「働くことを軸とする安心社会」の実現に向けて
~労働組合ができること~
渡邊 暁
1.はじめに
労働組合の組織率低下が叫ばれて久しい。ユニオンショップ制を導入している企業においてでさえ、その法的拘束力に疑義が生じるようになっている。労働組合軽視の風潮は、労働組合の活動力の低下に他ならない。また、右肩上がりの経済成長もバブル終焉後、完全に停滞。労働条件闘争を続けていては、企業の存続自体を危機にさらす状況になって久しい。「労働条件闘争」と言う目ぼしい果実を失ってからというもの、労働組合の存在意義が見失われている。そのような環境変化についていけない労働組合が大半ではないのだろうか?
労働組合の今日的な存在意義について、もっと議論を深め、そして労働組合の活動自体が経済成長につながるような行動改革、意識改革が必要になっている。
2.労働組合の社会的な存在意義について
労働組合の存在意義については、古くはイギリスに発した労働条件の改善という人間の根源的欲求の充足に端を発し、それを満足させることによる新たな労働意欲の創出にこそ使用者・労働者双方にとっての恩恵があった。当然、日本における戦後労働運動の黎明期においても、マッカーサーおよびGHQが労働組合の創設を推進したこともあり、欧米型の労働条件改善の闘争が主流となった。そのよう中で戦前に結成された一部の労働運動者による左翼的、共産主義的な思想を伴った行動が反社会的活動として、厳しく取り締まられ、場合によっては政府・経営者との先鋭的な対峙となった時代を経ながら、高度経済成長、バブル、低成長時代となるにつれ、労働運動は大きな変化と融合を行いながら、今日につながっている。
昨今の、世界の中でも類をみない超長期的な低成長にあえぐ日本経済において、労働組合はいかなる役割を果たすべきかについて、考えていきたい。
バブル終焉後、日本経済が低成長に苦しむ中、一方的な労働条件闘争や賃金引上げについては社会的に認められにくい活動となり、それに合わせて労働組合の社会的役割の切り口として企業、家庭、社会この3つの接点をもつ労働者としてそれぞれの場面でどのような活動があるのかが議論をされてきた。私たち労働者には、この3つの接点があることは紛れもない事実であり、この3点を起点として労働組合が運動を展開することについては、まっとうな視点であると考えるし、これ以外の解があるとも現時点では考えにくい。
私たち労働組合で運動を展開する側からすると、所属している企業に対すること、家庭・家族に対すること、そして社会に対すること、それぞれの視点で課題を明確にし、ひいては労働を厭うことなく平等に評価され、生活が安定していく社会の構築こそ、目指すべき姿であると考える。
3.企業と労働組合の共存
バブル終焉後の労働運動は、それまで同様の労働条件改善、賃上げ一辺倒から大きく変化した。バブル終焉後の企業の復調度合いも、産業別、企業別にまだら模様となり統一要求などの労組護送船団方式の維持が難しくなった。とりわけ企業別組合が主体の日本であれば、所属企業の経営状況に直接的に影響する条件闘争は、賃下げ、リストラにつながりかねないことから、組合員の金銭的生活向上面での労働運動は破綻をきたした。今日的労働組合の企業との関わりについては明確な方向性が示されているわけではないが、企業のステークホルダーとして、労働組合は企業の経営チェックができるだけの能力を持たなくてはならない。内部監査機能を有する程度の経営のチェック機能を持たなくては労働組合としての存在価値はない。
昨今のアメリカ型の会計基準が導入されている状況では、行き過ぎた株主保護が跋扈し、従業員が軽視される傾向にある。短期の利益計上を目標とすれば、単年度収支に過敏に反応せざるを得ず、企業統治の方向もその方向に合致した統治となる。しかしながら、長期的な利益計上、長期にわたって社会への貢献を目指すとなれば、短期的利益を目指すステークホルダーより、長期的な株式保有や長期的に労務を提供する労働者の観点からの企業統治になると考えられる。経営側に長期的な視点に立てるように後押しをする役割が労働組合にあると考えられる。極端な言い方をすれば、労働組合が労務を提供しなければどうなるか?そのような対応が社会を進展させるとは思わないが、そのような対応をすれば使用者側はどうするのか?それくらいの覚悟を持って、経営へのチェック機能を果たす必要があると思われる。そもそも「Japan as No.1」とアメリカの経営学者から持ち上げられた時代、日本の経営の特徴は「年功序列」「終身雇用」「企業別労働組合」と言われたが、これは言うまでもなくアメリカ資本主義に対峙する日本人資本主義である。従業員こそ企業の資本であると言う考え方である。
