菊池 馨実
『社会保障法制の将来構想』

有斐閣
定価6,500円+税
2010年12月

評者: 麻生裕子(連合総研主任研究員)


 本書は、今まさに喫緊の課題である社会保障制度のグランドデザインをいかに描くかというテーマを法学の立場から検討している学術書である。総論的議論にはじまり、短時間就労者の社会保険適用、公的年金、企業年金、医療保障、育児支援、生活保護、ホームレス自立支援などの各論まで幅広く構成されている。
法学研究者である著者は、社会保障法の分野において、むろん法解釈論が果たす役割も大きいが、規範的視座から政策論を構築することにも重要な意義があると説く。すなわち、規範的視座を軸にして、持続可能な社会保障制度を戦略的に提示することが重要であるとする。提示すべきグランドデザインは、年金、医療、介護などの狭い意味での社会保障の範囲にとどまらず、個人の生活保障という視点から、とりわけ雇用、税制、教育、住宅施策等との関連も重視する必要があると著者は述べる。
持続可能な社会保障制度を設計するうえでのひとつの大きな論点は、社会保障の規範的根拠を従来の通説のように憲法25条におくか、あるいは著者が主張するように憲法13条におくかという点にある。従来、社会保障法学では、社会保障の目的を社会的事故に対する「生活保障」としてとらえ、その規範的基礎を憲法25条の生存権に求めてきた。しかし著者は、国家から個人への一方的な給付関係、いわば受動的な「保護されるべき客体」として個人をとらえるのではなく、主体的な位置づけを意識する必要があり、さらには個人の主体的な生き方をサポートするというプロセス的な視点も必要であるという理由から、通説に異議を唱える。著者は、社会保障の目的を従来のとらえ方にとどまらず、「個人の自律の支援」、すなわち「個人が人格的に自律した存在として主体的に自らの生き方を追求していくことを可能にするための条件整備」ととらえている。さらに、著者は「個人が人格的に自律した存在として主体的に自らの生き方を追求できること」を「個人的自由」とよんでおり、これこそが社会保障法の規範理念であるという。
この場合、つぎの3つの規範的価値が尊重されるべきであるとする。第一に「『個人』基底性」、第二に「『自律』指向性」であり、いずれも憲法13条の「個人の尊重」「幸福追求権」によって保障されている。そして第三に「実質的機会平等」、いいかえれば「生き方の選択の幅の平等」である。憲法25条において基礎的な生活保障が規定されているが、そのような形式的な財の配分の平等だけでは不十分であり、個人が財を機能に変換する能力を考慮した実質的配分が重要であると著者は主張する。具体例をあげると、精神的自律能力が不十分あるいは欠如している個人へのサポート、失業者等への就労支援などがある。この3つの規範的価値を総合すると、社会保障の法関係の中心に個人をすえ、「個人が人格的に自律した存在として主体的に自らの生き方を追求」できるように支援する、ということである。
きわめて興味深いのは、こうした憲法13条を基軸にした社会保障のとらえ方に対する学界での批判とそれに対する著者の反論である。いくつか例にあげると、ひとつは、「個人的自由」を追求する政策論を展開した場合、著者自身も批判している新古典派経済理論に依拠した改革案と一致してしまうのではないか、という批判である。これに対して、著者は、社会保障法の人間像は他者とのかかわり、関係性をみすえたものであり、自己利益のみを追求するような存在としては想定しない、と反論する。
もうひとつは、第三の規範的価値である「実質的機会平等」と深く関連するが、潜在的能力の顕在化や発達を求めること自体が、当事者に多大な負担を課すことにならないか、かりにその能力が顕在化しない場合は、権利保障からの排除につながり、「怠け者には保護はやらない」という論理と同じ結果になるのではないか、という批判である。いわばワークフェアに対する批判ともいえるだろう。これに対しては、著者は、完全な自律能力をもつ人間を社会保障の基礎にすえているわけではなく、これを権利享受の前提条件としているわけでもないと反論し、むしろ「自律に向けた潜在能力の不十分さをサポートするシステムの確保が、規範的見地から積極的かつ強力に求められる」と強調する。憲法論との関係でいえば、27条の「勤労の義務と権利」とのかかわりといえるだろう。ただし、著者は社会保障の規範的基礎に憲法27条を明確に位置づけてはいない。
さらに、著者はベーシックインカムの構想は支持できないという立場を明確にしている。所得保障給付を求職活動や職業訓練などの一定の就労プログラムと関連付けることを否定的に評価すべきではないとし、かりにベーシックインカムを導入する場合、純粋な意味での現金給付にとどまり、ケースワークやソーシャルワーク的なかかわりと切り離されると、個人の孤立化を助長し、個人の自律性や主体性に過度の負担を課すことになるのではないかという懸念をあらわす。
最後に、今後の社会保障法制の具体的方向性として、著者は、世代間所得移転のあり方および「障害」への政策的対応が鍵となると論じる。前者については、社会連帯を規範的にどこまで求めるかという課題とも連動する。高齢者医療確保法にもみられるように、高齢者を一方的な保護されるべき客体として扱っていることになるので、高齢者を別建ての制度にすることには異論を唱える。高齢者も負担能力に応じて「支え手」として位置づけるべきであり、基本的な保険料や自己負担割合は同一にすべきとする。後者については、障害者差別禁止法制を本格的に導入すべきであると主張する。それによって社会保障の規範原理である「自律」や「実質的機会平等」の実現を助けるものになりうるとする。
本書において狭義の社会保障の範囲を超えて、就労との結びつきを強く意識し、自律に向けた個人へのサポートシステムを充実・強化することに重点をおいていることは高く評価できる。政府の「社会保障・税一体改革」では、消費税論議ばかりが先行しているように思われるが、持続可能な社会保障制度を設計するうえで最初に必要なのは、こうした理念や規範原理の議論ではないだろうか。この点で本書は現在の社会保障論議に参考とすべき好書である。ただし、あまりに憲法13条における個人の幸福追求や機会の平等のみに走って、社会的な連関をもつ人間であること、ナショナル・ミニマムや再分配機能の側面を忘れると、著者自身が自戒している新古典派的世界に陥るリスクがあるということにも留意しなければならないと思う。


戻る