私の提言

奨励賞

出産、そしてがん

中村 光美

 2011年秋、産休に入り出産。出産も大変であったが、慣れない育児に奮闘しながら2012年の4月に復帰し、自分の時間のやりくりに四苦八苦しながらも、快く復帰させてもらったことに感謝しながら過ごしていた。

 5月に会社の健康診断があり、検査当日、病院より「今すぐ大きい病院へ行ってくれ」という内容の電話があった。正直あまり深刻に考えずに最寄りの小さい病院へ行った。
 最初は嚢胞だろうという気楽な見込みであった。念のためにMRIを取りましょうか、となり「大丈夫だろう」という気軽な気持ちで検査した。腹部に腫瘍があるらしいということが判明。どうやら悪性の疑いがあるらしい。でもまだ大丈夫という変な余裕があった。しかし、検査するたびにどんどん病院が大規模な所になっていく。そうしていくうちに徐々に不安が出てきた。

 最終的には町の診療所から高速で1時間半かけて到着する大学病院へとなった。PET検査という腫瘍が悪性か否かを調べる検査を行った結果「悪性」という診断がついた。
最近の告知はあっさりしたもので、診察室に入り椅子に腰かけたと同時に「悪性ですね」であった。あまりの淡白さに事の重大さが理解出来なかったほどである。
 ただし、その段階では何の「悪性腫瘍」か分からないため2012年7月、上腹部を15センチ切り膵臓の裏にある腫瘍を一部取りその腫瘍の正体を調べることとなった。
「6時間、場合によっては12時間の手術となります」と言われた私はまず、家族の顔が浮かんだ。子供はまた8か月、年老いた両親もいる。何より長年勤めている会社の人たちの顔が浮かんだ。
 この前産休から復帰したばかりであったため、また休むことへの不安と説明の仕方に悩み、告知後暫くこの問題を考えることから逃げていた。がしかし入院の日が決まってしまった以上入院は避けられない、ということは休むことになる。また休むことになりました、と説明するにも切って終わりなのかどうなのか、自分でも分からないものの説明をどう会社に説明しようか、と通勤時の車の中で悩む日々が続いた。
 「産休明けで申し訳ありませんが、腹部の悪性腫瘍を切除するため入院します。早ければ1か月で退院できると思いますが…」これを申し出るのに1か月を要した。

 そうしているうち手術の日が来た。結果は「悪性リンパ腫」という血液のがんであった。
 白血病、悪性リンパ腫、骨髄腫が血液のがんになるが、原因は一部しか分かっておらず、私の場合も主たる原因は不明、極論から言えば「なってしまったものは仕様がない」という説明を受けた。と同時に切って終わりではなくなってしまった。化学療法と放射線治療をします、と言われ事の重大さとすぐには復帰できそうにない事の説明を受けた。

 まずは化学療法 = 抗がん剤治療に入った。これで治るなら、という気負いと抗がん剤に対する無知で気楽に受けた。朝10時に始まり、すべて終了したのが夕方4時だった。
 7時までは何ともなかったため、これは思ったより楽に乗り越えられると思った。がしかし消灯位から吐き気が出始めた。夜10時になるころには重度の酒酔いで大しけの大海に放たれた状態になりそれは一晩中続いた。翌日も、そのまた翌日も吐き気が襲ってくる。隣の病室からも嘔吐する声が聞こえる。私はなぜこんなことになったのか分からないまま、当時は吐き気と向き合うしかなかった。正直会社がどうなっていのか、という心配は頭になかった。毎日自分のことで精いっぱいの状態だった。

 続く吐き気に、「病気に打ち勝つ!!」と決めて臨んだ化学療法であったが経験のない壮絶な吐き気に私は生きる気力を完全に失いつつあった。

 そうしているうちに薬剤投与より10日位で頭皮がチクチクと痛む。痛いな、と思い始めて2日後脱毛が始まった。引っ張ると痛みもなく、ずるっと抜ける。これが3日ほど続くと髪の約7割がなくなり、5日でほぼなくなってしまった。
  血液内科の病棟は医療用キャップを被った人ばかりである。私もその仲間に入っていた。

 生きるための治療であるはずが、生きる気力が失せてしまうほどの強力な治療だった。

 そして11月中旬には放射線治療に入った。この病棟も種類は違えど皆がん患者であった。乳がん、咽頭がんの患者さんと同部屋であった。皆仕事を休んで治療せざるを得ない中、皆が口にするのはやはり自分の将来、家族の事、そして仕事の事だった。 特に仕事の心配は皆同じで、「戻れるだろうか」、「申し訳ない」といったものであった。
 不在に対する申し訳なさ、復帰に対する心配。この2点は皆に共通していた。