経営のチェック機能を果たすために労働組合は何をすべきか?現在の労働組合の組織には経営を論ずることができる組合幹部が圧倒的に育っていない。現在の組合幹部は旧態然とした労働運動論を展開するだけで、インテリジェンスが感じられない。経営を論議できるレベルの組合幹部が育っていない。まずは連合をはじめとした組織体は組織を挙げてそのような幹部を育て上げなくては、経営者に対峙することは永遠にできない。現代の経営者は、労働者からの搾取を企図している人は皆無であり、むしろ企業を伸ばすためにどうするかを真摯に考えている経営者が圧倒的に多い。その経営者に意味のない労働論を吹っかけるのではなく、経営論をぶつけられるレベルに組合が追いつくべきである。
多くの場合、労働組合の役員は意図して組合役員を引き受けているわけではない。職場委員からなるそれまでの職場の流れから、自分は意図しないのに、組合役員になっていくケースがほとんどであろう。しかし、意図して組合役員になるような環境を整えることも重要である。職場にいれば近視眼的になるが、組合役員になれば全体を俯瞰できる立場になる。それを良しとする従業員は必ずいるし、将来の組合幹部としても会社幹部としても育てていくべき人材である。そのような人材を早い段階で見極めを行い労使でシェアし、それぞれで育てていくことも重要である。
企業別労働組合の今後の最大の特徴は世界に類を見ない「経営対策活動に特化した」労働組合に変貌することではないか?労働組合役員が取締役になる、監査役になるなど、企業側も労働組合の能力を有効に活用すべきである。労働組合は産別上部団体に加盟しているので、他社の状況なども入手できないわけではない(当然、コンプライアンスに抵触しない範囲で)。
「働くことを軸とする安心社会」を目指す労働運動の基本は、まず私たち働いているものが安心できる社会を作ることが基本であり、それさえもできていない状況で、他人にも享受を拡大することはできない。そのためにも現在の企業別労働組合としての信頼を再度取り戻し、現在働いている人の安心社会づくりの基礎となる安心会社づくりに貢献するために、会社に徹底的に経営論で対峙できる強固な労働組合流のインテリジェンスを確立することが、第一義であると考える。
4.家庭と労働組合のありかた
家庭と家族は同じ意味ではないが、労働組合から見たときにはほぼ同じ言葉と捉えて論議を進めることは可能であろうと思う。労働組合が家庭・家族に関わる場面というのは、労働者の二次的関与者としての接触である。これまでも労働条件改善交渉の中で、年休取得率が増えたり、フレックス職場が増えたり、ノー残業デーができたり、その他各種休暇制度が労使、政・労・使の努力により充実していくことで、明らかに家族が接する時間は長くなり、余暇に使う時間は増加した。さらに、少子化の問題から育児、母性保護、といった男女共同参画社会づくりやワーキングマザー、ワーキングファザーに関連する条件整備も大いに進んできている。
しかし、このような流れは賃上げが難しくなってからの条件整備であり、賃金カーブの上昇も、40代以上から極端に抑えられるカーブを作りながら、そのバーターの中で整備されてきた。したがって、その恩恵に与れる多くの人は、休みはあるが金もない状況に陥っている。特にバブル期前後まで歴然としてあった、結婚したら女性は会社を辞めるという風潮のなか、辞めた人の多くはその後の社会復帰はパート労働の場でしかない。それでも我慢できた扶養者控除等の恩恵も今はなくなっており、ますます教育に負担がかかる世代に、厳しい現実を押し付けているのが現状である。
そのような環境下で労働組合が家庭にできることというのは、やはりいびつな実態を修正すべく、政治との対峙がひとつ必要になるであろう。また生活防衛策としてスケールメリットを活かした共済活動の活発化なども重要になる。しかし共済活動というとすぐ労働組合連合体組織は、事業として捉え、不要に金を溜め込む傾向があるので、対峙する経営者側に対しても経営の見本となるような経営体質、利益を求めない共済組織としての活動を行動理念としておかなければ設立の意味はない。また単なる共済制度だけではなく、共同購入やグルーポン方式のチケット割引制など色々なことが考えられると思う。
