「働くことを軸とする安心社会」の実現に向けて
玉川 浩嗣
前書き
「第79回メーデーポスター図案コンクール
私自身も大船渡市の職場が被災し、2メートルの津波で通勤用の車も流され、近くの避難所の小学校で食うや食わずで2晩過ごした。
3日目になんとか40キロ離れた気仙沼の自宅へヒッチハイクで戻り、ようやく家族の無事を確認し一安心したが、兄弟や親戚も家が流され、多くが被災し我が家も避難所のような状態になっていた。その後2ヶ月余りの間、電気がない、水がないという状態で大変な生活が続いた。
住む家がない、食べるものがない、電気や水もない、電話もつながらない、ガソリンも手に入らない。
しばらくの間、たまごや肉、豆腐、ラーメンも買えなかった。そのとき豆腐やたまごを食べたいと本当に思った。
震災の影響
今回の震災、大津波によって極めて大勢の人の生活ががらりと変わった。家族をなくしたり、家を失ったりはもちろん悲惨で悲しい出来事だが、大変なことは、それを乗り越えて、さてこれから新しい生活を始めようとするときにその生活の基盤たる仕事、勤め先がなくなってしまったことだ。三陸沿岸でも水産関係の会社等が大きな被害を受け、漁師、養殖業、水産加工場などは直接被災し、それに伴う、冷凍施設、運送業、観光販売業、ホテル、民宿など多くの方が職場を失ってしまった。水産関係を中心に産業の基盤そのものがなくなってしまったのだ。やむなく廃業する人、出稼ぎに出る人、いまだに職を探せないでいる人までいる。悲惨なことに自ら命を絶った人さえいる。
問題点と課題、事例
自殺者数は13年連続で3万人を超えた。(2011年3月警視庁発表)しかも、年代別に見ると50代が最も多く40~60代で半数以上を占める。また、男性の割合が約7割を占め、「経済や生活苦」による自殺が約3割を占める。ちなみに20~30代の死因のトップも自殺だという。自殺率でも日本はアメリカの2倍(2002年)、先進国では圧倒的高水準という。1998年から急増した背景にはリストラ、中小企業の倒産が相次いだことが原因といわれている。
自殺を考えたことがあるという働く世代も急激に増えている。一生懸命働いたあげく何かの間違いで転落し、ホームレスになったり自殺に追い込まれる世の中は異常ではないか。生活の基盤を失うということは、それほど深刻で凄まじいことなのだ。
いつリストラされるか、仕事を失うかという不安は、ストレス、うつなど精神的な面への影響も計り知れない切実な問題、社会全体の問題として真剣に早急に取組むべき課題だと思う。
今働いている人が心配に思うことや不安に思うことをみると、仕事への不安、将来への不安、年齢によっては健康面、子育て、子供の将来等が挙げられる。これらは経済面(仕事)、健康、教育となっている。後ろ盾はお金である。
若い世代では定職につかない、いわゆるフリーターと呼ばれるアルバイト、無職、求職中や当面休職中とかいろいろあるが、この中でも定職につきたくてもつけないフリーターが一番多い。
一定の会社に勤めても会社の存続も含めその立場がいつ崩れるのかという不安を抱えている人が多いという。一度職を失うと同等、またはよりよい条件の仕事につくことはきわめて困難だからだ。
30歳代から年齢が高くなるにつれ一度定職から外れると正職員として復帰することが困難になってくる。しかし生活としては養育費や、ともすれば住宅費、ローンなど金のかかる年代にさしかかっている。
あるテレビニュースでは、未婚率の上昇についての報道があった。50歳までに一度も結婚しない割合が男性で5人に一人、女性で10人に一人になっている。理由は「出会いがない」「必要性がない」と並んで「経済的余裕がない」となっている。これらはほとんどが働くこと、仕事に起因しているのだ。仕事があっても残業等で長時間労働だったり、逆に定職がない、またあっても低賃金では、まともに恋愛、結婚など考えられない。
婚姻率の低下は「社会的継続性」という意味でも大問題なのである。
今国会で消費税税率が5%から10%になることが決まった。成立の良し悪しは別として、低所得者ほど増税割合が高くなる。逆進性は改めなければならない。
また勝ち組、負け組みという言葉は好きではないが、経済的格差が広がってしまったいま、富の再配分として、所得税の更なる累進性も検討が必要だろう。
未就労、リストラ、失業率の増加、収入減少、不規則・不安定雇用、長時間労働、ワーキングプアなど単語だけ並べても問題点は挙げればきりがないのだ。
制度的な必要性
