私の提言 連合論文募集

第2回入賞論文集
佳作賞

『新・共同体主義』を掲げて

―市場原理万能主義への言論闘争を!―

金田 義朗(元・全繊同盟・教育担当)

“人間の顔”と“人間のこころ”と

 日本経団連・奥田会長は就任の挨拶で「“人間の顔”をした資本主義をめざす-」との抱負を語った。これに対して「連合」・笹森会長は「“人間のこころ”を持った資本主義であってほしい-」とのメッセージを発信した。まさに的を射抜いた鋭い矢文(やぶみ)である。あのメッセージには働くもの幾千万の恨みや祈りが込められている。しかし、あちらは矢文一筋でびりびり動きも見せるような陣構えではない。

 何程かでもの矢疵の痛みが残ったならせめてもの救いである。

 「日本の資本主義よ!どうか“人間のこころ”を取り戻してほしい」と切実に願う。

 働かねば暮らせない労働者から仕事を取り上げて心痛めぬ風潮が更にはびこるならば、世の中は「強者の支配・収奪」と「弱者の屈従・隷属」とが広がるだろう。それはもはや荒ぶる野生の世界であって、“人間のこころ”が住める処ではない。空論ではない。数年来のリストラ旋風の中にさえ、私たちはその片鱗を見、幻影を見てきたものだ!

 ようやく豊かな今日を築いた私たちが、誤ってもそんな道を進むべきではない!

 願わくば経営サイドの人士が「非情な市場原理万能主義」の迷妄から解放され、我が国土着の優れた『共同体原理』を再評価し、ビルトイン(組み込み)して“人間のこころ”を持つ日本型経済社会の構築に向かわれることを強く強く期待する。

 と同時に、私たち自らもその進入路を切り開く役割を担おう。

 労働組合運動のなすべきことは山ほどあるが、なし得る力ははなはだ不如意だ。しかしその乏しい力をこの一点に集中し、この役割を果たしたいものだ。

「隠しエンジン」と「安全・安心システム」

 この場合の“人間のこころ”とは、例えば「人間に気を配る、周囲にも思いやる、互いに支え合う-」といったニュアンスで様々に表現するが、そういう精神を基礎に組み込んだ共同生活集団を『共同体』と呼ぶ。メンバーは意識するしないに関わらず、また内実が家父長的か民主的かにかかわらず、「共に生き、共に栄える」という目標を共有する。

 この『共同体体制』の広範な普及こそが日本発展の「力柱」あったと強調したい。

 理由の第一、この『共同体原理』が我が国経済の優秀な「隠しエンジン」であった-

 その第二、この『共同体体制』が私たち労働者階層の頼もしい「安全・安心システム」であった-ことである。

 (ここで云う『共同体』とは、かってマルクスが歴史分析で論じた共同体論や、テンニースが欧州モデルをゲゼル、ゲマイン・シャフトと呼んだ共同体論とは別ものであり、現代の日本人が伝統を引き継いだ生活体験の中で手作りした『共同体論』である)

他には無く、我には有るもの-『共同体指向性』

 アジアの地図を開いて見てほしい。同じ近代化後発地帯の国々のなかで、日本経済だけが突出したような発展をとげたのはなぜか?

 一人当たりGDPの数値を比べるだけでよい。先進国と云われる国々と肩を並べるのは日本だけである。奢って云うのでは決してない。富裕層だけでなく、庶民のレベルまで行き届いた経済的豊かさが、どんな理由で日本に実現したのか?を考えてほしいのだ。

 いくつもの要因があろう。そのなかで「他には無く、我には有るもの」を見てほしい。真っ先に気がつくのは、私たちの伝統的な『共同体指向性』の強さだろう。

 『共同体指向性』が強ければ、どう経済の強さに発展するのか?すなわち-

 日本人は「経済価値創出の基礎単位である個々の企業-つまり働く場所」に、伝統的な『共同体原理』を自然に組み込み、巧まずして旺盛な生産力が発生する仕組みを造ってしまう。これが隈なく広く繰り返され、集積され、巨大な経済国家となった」のだと思う。

