東洋経済新報社
1600円+税
2013年11月
評者:麻生裕子(連合総研主任研究員)
著者の宇沢弘文は、1970年代に『自動車の社会的費用』(岩波新書)を発表し、社会的共通資本の概念を提唱した著名な経済学者である。著者は学問の世界をこえ、成田空港問題をはじめ、都市問題、地球温暖化問題といったテーマで幅広い社会活動も続けている。政権獲得前の民主党ではシンクタンク的役割をもったシンクネットの代表としても活躍した。
本書は、人間の心を大切にする経済学の基本的考え方を明らかにしている論攷、エッセイ、講演録、書評を収録したものである。そのなかでは、アメリカ、イギリス、日本での研究人生をつうじて、著者が出会った恩師、研究者の友人、書物などの興味深いエピソードがたくさん紹介されている。これらのエピソードをつうじて、経済学のあるべき姿、いいかえれば人間を幸せにすることこそ経済学の役割である、ということを追求しているのが本書である。
たとえば、"There is no wealth, but life."というジョン・ラスキンの言葉が、著者が生涯にわたって人間の心を大切にする経済学を追究する直接的なきっかけになったという。そして、第二次世界大戦やベトナム戦争は著者の研究人生にとって大きな転換点となった。とくに、ベトナム戦争によって心に大きな傷を抱え、一線を退いていく有能な研究者や学生がいた一方で、ベトナム戦争に加担する市場原理主義の著名な経済学者がいた、という皮肉なエピソードは印象に残る。
社会的共通資本とはなにか
上述した「人間の心を大切にする経済学」の中軸にあるのは、まさに著者が提唱する社会的共通資本の考え方にほかならない。社会的共通資本にかんする研究書は多々あるが、本書でも示されている基本概念はつぎのようなものである。
社会的共通資本は、一つの国あるいは特定の地域に住むすべての人びとが、豊かな経済生活を営み、すぐれた文化をうみだし、人間的に魅力ある社会を安定的かつ持続的に発展させることを可能にするような自然環境、社会的装置を意味している。その場合、すべての人びとの人間的尊厳を守り、市民の基本的権利を最大限に保障することが前提とされる。しかも、社会的共通資本は、私有あるいは私的管理が認められているような稀少資源であっても、社会全体の共通の財産として社会的な基準にしたがって管理、運営されなければならない。これは具体的に、大気、水、森林などの自然環境、道路、交通機関、上下水道などの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、金融などの制度資本の3つのカテゴリーから構成されている。
社会の根幹にあるリベラリズムの思想
ひとつの重要な論点としてあげられるのは、社会的共通資本をつうじて実現されるべき社会の根幹には、人間的尊厳や市民の基本的権利の遵守といったリベラリズムの思想があるという点である。それは、著者がアダム・スミスの『道徳感情論』を引用しているように、共感(シンパシー)という人間的感情を素直に、自由に表現できるような社会といいかえることもできる。
その一例として、本書のなかで著者はリベラルな教育の重要性を強調している。社会的共通資本のなかでもとりわけ教育のあり方については、著者は特別な思いがあるのだろう。敗戦後、アメリカ占領軍にたいして当時の文部大臣の安倍能成が「リベラルな教育は人類共通のものであって、一つの国特有のものではない」と主張した話や、リベラル・アーツ重視の東大改革を提案した丸山真男のエピソードなども登場する。
リベラル・アーツは本来、専門分野を問わず、自由かつ人間的な立場で真理を探究することによって、学生一人ひとりの人間的成長をはかるという重要な役割を担っている。しかし、最近の大学ではリベラル・アーツが軽視され、専門的、実務的な知識の習得に力点をおいたカリキュラムが編成されることが多い。これは大学が専門学校化しているといっても過言ではない。これに関係するかのように、学生の質の低下もまた問題視されるようになっている。著者は国や学校経営者の責任を追及するが、大学教員の質の低下にもその原因はあるのではないかという疑念が残る。
社会的共通資本をいかに管理・運営するか
もうひとつの論点は、こうした社会的共通資本は社会的基準によって管理、運営されるという点である。本書において、著者は国家権力や官僚による社会的共通資本の管理、運営への批判をくりかえす。それならば、その主体は誰になるのかという点については明確に示されていないが、その根底にはリベラリズムの思想があることはまちがいない。
この場合のリベラルには2つの意味があると考えられる。ひとつは、社会的共通資本の運営管理のしくみをつくりあげ、実際に運用するプロセスにおいて、すべての人びとがなんらかのかたちで参加することが保障されているということである。もうひとつは、その前提として、社会的共通資本のしくみをつくり、動かしていくすべての人びとがリベラルな教育を享受しているということである。
いまや忘れられつつある民主党は、政治主導の意味をはき違え、こうした真の意味でのリベラリズムを貫く政官民関係を構築できなかったことが、政権失敗のひとつの要因になったともいえよう。民主党政権時代は、社会的共通資本を改善し、充実させる絶好の機会であったはずである。本書に収録された論攷等は民主党政権時代よりも前に執筆されたものが多く、直接には民主党政権にはふれていないが、民主党のシンクタンクにも深くかかわってきた著者の忸怩たる思いが伝わってくるようでもある。
エッセイや講演などの収録という本書の性格から、重複などもあり、体系的なものとはいえないが、宇沢経済学の根底を読みやすく提供したということで、ぜひ一読をすすめたい。
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