労働組合の存在意義
~労働組合へのCSRの適用を通して~
松本 侑士
(一橋大学社会学部2年)
1.はじめに
経済状況、雇用体系、個人の価値観などがますます多様化を見せる中で労働組合がそれでも尚、労働者を保護し、彼らの価値を高めようとする「無形でありながらも」果たしている役割は絶大なものである。現代では非正規雇用で働いている人が増え一方でフリーターやニートといった問題も深刻化している、しかしそれに加え正社員やホワイトカラー層の人々にとっても労働組合離れが進んでしまっているという状況が存在している。このような問題の原因は労働組合側と潜在的組合員双方の知識不足以外の何ものでもないだろう。しかし潜在的組合員はまだ組織に参加していないわけだから、個人の持つ力は限られている。そこで求められることになるのはやはり労働組合自体の改革ではないだろうか。それは労働組合という組織が企業と並行的に存在していることを皮肉的に扱う意味で、一種の企業の社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)を適用することで義務付けられるものだと考える。
2.労働組合からの接近
大学では連合を中心とする様々な組合の人たちの講義を受けたが、そこで最も強く感じたのは(人にもよるが)話し手が我々の気を離してしまわないように細心の注意を払っているということだった。だから、というわけではないかもしれないが毎回のレジュメはものすごく中身の濃いものが多く、また図やグラフなどのデータが多く出てきたのも特徴の一つであった。だが、私自身の意見としては、このような講義において労働組合側の人が最も注意を払うべきは私たちの気を引くためにかえって難しい話をしてしまうことだと思われる。私たちの多くがキャリア形成や賃金の高い職種を望んでいるのは間違いのないことかもしれないが、組合が人材育成にも関与しているという話から人材育成の実際的な手法について種々の専門用語を織り交ぜられた講義を受けてもなかなか耳には入ってこない。講義に対してそれよりも私たちが興味・関心を抱いていることは、やはり労働組合が組合員の幸福を直接的にどのように確保しようとしてどのように交渉をしているかということである。おそらく労働組合側の人にはこういった話をするのが、一般市民の抱く組合への左翼的な印象に拍車をかけることにつながるという懸念があるのかもしれない。しかしたとえそうだとしてもそれで何がいけないのかと私は思う。このような論点のすり替えこそが労働組合側の人間にもそれを学ぼうとしている人間にも、双方にとって不利益なことではないだろうか。確かにこれから企業やその他の職場で働こうとする人間が主体的に労働に関する様々な条件や規則について学ぼうとする姿勢を持つべきなのは疑いようのないことである。しかしまだ働いていない私の立場から率直な気持ちで言わせてもらうと、そういった働くことに関する問題よりもまず自分が何を職場でするのか、とか仕事においてどのような人と付き合っていくことになるのか、とかどのくらいの給料をもらえるのかといった点ばかりに気が向いてしまうのも仕方のないことでないかと思う。そして実際的な問題に自分が直面した時には、労働問題に対する解決法を何一つ知らなかったといった状況に陥ってしまうのだろう。だから、他力本願ではあるがもっと労働組合には訴えてほしいし呼びかけてほしい。大学での講義も何か所かで行っているという話があったが、ホワイトカラーにしろ正社員にしろ、大学卒業生ばかりではない。高校卒業からの人もいるだろう。そういった人たちに知識と意識の苗を植え付けておくことが今もっとも組合に求められていることではないだろうか。だから連合などの組織力の高い団体は、学力のレベルや生活環境の違いを考慮せずに、様々な地域や学校で講義・講演を行ってほしい。それは非常に簡単なレベルでよいのである。多くの労働者が働き始めた時には予期していなかったような問題に直面して苦しい生活を送ることを余儀なくされている事例や、それをどのように解決していけばいいのかといった話だけで十分である。日本の労働者の労働時間がどうだとか、業種によってこんなにも違うとか、そのような話は差し迫って必要ではない。実際に大きな労働問題に直面している人たちの事例に触れることで労働組合がそういった状況への対処に、どれだけ有用な存在であるかを示すことができればそれで良いのである。この話が適切かはわからないが、今巷では小林多喜二の『蟹工船』が流行っているように、潜在的組合員である私たちは無意識的に困難な社会に対してよりリアルで直接的な何かを求めているように思う。労働組合が潜在的組合員に迎合しなければならない時代はもはや過ぎ去っているのではないだろうか。