日本では終身雇用が生活安定の裏づけのような考えがいまだにあるが、グローバル化の中で日本型雇用の解体はますます進むだろう。それは経済の流れでいたし方ないにしても転職、再就職の機会がしっかり保障される仕組み、就職セーフテイネットが必要不可欠になる。
いま就職氷河期などと呼ばれているが個人の努力には限界がある。制度的なものが絶対必要だろう。現在の仕事への意欲、充実感を持てること、また何かの事情で仕事を離れたときに再復帰、または転職、再就職をしやすくする仕組み、ジョブカード、ワーキングコーデイネイトなど、社会システムの構築が急務である。
労使、国一体となった制度構築が急務だろう。
労働組合の役割、責任の重大さ、政治、経済への提言、関与もますます必要になるが、組織率の低下の中で、働くものの声を社会的な要求としてまとめるためには、グローバルネットワークユニオンとでも言うべき産業別組合を越えた組織化も必要だろう。定職化しない中、組織化が極めて困難なので、ネットや郵送などで会員制、登録制などゆるい形のユニオンも今風かもしれない。
最低賃金などの金銭闘争のほかに環境関連など共通性は見つけられると思う。
国際競争の中で生産性との兼ね合いもあるが、バランスの取れた労働需給の仕組みの構築を求める必要があると思う。
われわれ働くものとしても一定受け入れることも必要だろう。たとえば同量の仕事を分け合う「ワークシェアリング」であれば、正規雇用者の時間短縮に伴い収入が減ること、会社側では損害を与えないなど一定条件の下、副業をみとめるなど個々が選択できるようにする。
空いた時間をさらに働くなり、自分のスキルアップのために使うなり、自分の楽しみのために使うなり自由にできるようにする。
8月15日の終戦記念日を「平和の日」とすることも提案したい。「お盆休み」は定着しているが、宗教的な制約もあり国民の祝日としてはそぐわないが「お盆休み」にかかる一日を国民の休日とすることで連続した休日がとりやすくなるし夏休みの間の休日なので家族でのレジャーにも使え景気刺激にもなるのではないだろうか。他に秋にも連続した休日があればどうかと思うが。
一方で企業の体力的問題も関係してくる。国際競争力との関係などもあり要求どおりにはいかないが、環境面、エネルギー、資源などもふくめ、社会的な要求として政治的提言など、労働者、労働組合の役割は重要になる。
最近話題になった生活保護についても、まずは働ける部分は働いてもらうという就労支援を前提にした仕組みにするべきだ。
投資での儲けへの課税制度、資金を集める側面もあるが、単なるマネーゲーム的な投資への課税は検討すべきだろう。
生産性を妨げるような過剰な投資活動、本来の経済活動、生産活動からかけ離れたマネートレーデイングへの対策なども検討が必要ではないだろうか。
最近考えること
さて自分を軸に考えると、私自身55歳となり、すでに勤続35年を過ぎ定年退職という言葉が他人事ではなく、自分なりにいろいろと考えることが多い。
ひとつは定年後に何をして暮らすか、好きな絵でも描いてのんびり暮らすか。
ひとつは60歳定年後の生活のこと(60歳まで大丈夫かということもあるが)。これはかなり現実的、深刻な問題になってくる。若いころは50代半ばで早めに退職し自分の好きなことをしたいなどと気楽に考えたものだ。もちろんそのころはその年齢でやめても年金ももらえたのだが、公的年金制度も変わり65歳にならないと受けられなくなってしまった。いわゆる状況が変わってしまったのである。
こうした金銭的な面は大きなことだが、さらに気にかかることがもうひとつある。それは「社会との関わりが希薄になる」ということだ。
いずれ退職は避けられないが一番寂しいのは、付き合いや交流とか情報交換とかもそうだが「社会への貢献」という点でも一切途切れてしまうこと、これはなんとも寂しいものだと思う。
仮に金銭的な不安がなくて自分ひとりでいくら好きなことができるといっても、社会的なつながり、関わりがないということはどうだろう。
実はこのことが働くということにかなり重要な側面を持つと思うのだ。
安心できる「絆」社会
震災から3ヶ月後、郵便局の職場が再開してしばらくの間、今食うに食えない人、住むところも失いぎゅうぎゅう詰めの避難所に、救助の人やボランテイアが地域に入ってたくさん活動しているなか、自分はこんなことをしていていいのかと思うこともあった。
しかし、どんな仕事でもさまざまな面で関わりがあり必要とされているものだ。震災後の2ヶ月間は特にそんなことを思った。たとえば水道、電気、電話も使えずスーパー、コンビニ、郵便局、宅配便やバスや鉄道も寸断され、食料もガソリンも買えず、とても不便で不安な時を過ごした。三陸地方ではいまだに鉄道やバスの一部は復旧していない。
