水町勇一郎
『労働法入門』

岩波書店
2011年9月
定価800円+税

評者:末永 太(連合労働条件局長)


 「労働法」は、働くことについてのルールについて、人びとの労働に対する意識や考え方を反映しながら形作られている。本書は、「大学で労働法を勉強したわけではない一般の市民」に向けて、日本の労働法の特徴や今後の課題について論理を一貫させて説き明かしたものである。
著者は、労働に対する価値観が、各国の労働法の違いとなって表れるという考えのもと、旧約聖書における労働の意味、すなわち「労働」は「アダムとイブに神が与えた罰である」ということからはじめている。第1章においては、労働法の歴史とフランスやドイツにおいて、いかにキリスト教が大きな影響を与えているかがはっきりと理解できる記述になっている。
第2章では「労働」の原義に始まり、「法はどうして必要なのか?」を切り口に、「権利・義務」の体系に着目しながら、「法律」・「労働協約」・「就業規則」・「労働契約」についての詳細な解説を加え、第3章では、「雇用関係の展開と法」について主として解雇法制について記述している。
解雇についてしばしば、経済学者やマスコミの間で、日本の解雇規制、とくに整理解雇四要件は極めて厳格であり、「解雇をほとんど不可能にしている」とされる。しかし実際の裁判例を見てみると、日本の整理解雇法理は、それほど厳格で硬直的なものではなく、整理解雇の四要件をそのまま全て当てはめたものはむしろ少数であり、個々の状況に応じてある程度柔軟に判断されている。にもかかわらず、判例法理等がきちんと認識されておらず、よく実態以上に厳格なものだと間違われたり、悪質な場合は、解雇規制緩和を喧伝する論者に酷く誇張されたりする。著者は、そういった、大学などで学ぶ「労働法」と実際に企業に入って味わう「現場」のギャップこそが、日本の労働法の最大の問題であるかもしれないとする。
日本人は会社に勤めている自身のことを「労働者」「被用者」と呼ばずに「会社員」と呼ぶ。これは、日本においては「就職」ではなく「就社」であることを意味するものであり、そしてそのことが労働契約の解釈においても信義則にもとづく人間関係・信頼関係重視につながっている。著者は、採用において企業側に裁量の余地があることも、解雇要件の非常に厳しいものとの表裏一体のものとして捉えられるとする。
第4章、5章では、労働者の人権と法について雇用差別の禁止と労働者の人権保障の意味について、また、賃金、労働時間、健康はどのようにして守られているのかといった、労働条件の内容と法について、第6章では、労働組合はなぜ必要なのかといった労使関係をめぐる法について、第7章では労働市場をめぐる法と課題について、それぞれ個々の制度の解説ではなく、制度の歴史といった大きな流れについて記述している。
第8章の『「労働者」「使用者」とは誰か』では、労働関係が多様化・複雑化するなかで、「労働者」性と「使用者」性について最近判決が出された、「新国立劇場運営財団事件」等を例にだしながら、「労働基準法上の労働者」と「労働組合法上の労働者」の区別、「労働契約上の労働時間」と「労働基準法上の労働時間」、労働協約と就業規則の違い、職業安定法上の労働者供給事業の制限と労働者派遣法の関係について明確に、わかりやすく記述している。
注目したいのは、最後の第10章の「労働法はどこにいく」である。著者は90年代の労働法のキーワードであった「柔軟性」から、現在、世界の労働法学界では当該労使がその限界や弊害も考慮しながら、法の中に取り込んでいく「内省」に注目が集まっている、としている。日本の労働法は、他の先進国の労働法に比べて、当事者間の長期的な信頼関係を重視するという特徴があり、その結果、日本企業の国際的競争力を支えてきたが、メンバーシップを持たない者を差別し、組織の論理を重視するあまり、個人が組織のなかに埋没するという問題もあった。そのことを踏まえ、著者は、現在、日本の労働法の方向性として2つの方向に向けた改革が行われているとしている。
具体的には、「集団としての労働者」から「個人としての労働者」に転換しつつある状況のなかで、労働法も「個人としての労働者」の取引行為(労働契約)をサポートする市場経済のサブシステムにシフトしていくべきとする考え方がある。これは菅野教授が主として主張している考え方だが、この方向で進められた改革が、労働契約法によるルールの明確化,個別労働紛争解決促進法と労働審判法の制定である。 
一方で、西谷教授のように「従属的労働者」の自己決定を現実に保障するために、国家による法規制が不可欠であるというものもある。最低賃金の引き上げや割増賃金を引き上げて過重労働に一定の対応をするなどの動きがそれである。
グローバル化の進展によって、人間の基本的な価値が侵害される事態が深刻化しているとすれば、「国家」の介入によって必要な措置を講じる必要性は高まっているといってよい。また、一方で、国家が画一的にルールを定めて強制するのではなく、多様な状況に置かれている「個人」の選択を重視する必要性も高まっている。しかし、「国家」は急速な変化に対応する能力の面で限界があり、「個人」もまた社会的不平等などの弊害をもたらすという点で問題がある。
著者は、この両者の間で、両者を補うものとして「集団」の視点が重要であるとする。そのため、労働組合や労働者代表組織など「従来の集団的な労使関係」に「透明性と開放性」を取り入れ、また、法律によって集団的制度を創りだしていくことによって、国家と個人の間に立ち「両者の能力を補う集団的な基盤」を作り上げていくことが重要な課題となると述べている。
しかしながら、本書には、同時期にだされた濱口桂一郎氏の『日本の雇用と労働法』と比べ、立法政策的な提言がほとんど含まれていない。問題の指摘はところどころ行われているものの、それに対する著者の踏み込んだ記述は殆んどみられず、バランスに配慮しすぎで現実感に欠けた微温的なものになってはしないかという感じが拭い去れない。
また、「労働組合」の積極的役割についての具体的な言及が少ないことも不満である。著者は「ある時期以降の日本で集団的労使関係法制をフルに活用してきたのは、日本的雇用システムの周縁や外部にある人々」だったとし、また、前段部分においても、「労働者が労働組合という組織を作り、この労働組合と会社との間で団交や労使協議と呼ばれる話し合いが行われ、取り決めがなされることがある」とするなど、労働組合の現状には批判的な印象が窺える。たしかに、この間、企業内のことしか対応してこなかった労働組合の問題点はあらためて反省する必要があるが、だからといって従業員代表制度とは決定的に異なることは強調されるべきであろう。
とは言え、労働法の意義、全体のスケッチ、日本的な特質、そしてその中にある課題と将来向かうべき方向の提起など、労働法についてこれほど分かりやすく書かれた書物はほかに見当たらない。時宜を得た著作であり、是非、一読をすすめたい。


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