ジェフリー・サックス著
『世界を救う処方箋』

早川書房
定価2300円+税
2012年5月

評者:山根正幸(連合総研主任研究員)


 著者は、途上国の経済開発や貧困根絶の取り組みで世界に影響を与えているマクロ経済学者の一人である。「貧困の終焉」などの著作でも知られる著者は、マクロ経済学者の仕事は臨床医と似ていると述べる。患者の症状の根底にある問題を診断して適切な治療計画を立なければならない臨床医と同様に、マクロ経済学者は、経済危機という症状に対し、経済面だけにとらわれた対処療法ではなく、その背景にある社会の様々な問題を明らかにし、その根治に取り組まなければならないというのである。その立場で著者はこれまで、旧東欧、ラテンアメリカ、アフリカ諸国の経済改革に取り組み、国連をはじめとする国際機関のアドバイザーや、国連ミレニアム・プロジェクトのディレクターなどを歴任。現在はコロンビア大学地球研究所長であり、国連事務総長の特別顧問なども務めている。その著者が今回、本書で扱う「患者」は、著者の母国アメリカである。

本書は2部構成であり、前半の第1部(8章まで)では、現在のアメリカが抱える危機とその背景を、経済、政治、社会、そして国民心理の4つの側面から分析する。第二部(9章以降)では、分析を踏まえて必要な政策を提示する。

経済面の危機について著者は、1970年代以降続いてきた一連の新自由主義的な経済政策は、経済成長や雇用の回復に失敗し、所得格差の拡大、労働基準の弱体化、環境への悪影響などをもたらしたと指摘。2000年代以降も、本格的な産業競争力低下対策に着手しないまま住宅バブルに依存し、それがリーマンショックを引き起こすと、今度は金融緩和や、本来競争力回復に必要な教育、科学技術などの予算を削減したと批判している。著者が繰り返し主張するのは、今の経済に欠けているのは市場と政府の適切なバランスであること、そして政府と民間の相互補完的な役割分担を通じて、経済の効率性、公平性、持続性を達成することの必要性である。

社会面の危機について、著者は社会の「分裂」過程について分析を展開していく。公民権運動に対する白人中間層や保守派による政治的巻き返し、サンベルト地域(著者の整理ではフロリダ、テキサス、カリフォルニアなど南部14州)の経済成長・人口移動を背景とした宗教的保守派の発言力拡大と(労働組合の強い)北部の影響力低下、ヒスパニック系移民の増加、そして経済成長と移民流入を契機とした白人富裕層の郊外移転と貧困層の都市部集中によって、地域の分裂、すなわち共和党支持者は郊外、民主党支持者は都心部という政党支持の固定化が起きたことなどを挙げる。
一方で著者は、いくつかの世論調査データをもとに、多くの国民が機会の平等と貧困に対する政府の支援、富裕層の応分の税負担を求めていると指摘。分裂以上に結束させる要素は依然としてあると述べている。

政治面の危機については、大企業の選挙活動などによって、労働者から企業に力の均衡がシフトしたと指摘する。また、大企業の資金を背景にした世論誘導によって、二大政党が貧困問題を軽視するようになったとも指摘する。この中で著者は、政治制度も背景の一つであると指摘する。たとえば、連邦議会に解散制度がないことが政党内の結束を弱め、地方選出議員による利益誘導が起きやすいとする。小選挙区と二大政党制も、政党を中間層無党派の獲得に走らせ、貧困層の問題が二の次になるという。さらに、国政選挙サイクルの短さが政治資金力のある大企業を利しているとも指摘する。

国民心理の危機について著者は、経済成長によって基礎的ニーズが充足されたことで、消費の中身が個人の欲望を満たすものへと移行したこと、そうした欲望や集団心理がマスメディアとコマーシャリゼーションによって巧みに操作され、政府もメディアの規制緩和でそれを後押したことを指摘する。これによって、消費と労働における際限ない競争が惹起され、家庭やコミュニティにおける個人の孤立化、不安を招き、大衆の基礎知識を欠如させ、貧困への無関心につながっていると指摘する。
議論の中で興味を引くのが、著者が考案したコマーシャリゼーション指数である。この指数によってOECD各国を比較した結果として、コマーシャリゼーションが進んだ経済ほど貧困率が高いこと、テレビの視聴時間と社会に対する信頼度にも相関関係があることを指摘する。