『共同体』を担保する日本型雇用システム

 日本の企業で働いた者ならば、誰でも次のようなプロセスを実感するに違いない。

 企業の正規の構成員になった労働者は、そこを自然に我が『共同体』と意識する。

 『共同体』のメンバーは身内同士であり、契約の範囲だけ関わり合う他人ではない。

 身内同士だから組織と個人、個人と個人は互いに私的領域まで深くかかわり合う。

 『共同体』のウチとヨソは峻別され、価値観や感情を共有し、固有の秩序やルールを受け入れ、義理人情が大切な“一家意識”を持つに至るのである。

 この『企業共同体』を実質的に形成したのが、我が国特有の雇用慣行や労働条件だ。

 暗黙の約束である「終身雇用」と呼ばれる長期安定雇用(「出向」という広義の雇用保障も含めて)。生活保障の意味が大きい「年功賃金」「季節賃金ボーナス」「老後支援の退職金」「家族手当」などの生計対応型給与。「レク施設から持ち家支援にまで及ぶ多様な企業内厚生施設や福祉制度」と、まさに「人生まる抱え的雇用システム」であった。

 また『共同体』内の分配は平等指向が強く、待遇や報酬においてアメリカのような極端であからさまな格差を避けたことも一体感を醸成した。

 こう云った仕組みの総合が心理面でも実際面でも「身内仲間にくるまれた安全・安心」の装置となった。労働者は身体一つを元手に家族の扶養義務を背負って生きるのである。「現在の安全・将来の安心」を保障してもらえるほど有り難いものはないのだ。

 これを指して「個の喪失」「企業隷属」、なかには「社畜(家畜)」との酷評さえあったが、昨今流行の市場原理万能型と比べ、はるかに“人間のこころ”に踏み込んでいる。

内発的エネルギーの能動的勤勉さ

 働く者の側でも『共同体』型の就労慣行やモラルを創った。

 自らを企業の価値観に同化し、「会社は自分、自分は会社」と一体意識を持ち滅私奉公的に働くのが良しとされた(この点には無条件に肯定はできない)。また『共同体』内で「良き働き手」と認められるのは最高の自己実現である。そんな集団基準に持ち上げられて勤勉性を内発するのである。日本企業で働いていた或る中国人が「日本の労働者は監視の目がなくても真面目に働く-」と驚いて語ったが、それは『共同体』への帰属意識が生む内発的エネルギーの強さを示している。こんなふうに「“こころ”の内側から湧いてくる勤勉さ」は、事務的な契約に義務づけられたものと違って、従順なだけでなく、モチベーションが与えられれば能動的積極的なエネルギーにさえ転化するのである。

 例えば昭和40年代、全国を風靡した職場改善・品質向上の「QCサークル」など少集団活動では、末端現場のパートの主婦労働者までが意欲的に取り組んでいる姿を見たが、それは海外で「KAIZEN」の世界語を生んだほどにユニークだったのである。

 この勤勉さは時として暗いマイナス面を伴い(例えば違法を承知の労務管理が行われるとか)、全面的に肯定できないが、こと生産にのみ関して見れば、この高いモチベーションがあって、我が国の「生産性向上運動」が先駆けて開花したのだと思う。

歴史的路線転換-「生産性向上運動」参加

 労働組合も『共同体原理』を基礎にして、諸外国と比べ実に個性的である。

 企業の内と外の区分は厳しく、どんなに規模が小さくても、労働組合はまず企業単位に創られる。「会社の内はウチ、外はヨソ。団結はまずウチで-」の企業別意識は、戦前の草分け時代から今日まで一貫して強固だ。時にはこれがヨコ連帯を妨げ、上部団体の悩みのタネになる。知らない人は「企業別をやめて産業別の単一組合に改変したら-」と簡単に云うが、もともと伝統的文化が根源にあっての姿だから出来ない相談だ。その代わりに企業別の弱点をカバーする産業別連合組織が精妙な役割を担って発達したのである。

