『私の提言』

学生特別賞

すべての若者に公平なスタートラインを

村松 優

働くことを軸にした安心社会。その理想像は、誰もが一度は夢見るものだと私は思います。雇用が安定していて、労働環境が整っていて、生活に困ることがなく、そして何より、未来に対しても明るい展望を描ける。そんな社会がもし実現したならば、どれだけ多くの人が日々の暮らしに前向きな気持ちを持てることでしょうか。朝の光の中、まだまぶたの重さが残るなかでも、少し目をこすりながら、「よし、今日もがんばろう」と自然に思える。そんな日常の連なりこそが、人生の土台になり、生きていくための力につながっていくと、私はそう信じています。朝起きて、パンを焼き、コーヒーを淹れながらテレビをつける。今日は天気が良さそうだ。そう思えるだけでも、心は少し軽くなる。駅までの道を歩きながら、空を見上げる。青空の広がる空を見て、「今日はいいことがあるかも」と小さく笑う。そんなふうに、自分の日常の中に安心感を見出せる社会。そのための「働くこと」であってほしいと、私は心から思うのです。けれど、現実はどうか。もし誰かに「今の社会は、あなたにとって理想的ですか?」と聞かれたら、私は胸を張って「はい、理想通りです」とは答えられません。いや、きっと多くの人が同じように思うのではないでしょうか。どこかでモヤモヤを抱え、どこかで不安を抱え、見えない将来に怯える。そんな感情を胸の奥にしまいながら、私たちは働いています。広がる格差。とまらない将来への不安。押し寄せる情報、止まらないストレス。そして、誰にも相談できない孤独感。働くことが、生きる糧ではなく、重荷になってしまっている現実があります。本来であれば、働くことは人間の尊厳を守る営みであり、社会とつながるための大切な手段であったはずです。ところが今、その「働くこと」が、かえって人の心を壊し、体をすり減らす要因になってしまっている。これでは、本末転倒です。私は、そこに深い矛盾を感じてなりません。ブラック企業という言葉が日常語のように使われる時代になりました。過労死という痛ましい出来事も、決して特別な事件ではなくなっている。それどころか、「働いているのだから、これくらい我慢しなくちゃいけない」「若いんだから、耐えるのが当たり前」そんな風潮がいまだに残っていることにも、大きな問題があると感じます。ニュースを見れば、連日のように働く現場で起きるトラブルが取り上げられています。パワーハラスメント、長時間労働、低賃金、雇用の不安定さ。そうした問題に直面している人たちは、実は決して一部の人間だけではありません。どこかで自分のこととして受け止めざるを得ない。そういう社会に、私たちは生きているのだと思います。だからこそ、私は考えます。「働くことを軸とした安心社会」を、どうすれば本当の意味で築くことができるのか。そのために、誰が、どんな役割を果たすべきなのか。とくに、労働組合や連合といった組織が、今の時代において果たすべき責任とは何か。私自身、大学で学びながら、就職活動という人生の大きな節目に立たされている一人として、真剣に向き合いたいテーマだと感じています。