労働組合が家庭にできること、家族にできることとしては労働条件の改善による家族の絆を高めると同時に、安心できる共済制度を含めたスケールメリットを活かした活動であろう。
5.労働組合と社会の関係
今日の労働組合は企業別労働組合とはいえ、産業別組織、連合通じて社会的活動を行うことを否定することはできない。しかしながら社会的活動と政治的活動は決してイコールではない。しかし、昨今の労組は政治的活動への参画が非常に色濃くなっている。しかしながら、そのような活動・行動に諸手を挙げて賛成する組合員は非常に少ない。この現実は、決して労働組合が嫌いだからではなく、個人の主張と労働組合の主張が大きくかけ離れることによる忌みである。また、労組(連合)で一枚岩で政党を支えることなど、この複雑化した社会の中では不可能なのは当たり前で、全てにおいて利益・不利益が生じる中では一枚岩は無理である。労働組合主導による政策実現がされているのかさえ、全く分からない現状で政党支持に何の意味があるといえるのか?労働組合として支持政党は○○党という経緯も、非常に曖昧模糊としており、その支持活動の宣伝活動・教育活動・理解を進める活動について全く持って手を抜いている。組合員なら政治活動に協力するものと言う、上部団体の驕り高ぶりに物申したいと思う。
労働組合が政治活動を行うのであれば、まずは各労働組合としての政治理念、政策理念を明確にし、それに合致した政治家・政党を支持することが賢明である。分かりやすく言えば、TPPについては、賛成労組も反対労組もあるはずである。それをひとつにまとめておく必要もないと思う。
労働組合として政治的活動を行うのであれば、まず全体としての政治的理念の確立をしなくては反自民だけではいずれ破綻をきたす。国家(国体)観、教育、軍事、憲法、外交、税金(社会保障)、これくらいは労組としての理念を提示すべきである。そのようなものがあってこそ働くことを軸とする安心社会の実現につながるはずである。
一方、いわゆる社会的活動と言われるボランティアなどについては、いっそう積極的に行う活動であると思うが、偽善者然とした匂いを感じてしまう。現在、労働組合が主体となっている社会活動は組合役員以上に広がりを拡大させることが非常に難しい。それだけに善意をどこまで引き出せるかであるが、そのような活動は教育制度も含めた社会全体の活動としてのうねりを作り出せなければ、偽善者然とした組合役員の活動からは脱却できない。
6.働くことを軸とする安心社会の実現と労働運動
これまで労働運動の短い簡単な歴史と今日的な考え方について少しばかり記述してみた。諸先輩方から見れば、非常に浅はかに思われるかもしれないが、いかにも一般組合員のレベルはこの程度であることを考えていただければ、自ずと今後の道筋は見えてくるのではないだろうか?
各観点からの現時点での労働運動は全てが「働くことを軸とする安心社会の実現」に向けて展開されているし、間違った方向に進んでいるものはない。ただ、過去の条件闘争の労働運動からの大きな変化点にある現在、伝統的な過去の流れに縛られ新しい展開、思い切った方向転換ができていないことに、今日の労働組合運動の迷走と困惑がある。
全てを労働者とそれを取り巻く人たちの幸せの実現に向けて取り組むという労働組合の理念を徹底すれば、「働くことを軸とする安心社会」は実現できる。そのためには、労働運動ルネサンスや労働運動R&Dが絶対的に必要であり、それにいち早く取り組んだ労働組合、産別がリードすることになる。ただし、これらの新たな労働運動はいったん全ての運動をゼロベースで見直すことからスタートするべきであることは言うまでもない。
7.今日的労働運動の先にあるもの
長い歴史を持ち、先人たちに洗練された今日的労働運動の基礎には、企業、家庭、社会がある。それぞれに焦点はずれていないので、修正を繰り返すことで、企業を強くし、それは日本経済の基礎を強化し、ひいては労働条件改善、家庭生活の改善に必ずつながっていく。そうなることは、働くことへの喜びと忠誠につながり、働くことが、生活を豊かにすることとなり、みんなが安心して生活できる社会作りにつながる。
働くことに意義や楽しみが生まれない限り、「働くことを軸」にすることはできない。今日的労働運動はそのような基本的なことに成果をいかにして出していくかに全精力を傾注すべきである。
以上