3.社会における労働組合の訴え
同様の考えから、労働組合が社会における自らの地位向上のために有効的な手段として、メディアへの露出ということが考えられる。フード連合による講義の際に、トップによる広報活動という項目が取り上げられていたが社会に対して組合の活動を示すにはやはりこのような活動が最も効果的だと思われる。それがより多くの市民に読まれるような媒体に掲載されることが望ましいのは自明であり、新聞などで特集記事を組むことやテレビなどへの出演も可能になればこれほど効果的なことはないだろう。そして今「トップによる」ということを記したようにこれらを大手企業が行うことが大事である。そこには春闘のように大手が創り出す潮流を中小にまで波及させるという影響力が想像できる。組合を組織していてその組合員でいることがこんなにも有益なことである、ということを社会にPRすることが組織率の向上にも直結するはずである。
このようなことを指摘したうえで労働組合が組合員に対して果たすべき役割は、やはり雇用や賃金、労働の安定に尽きる。そしてそのために求められることは労働組合及び企業、さらには産業界が「開かれた」存在であり続けることだろう。先述した通り、労働組合は将来加わる可能性を持った人にもすでにその資格を持った人にもアクセスしやすい存在でなければならない。それが社会の労働組合への関心と監視機能を強めるという意味でホワイトカラー層にもブルーカラー層にもその他の労働者にも過酷な労働に見合った代価を払うこと、一方でその過酷な労働を減らしたとしても労働者としての価値を損なわないことにつながっていくのである。一部の企業において社員が組合に引き抜かれることが後の出世になることなど、社会全体が認識しているとはとても思えない。しかし企業との癒着を生みだしてしまう要素が多分にあることは社会にも根底的に認識されており、そのことが労働組合の存在意義をぼやかしてしまっているのではないだろうか。もし社会全体が労働組合員と企業における出世のつながりを把握したら、きっと圧倒的な反対の声があがるのではないかと私は思う。確かに出世のための組合であれば存在する必要などはない。市民が企業と組合の癒着に異議を申し立て、組合などなくてよいのではないかと主張し始めても納得できることである。
現状の改革を行うには労働組合事態の改善が必要になることは明白である。しかし、そもそも労働組合の存在は改革を行う当事者に等しいのだからこれは非常に難しい課題である。だが労働組合は基本的に無形である。組合用のビルやオフィスが存在したとしても、それは人間が恣意的に決めた枠組みに過ぎず組合自体が目に見えるわけではない。だからこそ逆にそれを活かすことが可能なのでないかと私は考える。例えば、働き手の扶養者も組合に参加することを認めるといった改革はありえないだろうか。ワークライフバランスを実現するための様々な取り組みについての講義も受けたが、どれだけワークライフバランスを唱えたところで働いている本人しか組合に関わっていないのに、どうやって家庭での過ごし方について善く考えることができるというのか。そういった詰めの甘さ、すなわち環境を整備することばかりに従事してしまい、それをどう活用するかは労働者次第という状況は労働組合の今日欠陥の象徴であるとも言えるだろう。労働組合の社会に対する訴えかけはまだまだ不足しているというのが私の見解であり、それこそが改善点の基礎になってくると思われる。
4.労働組合の最重要課題の見つめ直し