 放射線治療は抗がん剤のような吐き気はなかったため、日々いろいろな事を考える時間が生まれ、窓際の病室の一角で「この時間は...」、「今の時期は...」と残してきた仕事のこと、日々の業務そして同僚・上司のことを考えることが多くなった。どうしているんだろうか、という気持ちとなにより休んでばかりで申し訳ないという思いで一杯であった。
 ただ、自分からどうなっていますか、どうしていますか?と聞く余裕まではなく、まずは1日1日、治療をこなすことに注力しようと思った。

 放射線治療室は病棟から遠い場所にあり、医療用キャップで頭部を隠して治療室に向かう。歩いていく中、周りを見るといろんな患者さんがいることにようやく気付く。
              
 大学病院ともなると重度の疾患を抱えている患者さんが多い。なかでも子供の病気は必ず親(主には母親であるが)も一緒であった。すれ違うことが多いうち、一人の小児がん患者のお母さんと親しくなった。彼女もまた、介護休暇を取得して仕事を離れ看病していた。介護休暇の場合は、また少し違った悩みで、本質は「仕事に穴をあけてしまい申し訳ない」であったが、病人本人ではないため「週のうち何日かは出てこれないの?」という空気があるような気がするといったものであった。保障された休暇でもこのような心配、後ろめたさがある。
 病気の子供は強い治療に耐えている。子供の治療は一人ではできない。休暇も究極の選択であっただろうが、会社に理解を得るにはまだ、介護休暇の認知度は低いと考えさせられた。何せ当事者ではなく第三者のための休暇になり、母親本人は元気なので看護師さんでは駄目なのか?という疑問をぶつけられてしまうという話であった。休むことの後ろめたさ、子供の病気の不安、代わってあげたいと思う気持ち、家庭のことを後回しにしている申し訳なさで潰されそうになりながら、強い治療に耐える子供に寄り添い共に病気と闘っていた。

 夏に入院し、秋も深まろうとする時、会社の女性社員から寄せ書きが届いた。「待っているよ」という温かい言葉が詰まったものだった。毎日自分のことで精いっぱいで会社のことは心配でもどうしようも出来ないといういらだちと将来に対する漠然とした不安を抱えていた中、この寄せ書きにパワーを貰った。私には「戻っていいよ」と言ってくれる上司、同僚がいる。もう少し体が動いたら必ず復帰するんだと誓い、兎に角治療をすべて消化することだけを考えるようにした。

 放射線治療の場合、週末は治療がないため一時帰宅が出来たが、入院前とするとやはり強力な治療の爪痕は大きく、階段の上り下りが苦になっていた。家事など出来るわけもなく、自宅でも結局病人であった。何より辛かったのは子供にすっかり忘れられ、近づくだけで泣かれてしまうことであった。周りからは「子供の為にもこの治療を乗り越えろ」と言われ、辛く厳しい抗がん剤治療による吐き気や痺れ、脱毛と襲いくる副作用にも耐えてきた。しかし当の子供は私のことなどすっかり忘れていまい、泣き出す始末であった。誰のために…と呆然としたが、自分が治りたいから治療したのだ、と割りきるしかなかった。

 この頃、病院生活はすでに5か月目に入ろうとしていて、病院へ戻る車の中では戻るのが嫌だと泣いた。自宅に戻っても何もできない、しかし病院には戻りたくない。一体私はどうなってしまったのか、と自問自答する日々が続いた。

 そうしてやっとすべての治療が終了したのは2012年12月中旬だった。気が付けば病院で夏、秋、冬を過ごしていた。 退院するまでのゴールは治療の終了であるが、退院すると毎日が闘病となる。つまりは治療終了とともに闘病がこれからスタートになってしまったという事に気付いた。

 抗がん剤の副作用で手足に痺れが残った。文字が書けない、パソコンが打てない、歩くと痛いなど、「復帰」の二文字は遥か彼方にあるように感じた。毎日パソコンを打つ練習をしていたが、退院当初は痛くて10文字打ち込むのに20分くらいかかっていた。「復帰」の二文字は遥か遠くにあり、もしかしたら「無理」なのではないかと思う日々が続いた。 何より、出来ることの方が明らかに少なく、病気になった自分を呪い、治療を選択したことを後悔し、治療前に比べ不自由な部分が多くなったことにいらだちを募らせたのはこの時期であった。
  こんな体で家事など出来ない。育児に至っては、私の実家で同居という事もあり家族が行ってきた有様である。何より息子は近づくと泣いてしまい、そのことが悔しくて自分が泣いてしまう事も度々あった。何も分からない小さな息子にいらだちを覚えることもあった。憤りを感じたところで仕方がない、誰の為でもなく自分のために頑張ったのだと言い聞かせ、体の不都合や息子のことは必ず昨日より今日がよくなると信じ毎日を過ごした。

 薄皮を剥がすような進歩しかないものの徐々に抗がん剤の副作用である手足の痺れが回復しパソコンを普段通りに打てるまでになったのが2013年の3月の初めだった。
  ここで初めて「復帰」の二文字が見えてきた。