医療関係や物流運送業、金融業、新聞配達、郵便配達、小売、製造、サービス業、農業、水産業、土木建築すべてが欠かせない仕事なのだ。それぞれ関係しあってつながりあって成り立っている。意識するしないにかかわらず働くという行為がお互いに貢献し、支えあいの関係となっている。
「絆」という言葉が昨年からさかんに使われているが、働くという行為が社会の「絆」そのものだということを感じている。
働くことの意義、喜び、充実感は社会的貢献、有用性、感謝などのことばに変えられると思う。
物を売る行為にしても買う側に満足感を持たれるなら、売る側にも充実感、満足感が生まれる。必要なものを必要な人が適正な価格で買い求める、それを提供する。日常的に繰り返し行われている行為が社会的貢献になり、われわれの生活を成り立たせている。生産する行為も同様である。震災時に感じたことでもある。震災時のことをまた言うが、いつも食べている豆腐や卵があのとき本当に食べたいと思った。
人としての生活
年金暮らしへの不安、健康不安から預貯金が必要と考える人も多い。
高齢者でも働ける人は一定年齢まで働けるような仕組みが必要。将来への不安から若いうちに働いたものを使わないで預貯金として蓄えることが一義では味気ない人生になってしまう。安心して働き、一方で人生を楽しむために適度に消費することも経済活動としても大切だろう。
ブータンでは自分が幸せに感じている国民が非常に多いと最近紹介されて話題になった。国民性や宗教感、文化的にも経済的にも違うがここにもヒントがあると思う。
日本では食べ物も十分にあり経済的には自動車、家電、携帯電話などすでに充足された中での生活なのにそれらを含め人生を楽しむゆとりは十分だろうか。「健康で文化的な生活をする権利」は当然国民ひとりひとりにある。後はどのように受け取るか、どのように実行するかも大事だ。
働く安心を実現するために
話をまた震災時に戻すが、2ヶ月ほどして電気や水道が徐々に復旧していったが、自転車で付近の海岸沿いの集落を回ってみると、津波を受けた低地の家は押し流されて壊され、あたり一帯が黒茶けた色の瓦礫の山となっている。
その中では自分の家があるべき場所で途方に暮れて立ちつくしたり、呆然と何かを探し歩く人がいる。
一方それよりほんの少し高いところに住んでいて津波を受けなかった人は新緑の若草、木の芽、ピンクの桜の花、黄色の菜の花の咲くところで何事もないように畑を耕している。
浸水ラインの上と下で対照的な光景として今も頭に残っている。
これが仕事だったらどうだろうか。
仕事をなくした人が本当に大勢いる。
私は幸い、家も仕事も無事だったが、この不条理に自身も生活の意味を考えた。ふつうの生活が一番だと思った。そのふつうの生活とはなんだろうか。
働く意義と働く安心
働くことはどういう意味を持つのだろうか。
ひとつは当然「生活のため」ということになる。
仕事が収入の源であり一定の生活をするために一定の収入が必要なのは言うまでもない。その収入は自分一人ではなく家族の生活が維持できるものである必要がある。(社会的継続性といわれるもの)
働く安心があるということは安心して楽しく生きることができることだ。活き活きと生きることがまさに「生きる」こと、これが大切だと考える。
いつ仕事を失うかという不安が払拭できるだけで安心して生活できる。
仕事に対しては自分が社会の一員であり社会を支えているという自負、自覚を持ち、意欲的に働き、一定の時間は自分や家族のために使うことで充実した楽しい人生を送ることできるだろうと思う。
仕事は人間が生きるために必要なもの、収入面のみでなく、人との関わり、社会貢献、助け合い、支えあいが社会の基本となり、根底にあるものだ。もちろん仕事への研鑽、貢献努力を怠らないことは大前提だろう。
まとめ―「働くということはお金を得ることだけでなく、社会との関係を持つこと」
「人はパンのみに生きるにあらず」
本来の意味合いは異なるが、食料を得るためだけの仕事でなく、人生を楽しむための仕事ができればすばらしいことだ。
人生観、価値観、生きがい、何にしあわせを感じるかは人それぞれだが、自由な時間をどのように使うかは選択できていいはずだ。
これからの社会で働く人たちが、意欲と自負、充実感を持ちつつ安心して仕事に就き、楽しく活き活きと生きることができる社会になることを、まだ大学生、高校生、中学生の3人の子を持つ親として、切に願っている。
以上