以上のような分析を踏まえ、第2部では、めざすべき経済社会の姿と、そのための提案が示される。
まず著者は、めざすべき経済社会の姿として「共感によって成り立つ」社会を提示する(9章)。これは、他者との関係性の構築や、自分の欲望だけでなく社会が必要とするものにも共感を持てる社会であり、GDPの成長だけではなく、労働と余暇、貯金と消費、利己心と他人への思いやり、個人主義と市民主義のバランスがとれる社会であると説く。そして著者は、アリストテレスの中庸やブッダの八正道を引き合いに、「八つの共感」とその実践方法について提示する。この中では、たとえば「仕事への共感」について、労働環境の改善、労働者のスキル向上支援のため、ワークライフバランス実現に向けた企業における労働者代表の意見反映、政府による公的な職業訓練支援が必要であるとしている。
続いて、雇用、環境、財政、政治などに関する2020年までの具体的な政策目標が掲げられる(10章)。たとえば、失業率の5%への引き下げ、100人以上企業での有給による出産・育児休暇の取得、貧困率の2010年比半減、温室ガス排出削減と低炭素エネルギーの増加、赤字予算の解消、ヘルスケア予算の安定化、公的な選挙資金の提供、などである。
著者はまた、積極的労働市場政策の導入を主張するとともに、長期的視点に立った能力開発、時短によるワークシェアリング、幼児教育や高等教育への資金投入を訴える。この中で著者は、教育問題を巡って教師や教員組合を責める風潮に対して、それは簡単で安上がりだが本質的ではないと指摘。都市部の貧困集中への対策こそが必要であると述べている(同時に、組合にも教育刷新への参画と役割発揮を求めている)。
その上で、政策目標を達成するための予算・財政について提案する(11章)。早期の幼児教育、職業能力開発、学校教育、インフラ整備への予算確保の必要性と規模を指摘し、連邦政府としての税収確保(増税)が必要であるとして、富裕層の資産、所得、法人課税の強化、付加価値税やガソリン税、金融取引税の導入を提唱している。

これらの改革は大がかりなものであるが、誰がそれに取り組むのか。13章では、それについての著者の考えが述べられている。著者は、第三極の台頭を待望するが、それはティーパーティー運動ではない。著者が期待するのは「ミレニアム世代(2010年代に18~29歳だった若者)」である。ミレニアム世代は、人種的な多様性、寛容さを併せ持ち、政府により大きな役割を負わせることに理解を示す世代であるとして、著者は期待を寄せる。

以上のように、本書は、アメリカが抱える諸問題を多角度から捉え、その対策を長期的視点から提起しており、概ね共感できる。ただもう少し深掘りした議論が求められる点もあるように感じる。たとえば、労働者のスキル向上とそれに見合った雇用が必要という場合その雇用をどこに見出すのか。グリーン産業は本当に期待できるのか。オバマ政権のグリーンニューディールについては雇用増の限界を指摘する向きもあるだけに気になる。サービス業における低賃金改善の方法論も課題である。

ところで、本書の原題は「The Price of Civilization」、直訳すれば「文明の対価」である。日本版との違いを感じるが、これは、著者のアイデアは日本でも応用されるべきとの訳者のメッセージと受け止めるべきか。本書を読み進めるうちに、長期の経済停滞と財政赤字の拡大、グローバル競争にさらされる製造業、経済のサービス化、非正規雇用と低所得層の増加、長時間労働、労働組合組織率の低下、既成政党や行政への不信や「第三極」の動向など、日本との類似点を感じるところは多い。しかし、近視眼的な思考で世論の表層をなでたり、叩きやすいところを叩いて溜飲を下げたりすることまで真似たくはないものだ。真の社会のニーズを把握し、冷静な議論にもとづく政策の共有と実践こそ政治に求められている。そのことを確認する上で本書は有益だろう。


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