 企業別組合がベースにあっての功罪も様々だが、昭和40年代を中心に、日本の労働組合が生産性向上運動へ参加していった路線転換は注目される歴史的出来事である。

 戦前から戦後の立ち上がりの頃、労働組合と経営陣は反目し合う敵対的関係にあり、苛烈な労働争議も頻発した。ところが昭和30年代、「生産性向上運動」と云う労使提携が前提の新運動が登場した。労使は敵同士ではなく、パートナーに-という前提である。

 労働組合は紆余曲折の結果、「生産性向上で創出価値を増やし、労働者・企業・消費者で三分配して社会全体が豊かに-」という理念が選ばれた。「元のパイを大きくして大きな分配を!」という「パイ理論」でも正当性が強調された。「労使は全面対決!」でなく「生産では協力、分配では対立」という『二面性労使関係』が新しい考え方だとしてアッピールされた。こうして我が「生産性向上運動」はスタートしたのである。

労使の「共同体的誓約」を忘れるな!

 ここで、とくに次の事情を留意しておいてほしい。

 まず、この「生産性向上運動」は労働組合と経営者の「共同体的誓約」とも云える約束の成立によってスタートできたことである。すなわち、「労働組合は生産性向上運動に協力する。経営側は労働者の雇用確保と労働条件向上に努める」とした誓約である。

 「生産性向上運動」の実際面では、当然に新技術や新システムの導入があり、それに対応して現場では仕事の変更や職場の転換、新技術への前向きな取り組みが必要になるが、実はそれらは、従来の労使関係下では反目・対立のタネになり勝ちな問題だった。もし労働組合がそれまでの思想的立場や敵対感情に固執して「新技術やシステムの導入は労働者の権利を侵害するものだ-」と抵抗路線を変えず、「既得権守れ!」「労働強化反対!」と叫び続ければ「生産性向上運動」など全く進まなかっただろう。

 しかし当時の労働組合運動の本流は労使で交わした誓約によって、それまでの相互不信と対立の姿勢を転換し、共生・共栄の『共同体』路線へ踏み切ったのである。

 今は見る影もない労使関係だが、この誓約はいつか再現を期されるべき約束だと思う。

外国の目がみつけた日本経済“三種の神器”

 かくて日本経済はフル回転し、世界の奇跡といわれる経済発展をとげた。戦後の50年に年平均5%強の実質経済成長を果たしたレコードは世界で未だ破られていない。

 その日本の経済成長の実態を調査するため、OECD(経済協力開発機構)が1973年に調査チームを日本に派遣した。その報告書で「彼らの経済成長の秘密は『終身雇用』『年功序列賃金』『企業別労働組合』である」と発表し「三種の神器」と話題になった。

 国際的な第三者の目にさえも、『共同体体制』下で労働者への「安全・安心装置」と職場の「隠しエンジン」が相互にリンクして生み出した経済パワーであると理解したのだ。

 もとより『共同体体制』も欠点が多い。企業の塀の中では労働者の勤勉さにつけこんだ不法行為(不払い残業などはその最たるものだ)や理不尽な人権侵害の事実も頻発している。その閉鎖性を悪用した企業犯罪も跡を絶たない。一部だが労働組合さえモラル喪失の醜態を見せている。『共同体』ゆえの甘さが原因であろう。

 しかし、それらのマイナスを相殺しても『共同体体制』の功績は文句無しに大きい。

 考えてほしい!国中が焼け野原で皆が飢え、劣等国とされた敗戦から、僅か十数年で一億人が「衣食住」に不自由ない生活を得、二十数年でトップレベルの工業国家を再建したことが世界の相場に照らしていかに大さな成功だったか-である!しかし一つ問題が残った。肝心の日本人が『共同体』の大切さを理解せず、無知に近かったことである。

