金子良事
『日本の賃金を歴史から考える』

旬報社
1500円+税
2013年11月

評者:末永太(連合経済政策局長)

 本書は、高齢化に伴う介護の問題など、労働者の生活にかかわる問題の範囲が拡大する中で、かつて最重要のテーマであったはずの賃金が議論の中心にのぼらなくなったことを残念に思う著者が、賃金の重要性を再認識するための答えを歴史のなかに求めるという一つの試みである。明治以来の歴史的背景にまでさかのぼって、賃金の多様な考え方について多数紹介し、その背景にある企業の経営思想や労働者の生活観にも踏み込みつつ、日本の雇用構造についても併せて論じている。賃金政策と賃金決定機構、生産管理や家計調査、賃金の在り方といった視点に至るまで本書が扱っているテーマは多岐にわたる。

 なかでも興味深かったのは、報酬には、「感謝報恩」と「受取権利」という二つの考え方があり、これらは今では、前者が「給与」、後者が「賃金」となり、英語では、それぞれ「salary」「wage」に対応するとか、身元保証人制度のルーツは江戸時代の期間奉公にあって、そこでは奉公人の衣食住を保証する一方で、貨幣的な報酬はもっぱら保証人に支払われていたこと、「社員」という名称の起源や「賞与」の系譜、「人事部」や科学的管理法の登場などについても記述している。「賃金の決定方式や基準、体系はその時代の社会背景や労使関係、人事労務管理と密接に関連して形成されてきた」と著者は語る。

 本書の構成は、「二つの賃金」「工場労働者によって形成される雇用社会」「第一次世界大戦と賃金制度を決める主要プレイヤーの登場」「日本的賃金の誕生」「基本給を中心とした賃金体系」「雇用類型と組織」「賃金政策と賃金決定機構」「社会生活のなかの賃金」の8章となっている。
 第一章、二章では、現代の雇用関係の二つの源流として、奉公人型の雇用関係と、職人型の雇用関係という2つの雇用関係の規範が融合されて明治期の工場労働者の雇用規範が生まれ、そのなかで賃金が形成されたとする。
 つづいて第三章、第四章では、企業内の複数の賃金支払い基準の総体を意味する「賃金体系」に焦点を当て、第一次世界大戦末期に工員の日給が月給化し、職員の月俸に日給的要素が加わるなどの工職身分一体化の過程が慎重に検討されている。
 第五章「基本給を中心とした賃金体系」では、1960年代に鉄鋼業で導入された職務給が、その後、現在のような職能資格給に変更された過程を、第六章「雇用類型と組織」では、濱口桂一郎氏のメンバーシップ型とジョブ型を対比する考え方を批判し、トレード型雇用とジョブ型雇用を対比した別の考え方を提案している。 
 第七章「賃金政策と賃金決定機構」では、1960年代後半に提唱された生産性基準原理と1975年以降の春闘への適用を「日本型所得政策の誕生と戦後賃金政策の終わり」と位置づけ春闘の転機とみなして記述している。第八章「社会生活のなかの賃金」では、3つの賃金格差について、[1]農工間格差、[2]企業規模間格差、[3]本工と臨時工の格差 についての考察を踏まえて、「社会問題にされなかったもう一つの賃金格差-男女別賃金格差」を明らかにするとともに、生活賃金のむつかしさなどいくつかの課題が列挙されている。

 賃上げだけを求めていた時代は終焉し、バブル崩壊以降、日本経済の低迷と長引くデフレの中で、賃金が議論の中心になることは少なくなり、その関心は薄まってきた印象がある。しかしながら今年がそうであるように賃金の重要性が減じているわけではない。
 著者の意図は、日本の賃金の歴史研究を通して現状の問題に対する実践的意識を高め、賃金についての議論を再び活性化させることにある。賃金を取り巻く周辺事項―例えば「被用者の従属制と生活の保障」「請負賃金と生活賃金」など、多様な切り口で検討を加えながら、もう一度賃金の歴史を学び直すことで、これからの労使関係や労務管理の在り方に新たな議論が生まれることを著者は期待する。

 最後のコラムで著者は、「賃金はしばしば思想をともなう」とし、「私は自分の正しさのみを追求するよりも、完全な正義は実現できないという前提に立って多様な考え方を数多く認識することが重要だと考える」と語っている。そして「現実に実現しようとするとき、しばしばあちらを立てればこちらが立たぬという不均衡な正義しか実現できない」それは「自分が正しいという結論は相手の否定に繋がり、人間関係を壊してしまう。しかし、その不完全さこそがチャンスである」とする。そして、「現実に折り合いをつけながら、よりよい答えをみつけていくそういう地図を一枚でも多く手に入れたい」という文章で締め括る。
 今日の日本経済の状況は厳しく、教科書的な処方箋で画一的に対応するのでは当然ジレンマに陥る。極端な二者択一的単純思考に基づく経済・金融政策は、国民のさらなる負担に跳ね返る危険性がある。そんな今だからこそ、改めて歴史を振り返りながら、じっくりと一つ一つの問題に向き合うことで最適解を探っていく必要があるだろう。
 ただ歴史の各段階において、賃金のあり方に重要な意味をもつ労働組合の立ち位置が明確ではないように思われる。この点は労働組合の関係者が自ら考えよ、ということなのであろうか。

戻る