連合をはじめとするナショナルセンターの最終的な課題及び目標は「全労働者の幸福の希求」に還元することができるが、この目標はグローバルな視野で考えられるものであり現時点では、日本国内で働いている人たちにとってほとんど意味をなさないものになってしまっていると思われる。社会学的な見地に立つとこれは大きな問題である。なぜなら非常にローカルな問題とよりグローバルな問題とのつながりを見出すことができていないからである。この原因は私たちがローカルな問題の積み重なりがグローバルな問題につながるものだと考えてしまう傾向にあると思われる。しかし、企業の一側面に触れるだけでこのような考え方が通用しないことはすぐにわかる。例えば多くの企業が今日では生産過程の一部を海外に移している。これは、企業としては一つのモノを生産しているにもかかわらずその一部だけがグローバルな部分として存在しているという意味で、ローカルな土台を要さず、また国家やナショナルといった概念の段階を踏まずに行われたグローバルへの飛躍である。こうした積み重なりの結果ではないグローバルへの飛躍を私たちはしっかりと認識できていないのではないだろうか。そして、オフショア生産の拠点となっている国では安価な賃金で多くの工場労働者が働いているわけであるが、その人たちも時期が来ればオフショア拠点の移転に伴い失業を経験することになる。もちろん日本に限った話ではないが、少なくともこのような生産を行っている企業が他国の労働者に与えている負の影響力は果てしないものがある。私たちは現実を甘く見ており、ほとんど自国のことしか考えていない。つまり日本の企業と労働者に有利に働くであろうことと他国の労働者への不利が一致してしまうことがあるにもかかわらず、労働組合の目指すべき「全労働者の幸福の希求」がどうして達成されるかということである。そしてまた全労働者の幸福を希求するならば、最も重要視されるべき現象はおそらく自国の問題ではないのである。しかし私はここで、海外の事情を考えたら日本の労働者に対する保護を優先している場合ではない、などと述べるつもりはない。日本の場合、労働組合の最重要課題は国内労働者に対する保護であるべきことは明らかだからである。そしてそれ以上に、国内労働者の保護と海外(低賃金)労働者への保護は労働組合のような組織によって両立され得ることだと考えられるからである。現在の労働組合(それは単位組合からナショナルセンターまでを含む)は根源的な目標を焦点化できていないように見える。単位組合とナショナルセンターが果たすべき役割は異なるという前提を差し引いても傘下にある組織の目指すべき地点の違いは組織としての力を発揮できないという結果に至ってしまうだろう。日本の労働組合は多くが単位組合を中心としていると言えるが、それは組合が各々の企業や工場にいる労働者の権利を第一に守るということを明確に示唆しているゆえの状況でもあると私は考えている。とはいえ、私たちが海外的な事情に対してあまりに無知であるのと同様に、労働組合自体が自国の労働者の保護のためなら他国の労働者の酷使は厭わないという姿勢は真っ先に排斥されるべきであろう。そしてこのように考えていくとすでに組合と企業の癒着ということも述べたが、労働組合が担うべき責任は企業そのものの責任に等しいように思えてくる。そこにCSRの適用ということが考えられるのではないだろうか。
5.労働組合の存在意義とCSRの適用
日本の労働組合は企業と非常に近い存在であることは間違いない。様々な組合の人たちの講義を聞いていても、企業の人が話しているのとほとんど同じような印象を受けたし、先ほどから述べているように企業から引き抜かれた人が組合で働いている場合を考えれば当然のことかもしれない。しかしこのような状況が続けば続くほど、労働組合が社会に対して負うべき責任も確実に増すと断言できるだろう。大手企業が促進しているユニオンショップ協定のような場合は企業自体が組合を組織しているのだから、企業に対してへつらうだけの組合だと社会から批判されやすいという意味で、ますます労働組合として果たすべき責任が問われることになる。では一体、労働組合が負うべき社会への責任とはどのようなものなのだろうか。