特に私が注目したいのは、「働く前」にいる若者たちの存在です。つまり、まだ社会人ではないけれど、その入口に立っている人たち。大学生、専門学校生、あるいは就職活動中の若者たち。なぜその存在に注目するのかと問われたら、それは私自身がまさにその立場にいるからです。今、私は大学生として、就職活動の真っ只中にいます。そして、学生でありながら、社会との接点を持つために、長期インターンにも参加してきました。自分が将来どんな仕事に就きたいのか、どんな働き方をしたいのか、何を大切にしたいのか。それを考えるためには、やはり「実際に働いてみること」が一番の近道だと感じたからです。そして大学1生の春休みに私は初めて長期インターンに挑戦する決意をしました。正直に言えば、業界のことも仕事内容も、まったく分かっていなかった。企業の名前だけで選び、「とにかく経験がしたい」という気持ちだけで、エントリーしました。そして運良く採用され、飛び込み営業という非常に厳しい現場に配属されたのです。その初日。今でも鮮明に覚えています。見知らぬ住宅街を歩き、インターホンの前で立ち尽くす自分。知らない家のチャイムを押し、見ず知らずの相手に、突然サービスの説明をする。言葉が詰まり、声が震え、手が汗ばみ、どうしても緊張が抜けない。相手の表情が硬く、冷たくあしらわれた瞬間、心がズキンと痛む。「自分は、いったい何をしているのだろう」そう思った瞬間が、何度もありました。逃げ出したくて、何度も心が折れそうになりました。アルバイトとはまったく違う世界。学生であることが通用しない、厳しいビジネスの現場。求められるのは、成果。甘えは通用しない世界に、私は戸惑いました。それでも、私がそのインターンをやめなかったのは、「この経験がきっと、自分を変えてくれる」と、どこかで信じていたからだと思います。もちろん、そう簡単なことではありませんでした。現場には常に数字が付きまとい、成果を出すことが求められました。結果がすべて。どれだけ努力しても、結果が伴わなければ意味がないと言われる世界。プレッシャーの中で、私は自分の価値を見失いそうになることもありました。他のインターン生の成績が良ければ、自分と比較して落ち込む。社員と同じような役割を求められ、未熟な自分を責めたこともありました。けれど、その一方で、仲間からの励ましや、ふとした会話、お客様の「ありがとう」という言葉に救われた瞬間も、数えきれないほどありました。業務に慣れていくうちに気づけば、私は少しずつ変わっていました。話し方が変わった。表情も変わった。そしてなにより、自分に対する見方が変わったのです。できない自分を責めるのではなく、「できるようになりたい」と願うようになった。ミスを恐れるのではなく、「次こそは」と思えるようになった。これは、机の上の勉強では決して得られなかった感覚だと、私は思います。

インターンを通して感じたのは、社会の厳しさだけではありません。「働くとはどういうことなのか」という問いの重みです。私たちは、学生の間、どうしても「働く」という行為を遠いもののように感じてしまいがちです。でも、実際に現場に出て、社会の一員として扱われる中で、その距離が一気に縮まりました。「ああ、社会ってこういうものなんだ」と肌で感じる。それが、私にとって何よりの学びでした。近年では、インターンという言葉自体が特別なものではなくなり、就職活動の一環として「やっておくべきこと」のように扱われています。「インターン経験はありますか?」「ガクチカには何を書きますか?」そういった質問が当たり前のように飛び交う時代。もはや「やったかどうか」ではなく、「どんな経験をしたか」「何を学んだか」が問われているのです。

企業側も、インターンを通じて学生の資質や適性を見極めようとしています。いわば、選考の一部として組み込まれているわけです。それだけに、インターンは学生にとっても、避けては通れない重要なプロセスになっています。しかし、ここに大きな落とし穴があることを、私は自分自身の経験を通じて痛感しています。

すべての学生が、等しくインターンに参加できるわけではないということ。そこに、まず最初の大きな壁があるのです。たとえば、情報格差。大学によって、インターン情報の豊富さや、紹介制度の整備状況は大きく異なります。キャリアセンターが手厚いところもあれば、ほとんど支援がないという大学もあります。結果として、どこに、どういう企業が、どんな募集をしているのか、まったくわからないまま過ごしてしまう学生も多いのです。また、経済的な格差も見逃せません。有給インターンであればともかく、無給のインターンに参加するには、時間とお金に余裕が必要です。交通費、食費、場合によっては宿泊費。遠方の企業でのインターンに参加したくても、それらを自己負担でまかなうのは、決して簡単なことではありません。「お金がないから、インターンに行けない」という声。これは決して珍しいものではなく、実際に私の友人たちの間でもよく聞かれる話です。さらに、地方の学生にとっては、地理的な制約が大きな障壁となります。都心部には数多くの企業が集中しており、インターンの選択肢も豊富です。しかし、地方では募集自体が少ないうえに、都市部の企業に参加するには移動や滞在のコストがかかります。つまり、スタートラインがそもそも不平等なのです。このような状況で、「すべての学生がインターンを経験すべき」と語るのは、あまりにも一面的で、現実を見ていないと私は思います。

