明石書店
定価3,800円+税
2011年11月
評者: 鈴木祥司(生保労連局長)
<著者について>
センは1998年にノーベル経済学賞を受賞している世界的にも著名な経済学者・哲学者であり、日本でも『不平等の再検討』(岩波書店、1999年)など、少なくない読者を獲得している。センはインド生まれで、9歳のときに200万人を超える餓死者を出したベンガル大飢饉(1943年)に遭遇している。不平等や貧困問題にかんする数多くの研究には、セン自身のこうした生い立ちが大きく影響している。
<本書の概要>
本書は、公共政策の選択に決定的な意味をもつ「正義」を検討するものであるが、完全な意味での正義を求める、いわゆる「正義論」とは一線を画している。大切なのは、現実として目の前にある不正義を取り除き一歩ずつでも正義に近づくこと、たとえば飢えに苦しむ人を少しでも減少させる過程にあるとし、その問題意識は本書全体をつうじて貫かれている。
ロールズの正義論の限界
本書の向こう側にあるのは、現代の最も重要な政治哲学者 ジョン・ロールズの正義論である。本書ではロールズの正義論、とりわけ正義の重要な構成概念である「不偏性」について根源的な批判が展開されている。
第一に、ロールズが不偏性確保のために想定する、「無知のベール」という想像上の原初状態についてである。しがらみのまったくない状態であれば全員一致で一つの正義が選択されるというものであるが、これに対してセンは非現実的であるとする。人間はもともと多様な存在であり、必ずしも一つの正義で合意できるわけではないという理由からである。
第二に、ロールズは社会の構成員が全員一致で選択する社会契約を追求するが、構成員以外の人々は排除している(その意味で偏狭的である)ことをセンは問題視する。ある社会の決定や特有の伝統は、その社会の内部では当たり前であっても、必ずしも他で通用するわけではないからである。
これら2つの点で、完全な正義の世界をつくり上げるのは、政策的な実践の世界では大きな無理があるというのがセンの主張である。
正義をどう「実現」するか
それでは、少しでも不偏性を確保し正義に近づくにはどうしたらよいか。第一の論点に対してセンは、意見が異なる人々の存在を認め、その多様性を尊重したうえで、合意形成に向けた討議を積み重ねることが重要であると指摘する。これにより、[1]全体として合意には至らなくても、合意できるところから改善できる、[2]競合する原理を抹殺せず、多様性を活かすことができる、[3]再検討を容認できる、などの利点があるとしている。
第二の論点に対しては、アダム・スミスの「公平な観察者」という概念に注目する。アダム・スミスは人々の利己心を強調した『国富論』の著者として名高いが、一方で、他人の利益や幸福を重んじる利他的行為を重視していたことも見逃してはならず、「公平な観察者」は後者の考え方にもとづいている(ちなみに、人々の利己的側面にのみ着目し、それを経済運営の基礎とする人たちを、センは「合理的な愚か者」と呼んでいる)。その意図するところは「公平で不偏的な観察者ならそうするだろうと思われる方法で自分自身の行動を吟味せよ」ということであり、こうした他者への共感により偏狭性を克服できるとする。たとえば、女性が因習として従属的な立場に置かれている社会では、一見それが当たり前のように見えるが、社会の外の視点を取り入れることで、その間違いを確かめることができるというものである。
ケイパビリティとは何か
ロールズはまた、収入や富、権利など、人々が生きていくうえで不可欠なものを「基本財」と呼び、それらが平等に配分されているかを、正義のあり方を考える際に重視した。これに対してセンは、基本財はあくまでも手段に過ぎず、それを用いて「実際に何ができるのか」、すなわち「ケイパビリティ」に注目すべきであると主張する。ケイパビリティという言葉は一般的には「潜在能力」と訳されるが、それだけではいい尽くせない多様な概念を含んでいる。たとえば、所得が十分にあっても、それを自分の納得のいくかたちで使えていないのであれば、経済的には豊かかもしれないが、ケイパビリティが発揮されている状態とはいえない。すなわち、何が正義か、何が幸福か、何が豊かかを考えるうえで、たんに所得の多寡や福祉の水準だけでなく、「自分の暮らしのあり方を自分で決定できる自由が確保されているか」ということを重視するのである。
これに加えてケイパビリティは、「最終的に何ができたのか」だけでなく、選択の過程も重視する。断食を例に挙げれば、政治的・宗教的理由から断食をしている人は、生活に困窮している人と同じように食糧を欠いた状態にあるが、前者には断食をやめるという選択肢があり、両者の間には選択の過程において決定的な違いがあるからである。
民主主義のあり方
センは「民主的自由は、社会的正義と、より良く、より公正な政治を促進するために用いることができる」として、正義を進展させるうえでの民主主義の果たす役割に大きな信頼を寄せている。この場合の民主主義とは、選挙や多数決のことだけではない。むしろセンは、民主主義の本質は公共的な討議にあることを強調しており、組織的な運動にはこうした公共的な討議を促進する役割があることにも言及している。
<働く者の正義を実現するために>
労働組合はかつて正義を体現する存在であった。しかし、働く者の期待に目に見えるかたちで応え得る時代は、高度成長の終焉で陰りが見えはじめ、バブル崩壊で終わりを告げた。その後は、何が正義なのかわからない混迷の時代に入り、労働組合も明確なかたちで運動の基軸を打ち立てることができなくなっていった。時代が悪いといってしまえばそれまでかもしれない。しかし、労働組合自身、どんなときでも働く者の期待に応えるべく、その声に真摯に耳を傾け、一歩でも正義に近づくための合意形成に努めてきたのかといえば、反省しなければならない点も多いのではないか。
センの思想・哲学は、そんな私たちに、労働組合とは本来、職場の仲間一人ひとりに寄り添い、少しずつでも目の前にある不正義を取り除き公正な職場や社会を実現する担い手であることを思い起こさせてくれる。大著で難解な部分もあるし、過程が大切とはいえ向かうべき方向が明示されなくてよいのかといった疑問も残る。しかし、何か行動を起こさねばと気持ちを奮い立たせてくれる本であり、一読、いや何度でもの読み直しに値することは間違いない。
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