 2013年4月、復帰した。満身創痍とは言えない中、それでも戻れる喜びを噛みしめて会社に復帰した。右脚に痺れが残ったまま、何より嫌だったのが医療用かつらを被っての出社であった。毎日、玄関先の鏡で位置がずれていないかチェックしながら出勤した。
  気温が上昇すると伸びかけの髪とかつらの間に籠る熱気で汗をかいてはトイレで外して頭部を拭き、また鏡を見ながら被るという生活が4か月ほど続いた。雨天時の階段は恐怖以外の何物でもなかった。左脚の感覚がおかしいため転倒の危険をはらんでいた。とはいえ、復帰するという事は多少の不都合も承知の上で戻ってきた訳で、そんな言い訳はできるわけもない。転倒しないよう、雨でも社内の事務所移動時は傘をささずに手すりをしっかり握り階段を昇降した。傘で手元、足元が見えなくなるのを防ぐためである。

 検診も多く、体調を崩しがちでよく休む状態が続き、申し訳ない気持ちを抱えての日々を未だに過ごしている。外見上は「治った」ように見えるが、血液のがんには「完治」はなく、「寛解」しかない。病状が出ずに安定している状態のことを言う。
 この寛解を長く維持する方法はない。ただ、運に身を任せるだけである。不安ではあるが、日々の忙しさがこの将来に対する漠然とした不安を一時的にでも忘れさせる。
 忙しきことはありがたきことと思い、今日も出社する私がいる。

 いまだに検診で月1回、月によっては2回の検診があるため会社を休むことがあるが、これも上司・同僚の理解のおかげである。翌日の机上は仕事の山だが、これも「おかえりなさい」代わりのメッセージと受け止めて業務をこなしている。

 会社の理解あっての復帰であることは間違いなく、産休、疾病などで休暇をいただく場合、「安心」して出産・育児・治療ができる環境があると私たちは安心してそれらにのぞむ事が出来る。時としてその安心は後の命の長さに係わることもある。

 ありがたくも私の会社は出産・育児・治療と怒涛の一年間の休養を快く受け入れてくれた。皆がフォローしながら私の復帰を待ってくれていた。
 一つでも欠落していれば今の私はなかったと思う。

 傷病手当を頂きながらの闘病であったがこの制度のおかげで私は安心して医療を受ける事が出来た。この制度がなかったら治療が継続できない人もいると思うとありがたい、の一言に尽きる。
 介護休暇に至っては本人の疾病ではないため、更に周りの理解が必要かと思う。元気なら会社に這ってでも来いという考えがこの国には残っている。滅私奉公が賞賛されていた時代の名残でもある。がしかし、介護は大変である。少子高齢化が進む今日、介護を必要とする高齢者が増えるのは必至である。昔のように兄弟が多くない。つまりは自分も介護のためそれこそ「滅私」を強いられることなることもありうる。何より、介護休暇の存在を知らない人が多い。これをどのようにして働くすべての人に知ってもらうかは人事・労務関連に携わる人たちの課題であると思う。ひとりひとりが安心して闘病、介護に臨めるかが今後の日本の課題でもあるように思う。
 同じことが産休・育休、傷病手当にも言える。安心して出産・育児、闘病するためにはそれらの制度を知っておく必要がある。産休・育休はやっと認知度が上がったものの、傷病手当、介護休暇などは知っている人がどれだけいるのかと言われれば少数であると思う。特に介護休暇などは知らなかったため有休を消化しながら、という人もいると聞く。そのため、労務関連の関係者は説明会、お知らせなどで制度の説明を行う必要があると思う。前述した介護休暇を取った闘病中の母親は、当初介護休暇の存在を知らなかったため、有休を消化していたという。病院のソーシャルワーカーに教えてもらい会社に申請したということだった。会社から教えてくれないといったケースは多々あるのではないだろうか。

 社会保障の認知度が上がれば「安心」して出産・育児、闘病、介護に専念することができる。知っているのと知らないのとでは大きな差が出てくる。問題はどのようにして「知るか・知らせるか」ではないだろうか。会社によっては産休・育休、失業手当以外を知らないという従業員も多い。傷病手当、介護休暇などの世話にならず定年を迎えられるのは幸せなことではあるが、「いざ」その時が来たとき、制度そのものを知らないと「安心」して病気、介護に向き合うことができない。なにより闘病や介護は自分の時間をすべて注ぎ込み向き合わなくてはならない。「社員全員の知識」としてどのようにして広めていくか。会社として考えて、従業員一人一人に知ってもらう必要があると思う。

 出産、育児、闘病、介護、失職・離職、どれをとってもそれぞれの不安がついてまわる。その時、どういう制度があって自分がどのような制度を利用し、その恩恵で少しでもそれらの不安と向き合い、払拭することが出来るか。これらをどのようにして知り、「いざ」という時に利用するか、これが「安心して働くことが出来る」家でいう基礎であり土台にあたると思う。


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