こうした格差が存在する中で、最も深刻だと感じるのは「無給インターン」の問題です。一見すると「学びの場」のように見えて、実際には学生を無料で労働力として活用しているケースも存在します。もちろん、すべての無給インターンが悪質というわけではありません。学びを中心に据え、丁寧なフィードバックを行い、成長を支援してくれる企業もたくさんあります。しかし、その一方で、「教育目的だから報酬は不要」「学生だから労働法の対象外」といった言い分のもと、学生に実質的な労働を課しながら、その対価を支払わない企業もある。しかも、責任やノルマは社員並み。これでは、学生は使い捨ての駒になってしまいます。これは制度の抜け穴を悪用しているとしか思えません。私は、たまたま有給のインターンに参加することができ、良い上司や仲間にも恵まれました。けれど、それは幸運だっただけなのかもしれません。ほんの少し歯車がずれていたら、私は自信を失い、「働くこと」自体にネガティブな印象を持っていたかもしれない。つまり、インターンの質は、現時点ではほとんど運任せのような側面があるのです。このような現実に対して、私は一つの疑問を抱きます。

「インターンとは、本来何のために存在するのか?」ということです。そもそもインターンは、学生が社会を知り、自分の適性や志向を確認する機会として位置づけられていたはずです。就職前に、実際の職場に触れることで、単なる「企業の名前」や「条件」だけでなく、仕事の中身や自分との相性を確かめられる。そのうえで、より納得感のある進路選択ができるようにする。それが、本来の意義だったはずです。

しかし、現状ではどうでしょうか。
インターンが就活の選考の一部として機能し始めたことで、学生側も「とにかく良い評価を得なければ」というプレッシャーにさらされています。そのため、「学びの場」から「競争の場」へと性質が変わりつつあるように感じるのです。この変化の中で、学生が置かれている立場は極めて不安定です。企業から見れば、まだ正式な社員でもなければ、労働者としての法的保護も不十分な存在。いわば、労働者でも消費者でもない「曖昧な立場」にあります。そしてその曖昧さが、制度の隙間を生み、不公平や不正義を生む温床になっているのです。だからこそ私は、いま一度問い直す必要があると感じます。「学生にとって本当に意味のあるインターンとは何か?」 「それを支える制度やルールは、十分に整っているのか?」「働く前段階にある若者たちを、社会はどう支えるべきか?」、こうした問いに正面から向き合うべきなのは、企業だけではありません。 むしろ、働く人々の権利や労働環境を守ることを使命とする、労働組合や連合のような存在こそが、声を上げるべきだと私は思うのです。なぜなら、インターンの現場には、すでに「働くこと」が始まっているからです。学生という立場であっても、そこには労働に近い経験が存在し、責任を伴う役割が与えられているのです。

「インターンは教育の一環だから労働ではない」と言い切ることは簡単です。けれど、その実態が「明らかな労働」である場合、その理屈は通用しません。たとえ学生であっても、一定の業務に従事しているのであれば、労働法の保護対象となるべきではないでしょうか。そうした議論を本格的に進めていく必要があると思います。そして、学生自身にも「声を上げる力」が求められています。
不当な扱いを受けたとき、不安や疑問を抱いたとき、誰かに相談できる場所が必要です。労働組合が、社会人だけでなく、インターン生や就活生、あるいはアルバイトとして働く学生たちにも開かれた存在であってほしい。安心して頼れる窓口があれば、どれだけ多くの若者が救われるでしょうか。

今の時代、「学生=保護される側」という固定観念は通用しません。
学生のうちから社会に出て、責任ある役割を果たすことが求められている。であれば、同時に「守られる権利」や「声を上げる手段」も必要なはずです。それがないまま、社会に出ていけと言われるのは、あまりに一方的で不誠実ではないでしょうか。

私は、「働くことを軸とした安心社会」とは、決して社会人になってから始まるものではないと考えています。それはもっと前段階、つまり「働く前」の人たちにも等しく届くものでなければならない。高校生や大学生、就職活動中の若者。彼らもまた、「働くこと」に向き合い始めている人たちです。そうした人々が、不安なく第一歩を踏み出せる社会。失敗しても、やり直せる余地がある社会。そんな社会であってほしいと、私は強く願います。ここで一つ、私の友人の話を紹介したいと思います。