『イエ共同体』と『ムラ共同体』

 以下は私の仮説である。

 このユニークな『共同体原理』は我が国の長い「水稲農耕労働」が生んだに違いない。

 日本人は「米作り農耕」で二千年余も生きてきたが、その労働生活は世界の農耕史のなかでも目立って個性的であり、それが現代の日本人に大きな影響を残していると思う。

 もともと熱帯性植物である水稲を温帯地方の日本で栽培する農耕は、雨風気温の影響を敏感に受けるので高度な栽培技術や濃密度な集約労働が必要なのだ。しかも年一度の収穫で一年食わねばならず(台湾以南は年2~3回収穫)、常に不作凶作を心配しつつ目まぐるしく移る季節に追われる農民の生活は現代人の想像を超える厳しさである。これが日本人を鍛えた。勤勉な集約労働、精密な知識、技術の工夫、几帳面な計画性、密集型村落の人付き合い、倹約・貯蓄性向の高さなど、二千年かけて鍛え上げられたのである。

 そしてその中で、日本人が生きるために欠かせない二つの『共同体』を育てた。

 一つは「家長」の権能を頂点に身内・家族が強い結束力で「生産と労働と生活」の主体となるタテ型の『イエ共同体』である。

 二つは「長老(おさ)」の権威を中心に『イエ』同士の利害調整や協同課題に取り組む協調的なヨコ型の『ムラ共同体』である。この「権威の長老(おさ)の『ムラ共同体』」と「権能の家長の『イエ共同体』」の組み合わせで農耕社会の機能は完結されるのである。

 この二つの『共同体』が様々な智慧を蓄積し、私たちのDNAに組み込まれ、今日の工業社会に引き継がれている。すなわち、企業や労働組合は『イエ共同体』の組織原理で成り立ち、業界団体や組合の産別・中央組織は『ムラ共同体』のそれを引き継いだと見られる。それが偶然に近代工業時代に絶妙に合致し、経済パワーに発展したのだと思う。

 韓国と日本を比べると、労働組合や労働条件、労使関係の仕組みなど日本とよく似ているが、この韓国にだけ日本と同じ水稲農耕の歴史があり、また日本と共にアジアで最も早く経済成長を果たした国であることが、この仮説を証明しているのではないだろうか。

 ともあれ私たちは何ら自覚せず、その伝統を受け継ぎ恩恵を享受した。それは「歴史の偶然・民族の幸運」だった。だが、今度はその幸運を剥ぎとられる番になっている。

封印を破って出た「荒ぶる野性」

 経済には「荒ぶる野性」がひそんでいる。

 私たちの祖先は、それが利を追って狂うときの獰猛さを知って恐れ、深く閉じ込めて封印し世に出さなかった。経済は「経世済民-世のため人のために尽くす-」という道義の大枠の内に置かれた。貪欲に私利を追う者は「道義に背く」との指弾を受けた。

 歴史の浅いアメリカ経済にはそんな奥行きのある文化は育っていない。あるのは自由でオープンな競争こそが公正で、勝者は残り、敗者は消える-という猛々しさだけだ。それらしい理屈は言い募るが、その本質は「荒ぶる野性」そのものである。

 「野性」は地の果てまで獲物を追う。彼らはグローバリズムの波をつくり、市場原理万能主義をもって日本に上陸した。その吼え声に応えて日本経済の「野性」も封印を破って野づらに出た。「野性」は獲物の群れの弱い所を狙って襲う。今日まで『共同体体制』に甘え、その体制を守る術も、身を護る術も忘れた労働者階層がまず犠牲になった。

 ここ数年来のリストラの横行はこんな風に映らないだろうか?

