変革」であり、著者はそこに「ルソー型」とは異質の「プラグマティズム型」民主主義の可能性を見出す。

日本における民主主義の実験
 第4章では、日本におけるソーシャル・ビジネスや地方自治の注目すべき実験を紹介する。前者では、社会起業家が行政だけでは限界のあった病児保育問題の解決モデルをつくり出した事例、後者では、人口減少や少子高齢化、財政難などに苦しむ島を持続可能な社会モデルにつくり変えた事例を取り上げる。いずれも日本社会全体が直面している課題だけに、一部の実験にとどまらず、他者への伝播を通じた社会全体の変革につながることを期待する。
 2000年代の日本に現れたこうした社会変革志向には、必ずしもめざすべき明確な社会像があるわけではない。社会を変えたい、社会の役に立ちたいという思いは共有されていても、かつての社会主義者が描いたような社会像と比べると漠然としている印象は否めない。しかしその分、「どのように社会を変えるか」についてはかなり自覚的であり、その点に著者はプラグマティズム的な思考を見る。

民主主義の担い手としての労働組合
 プラグマティズム型民主主義には評者も大いに可能性を感じるが、その担い手について著者は「新たな変革の余地はどこに残っているかといえば、『ローカル』な場所…、既存の主体の手がまだ及んでいない領域である」と述べている。この論理でいえば、労働組合は既存の主体そのものであり、変革の主体とはなり得ないことになるが、本当にそうだろうか。
 いうまでもなく労働組合は協働・助け合いを行動原理とし、職場コミュニティの形成や労使の話し合いを通じて戦後の日本社会に民主主義を根づかせる役割を果たしてきた。厳しい状況下でも合意形成をはかってきたという意味での「民主主義の経験」も豊富にある。たしかに、前述した社会起業家による実験のような斬新さは乏しいかもしれないし、労働組合自身、企業の中に閉じこもらず、もっと外に目を向けるべきといった課題はある。しかし、全国の職場・組合のレベルにおいても、社会問題の解決に向けた民主主義の習慣は地道に積み重ねられている。新たな民主主義の担い手についてはあまり限定せず、ありふれた日常の経験にももっと目を向けた方が、プラグマティズム型民主主義の可能性はより広がるのではないか。

プラグマティズム型民主主義の陥穽
 また、プラグマティズム型民主主義が留意すべき点として「理念のもち方」を指摘できる。プラグマティズムでは、人間は誤りをおかす存在であるため、理念は日常の経験や習慣を通じて絶えず修正していくことが必要と考える。それはプラグマティズムが、理念と理念の対立の産物であった南北戦争(1861-1865年)への反省から出発したことと関係している。また、「一般意志」が歴史上たびたび独裁者に利用されてきたことも、理念を絶対視しないプラグマティズムへの期待につながっている。
 しかし、プラグマティズム型の実験には、現実に安易に流され、めざすべき方向感を見失うといった懸念が付きまとう。理念を絶対視しないことが理念の軽視につながってはならない。社会起業家による有意義な実験が、社会像の不明瞭さゆえに、結果として国や自治体の怠惰を補完してしまってはならない。将来を見通せない不安が社会の閉塞感にもつながっている今日の日本において、めざすべき社会像や方向感を共有することは重要であり、そのための国民的な議論が求められている。
 
 以上のように本書は、今日の民主主義が陥っている問題の所在がどこにあるのか、民主主義の再生に向けていま何が必要なのかを俯瞰できるものとなっている。政治への不安や不信が広がる中、一人ひとりが民主主義をみずからの問題として考えるうえで、本書は多くのヒントを与えてくれるだろう。

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