労働組合に適用されるべきCSRは組合が存在する企業の性格によって異なってくる。例えば大手企業ならばホワイトカラーの過酷な労働が予想できるため、その労働量を削減する方向への政策が求められる。一方、企業の経営自体が危機に瀕しているような場合、企業の利益に協力することで労働者の継続的雇用を何よりも最優先させるという考えに至ることもあるだろう。しかし総じて言えることは存在する労働者のために組合が働くというインセンティブである。日本の労働組合は必ずしもホワイトカラーとその他の社員を明確に分類していない部分に存在していることも多い。世界的な見地からすれば仕事における職種の分類をしないことは批判の一因になるのかもしれないが、私は、それは非常に良いことではないかと考えている。つまり労働組合の存在意義から考えれば労働者にホワイトもブルーも正規も非正規も関係ないはずである。ホワイトカラー層だけの組合だからこそ企業に対して協調的であり、時に出世至上主義との迎合が生まれてしまうと考えることもできる。現代の潮流からしたら、日本のみならず世界的に国家や経済の循環を促しているのはホワイトカラーであることは否めないが、彼らのあり方を改革することが全ての労働者に波及することを念頭に置いたうえで労働組合は活動することを目指すべきである。雇用体系が移りゆく中で、労働組合は非正規雇用者やワーキング・プアの問題だけを重点的に解決すれば良いわけではない。むしろこれまでの組合の手法は、下からの改革であるという共通項の下で、上の企業から改革が実施されてきたはずである。そしてそのために私は再度指摘するが、労働組合は可視化された存在でなければいけない。一般市民にとって、潜在的組合員にとって、企業の重役に存在する人にとって、そして組合員自身にとって、組合は見えにくい存在になってしまっているのではないか。もっと言えば、組合が主体的にその姿を隠していっているのではないか。私たちはもはや労働組合に何かを求めるといった土俵にすら立っていない。これに関しては労働組合に属する人たち、とりわけそれを管理する人たちの働きかけと労働組合のあり方に対する改革とに期待せざるを得ない。換言すればそうした改革を行うことによってのみ労働組合は自らの存在意義を社会に問いかけるべきである。私の結論としては、CSRの適用は企業に協調的な性格を有する労働組合が多い今日、そうした組合にもされるべきことではあるはずだが、労働組合の存在を再度社会へ知らしめるという目的のために労働組合は歴史的な性格から回心すべきであり、そのような意味で企業に迎合的な組合を奨励しないためにも企業が背負うべきCSRと労働組合が背負うべき責任とは必ずしも一致すべきではない、ということである。労働組合が追求すべき責任はCSRと対立軸的に捉えるならば労働組合の社会的責任「USR(Union Social Responsibility)」とか労働組合の労働者と世界に対する責任、「RULE(Responsibilities of Union for Labor and Earth)」などと定義づけられるべきではないだろうか。言うまでもないが、この時すでに労働組合の社会への訴えかけは始まっているのである。
6.おわりに
私は海外の労働組合がどのような活動を具体的に行っているかといったことをあまり知らないが、どうしても日本の労働組合は(企業別組合が中心ということもあるだろうが)、企業との協調性が強い印象を抱いてしまう。しかし産業別組合に移行していけばいいという考えは少々安易だろう。現在の状況は崩さずとも私たちは労働者の権利を確保することができるだろうし、同等に労働組合の存在も確保することができると思われる。それが「開かれた」存在としての労働組合である。ホワイトカラー層など特定の労働者層に範囲を絞って効力を発揮するような策を講じるというのは確かに難しいことではあるし労働組合がそれ以上に多様な問題を抱えていることは間違いないが、時代の流れが移っていく中でも労働組合の信念は決して変わるべきではないだろうし、古臭いと思われているようなことが実際的に最も大切な存在であることに気がつく時代が来ていると私は思う。
7.参考文献
・小井土彰宏編 『移民政策の国際比較』 明石書店 2003年
・伊藤るり・足立眞理子編 『国際移動と<連鎖するジェンダー>―再生産領域のグローバル化』 作品社 2008年 |