彼女は大学3年生のとき、ある大手企業のインターンに参加しました。数週間にわたる実務型インターンで、プロジェクトの一員としてチームで成果を出すことが求められました。やりがいはありましたが、毎日の業務量はかなり多く、夜遅くまでオンラインで作業を続ける日々が続きました。にもかかわらず、報酬はゼロ。交通費すら出ませんでした。それどころか、「評価次第で内定に直結する」という空気が漂っていたため、メンバー同士が競い合い、次第にギスギスした雰囲気になっていったそうです。「最後の方は、何のためにやっているのか分からなくなった」と、彼女は言っていました。私はその話を聞きながら、「これが本当に“学びの場”と呼べるのだろうか」と、強い疑問を感じました。そして同時に、こうした状況が「よくある話」として共有されてしまっている社会に、深い問題があると思いました。これを放置していては、「働くこと」に対する信頼そのものが損なわれていくのではないでしょうか。

働くことは、本来、尊い営みのはずです。誰かの役に立ち、社会とつながり、自分の存在を感じられる行為。けれど、その出発点であるインターンや就活の段階で心が折れてしまえば、「働くこと」自体に希望を見出せなくなってしまう。そんな若者が増えてしまうことを、私は何よりも恐れています。では、こうした問題を前に、私たちは何ができるのか。どうすれば、「働くことを軸とした安心社会」を、若者や学生にとっても実感できるものにできるのか。そのために、私は三つの視点から考えてみたいと思います。

第一に、「制度」の整備です。
現状のインターン制度には、明確なルールが存在していません。企業ごとに定義や内容、待遇がバラバラで、学生は手探りのまま応募し、現場に出て、はじめて「こんなに過酷だったのか」「こんなに放置されるとは思わなかった」と気づく。これは、あまりにも無防備な状態です。たとえば、インターンの種類を明確に分類するルールが必要です。1日完結型の業界説明インターンと、長期の実務型インターンは、目的も期待される成果もまったく異なります。であれば、企業はその目的や位置づけを明記し、それに応じた契約や待遇が設定されるべきです。「体験型」「実務参加型」「選考直結型」などの類型を定め、学生もそれを理解したうえで選択できるようにすること。それだけでも、誤解やトラブルは大幅に減らせるはずです。また、労働に該当する実務インターンには、最低限の労働基準法の適用を義務づける必要があると思います。勤務時間、休憩、報酬、安全配慮義務。それらが不明確なままでは、「教育」の名のもとに、無償で労働させる構造はいつまでもなくなりません。

第二に、「教育」の再設計です。
インターン制度の乱立に伴って、「実践経験のある学生が有利」という空気が強まっています。しかしその一方で、大学や専門学校側のサポート体制が十分とはいえない現状があります。「キャリア教育」という言葉は定着しましたが、それが実際の企業体験とどうつながっているのか。多くの学生は、そのギャップに戸惑っています。私たちが求めるべきは、インターンを「就活テクニック」としてではなく、「学び」としてとらえ直すことだと思います。つまり、キャリア教育の一部として、インターンがどのように位置づけられているのかを見直す。そして、学生がその経験から何を感じ、何を得たのかを言語化し、振り返る場をつくる。大学が単なる紹介機関ではなく、「学びの場」としてインターンを取り込むことで、学生の経験は一過性のものではなく、将来につながる「問い」に変わります。「私は何に価値を感じるのか」「どんな働き方が自分に合っているのか」――。そうした問いを自分に投げかけることこそが、本当のキャリア形成なのではないでしょうか。

第三に、「連帯」の仕組みづくりです。
ここで、労働組合や連合といった、働く人々の連帯を支える存在の役割が問われます。現時点では、インターンに参加している学生と、労働組合との接点はほとんど存在しません。しかし、働く現場の入り口で問題が起きている以上、組合はもっと早い段階から、若者に手を差し伸べるべきだと私は思います。たとえば、「学生・若年者向けの相談窓口」を常設し、インターンやアルバイトで困ったときに気軽に連絡できる体制を整えること。労働法や就業規則、最低賃金など、基本的な労働知識を伝える場を設けること。あるいは、悪質なインターン企業の情報を共有するプラットフォームをつくること。そうした取り組みが、若者の安心感を大きく高めるはずです。また、学生たち自身が「声を上げる力」を持つことも重要です。決して大きな運動でなくても、「これっておかしくない?」「私はこう思った」という小さな声の共有が、連帯の第一歩になります。SNSや学生団体を通じた情報共有、大学を越えたネットワークの形成。そこに、労働組合が伴走者として寄り添い、共に学び、動いていく。それが、次の時代にふさわしい「連合のかたち」ではないでしょうか。私は、労働組合という存在が、ただの「権利の代弁者」にとどまらず、「希望の伴走者」として若者のそばにいてほしいと願っています。「まだ働いていないから、組合には関係ない」、そんな境界線を越えて、「これから働く人たち」にも手を差し伸べる。それこそが、「働くことを軸とした安心社会」への第一歩だと、私は信じています。

