下山事件
定員法による国鉄の解雇の責任者であった下山定則総裁は、国労との団体交渉のさなかの1949(昭・24)年7月5日に行方不明となり、6日に常磐線綾瀬付近の線路上で礫死体となって発見された。政府や新聞の多くは共産党員を犯人とにおわせる他殺説をとり、解雇反対闘争のゆくえにも大きな影響をあたえた。死因についても法医学の鑑定では、自殺説と他殺説(死後礫断)とにわかれ、捜査当局はどちらかといえば自殺説にかたむいたとされる。このほかに作家の松本清張によるアメリカ軍謀略説もあり、今日にいたるまで結論はだされていない。
三鷹事件
1949(昭・24)年7月15日夜、国電(現在のJR)中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、死者6名、負傷者20名がでた。政府はこの事件を共産党がひきおこした暴力事件のひとつと言明し、検察当局は国労三鷹分会の幹部である飯田七三ら10人を電車転覆致死罪などの容疑で逮捕、起訴した。東京地裁の一審判決は、共同謀議を「空中楼閣」と断定し、竹内景助被告の単独犯行説をとった。その竹内は、二審以降、無罪の主張をつづけたが、最高裁で死刑の判決をうけたのち、再審をうったえつつ獄中で死去した。この事件についても全容が明らかになっているとはいえない。
松川事件
1949(昭・24)年9月17日、国鉄(現在のJR)東北本線松川・金谷間で列車が転覆し、機関士など3人が死亡した。転覆の原因はレールの継ぎ目板を外し、犬釘を抜くなど人為的な工作の結果であった。政府は共産党員が計画した事件であると発表し、国労福島支部と東芝松川工場労組の幹部らを逮捕、起訴した。これにかかわる裁判では、一、二審で被告有罪となったが、最高裁で事実誤認が指摘されて差し戻しとなり、差し戻し審の結果全員無罪となった。真犯人についてはCIAの謀略説もあり、不明のままとなっている。