社会の中で生きるということ。それは、日々の生活を送りながら、自分なりの役割や存在意義を見つけていく営みだと私は思います。働くことは、その中核にあります。どこかに所属して、自分の時間や力を誰かのために使う。それが収入となり、暮らしを支え、誇りとなり、やがて自己実現へとつながっていく。だからこそ、働くことが「苦しみ」や「不安」ではなく、「希望」や「安心」と結びついてほしいと、私は切に願うのです。私自身、長期インターンという経験を通じて、働くことのリアルを学びました。楽しいことばかりではありませんでした。むしろ、怖くて、つらくて、何度も逃げ出したくなりました。でも、その現場で出会った言葉、表情、失敗、成功のひとつひとつが、自分を少しずつ変えていきました。「働くとは、こういうことか」と体で覚えた実感。それが、今の私の土台になっています。しかし、もしこのインターンが、もっと過酷な環境だったら。もし、助けてくれる人が誰もいなかったら。私は、ここまで来られなかったかもしれません。そして、それは私だけでなく、多くの学生にとっても同じです。だからこそ、「運」や「偶然」に頼らず、誰もが安心して働く世界の入口に立てるような仕組みが必要だと、私は強く思います。社会には、いろいろな人がいます。能力も、環境も、価値観も、それぞれ違う。でも、一つだけ共通しているのは、「よりよく生きたい」という願いです。その願いに応えられる社会。誰かの尊厳を踏みにじることなく、誰かの不安を放置することなく、一人ひとりが「働いてよかった」と思える社会。それが、私の考える「安心社会」の理想です。そして、そうした社会の実現において、労働組合や連合が果たせる役割は、今まで以上に大きくなるはずです。これまでは、働く人々を「守る」ことが中心でした。しかしこれからは、「これから働く人々」を「迎え入れ、育て、支える」存在へと進化する必要があります。その変化を、私は「希望のインフラ」と呼びたいと思います。組合は、「困ったときに頼れる場所」だけではなく、「何も困っていなくても関われる場所」になってほしい。セミナー、ワークショップ、イベント、オンラインコミュニティ。どんな形であれ、若者が自然に関わり、学び合える場づくりが求められているのではないでしょうか。ときに、私たちは「社会を変えるなんて無理だ」と思ってしまいます。自分一人が声を上げたところで、何も変わらない。大人たちは分かってくれない。そういう気持ちになることもあります。でも私は、今こうして文章を書きながら、信じたいと思っています。言葉は届く。想いは動かす力になる。小さな声が、やがて大きな変化を生む。そういう奇跡は、きっとある。飛び込み営業の現場で、何度も「帰れ」と言われました。でも、最後の最後で「話を聞いてくれてありがとう」と言ってくれた人もいました。その一言が、どれだけ心を救ってくれたか。社会は冷たい。でも、思った以上に、あたたかい。だからこそ、私たちもまた、誰かにとっての「一言」になれる存在でありたい。そう思います。

安心とは、制度だけでは成り立ちません。人と人とのつながり、信頼、支え合い。そうした見えない力が、日々の生活を支えてくれる。労働組合が、そうした「見えない力」を制度として形にする存在であってほしい。一人では抱えきれない不安を、誰かと一緒に乗り越える場であってほしい。それが私の、心からの願いです。これから、私は社会人になります。どんな道を歩むか、まだ分かりません。でも一つだけ決めていることがあります。それは、自分が受け取った優しさや学びを、次の誰かに手渡していくこと。働くことで、社会に支えられた恩を、今度は自分が支える側として返していくこと。それが、私のこれからの生き方です。働くことを軸とした安心社会。その実現には、長い時間と、多くの人の力が必要です。でも、始まりはいつも一人の気づきから。一人の「おかしいと思う」「変えたいと思う」気持ちから。私もその一人として、小さな一歩を踏み出していきたいと思います。そして、その一歩が、誰かの背中を押す力になることを信じています。


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