 平成11年、小渕内閣は「経済戦略会議」の「日本経済再生への答申」を国家の政策と決定した。アメリカ型市場原理万能主義に傾倒した人たちの作文は美辞麗句の羅列だが、その実像は何であったか?その後の行跡が如実に物語っている。

 なかに「雇用の流動化を促進し-」という聞き慣れない言葉があった。実はあれこそ「リストラ人減らし天下御免!」の許可証だったのだ。

 まず扶養義務を背負った働き盛りの年代が狙い撃ちにされ、失業者はまたたくまに増えて3百万人を超えた。その年の暮れ、雇用保険の生活手当を貰えたのは百万人で、あとの2百万人は雇用保険の給付も切れ、職にもありつけない悲惨な元旦を迎えた。以来このパターンは毎年続いて6年になる。そして年3万人を超える自殺者が出はじめた。豊穣の国日本にあってはならぬ悲劇だが、例のリストラ御免!の政策に関わった彼らからは犠牲を悼む一片のメッセージも出ない。自殺したのが「3万頭のアザラシ」なら哀れんだのだろう。それが元サラリーマンだから「荒ぶる野性」の目には“屠った獲物”に見えるのかも知れない。経済の狩場を彷徨する「野性」の獰猛さに慄然とする。

 定期昇給廃止、終身雇用の空洞化、労基法や派遣法の改悪、退職金の401K、会社分割法、裁量労働制、成果主義賃金、不払い残業、非正規従業員の増大-と次から次へと持ち出してくる労務戦略は、すべてコストをぎりぎりまで切り下げ、労働力は極限まで引き出すためのものである。伝統的な『共同体体制』はズタリズタリと削り落され、働く者の「安全・安心システム」は限りなく縮小していく。タイムラグをおいて、これとセットの「隠しエンジン」もパワーダウンしていくだろう。これは衰亡の道程ではないか?

 私たちは立ち止まって考えよう!

 この「荒ぶる野性」の跋扈は一過性なのか?やがて彼らも元の正気に戻り、この体験を活かして新しい「共生・共栄の日本型経済社会」に回帰するのか?

 それとも軋みと衝突で社会を傷まみれにしながら市場原理万能主義を強引に押し進め、新しい階層分裂社会に入り込み、抗争とカオスの時代を進んで行こうとするのか?

『新・共同体主義で世直しを!』の言論闘争を!

 さて本提言の結論は「新・共同体主義で世直しを」の宣言と言論闘争の展開である。

 「新・-----」としたのには二つの意味がある。

 一つは「正しく認識された『共同体主義』」-という意味である。

 私たちは民族の叡知『共同体原理』に護られながら何も知らず、有り難いとも思わず、大切に守ろうともしなかった。だから市場原理万能主義者らが、それを引き剥がしに掛かって来ても指一本の抵抗もせず、貴重な資産の半分はもう奪われてしまった。

 私たちはこの体験を機に『共同体原理』の正しい認識を持とう。そして「安心と豊かさシステム」「隠しエンジン」を取り戻し、守り抜く意志を持とう-という意味である。

 二つは「新しい時代課題を担う共同体主義」-という意味である。

 第一の課題は、アメリカ型市場原理万能主義に日本からの退出を求めることだ。

 「社会は、共に生き共に栄えようとする共同体主義がいちばん良いのだ-」という伝統的思想を持つ日本には、市場原理万能、競争万能の浅薄な思想は不要である。必要ならば『共同体原理』に時代的修正を加えればよい。

 企業にせよ国家にせよ、内に旺盛な創出力と強い団結力を持つことが第一で、その力で外のグローバルな世界の流れに伍していくのがベストなのである。

 第二の課題は、経営サイドの人士-企業経営者、経営団体の指導者、その列の有識者やジャーナリストの諸氏に、社会全体の「指導階層」としての自覚を迫ることである。

 いま企業は史上最高の利益を出しているというが、その代償に、3分の1に及ぶ非正規労働者に雇用不安と生活不安-結婚や家庭を持つ夢さえ奪われた新貧窮民を生み出した。これを進歩した社会といえるだろうか?「経済」は、この社会の基礎部分の大きな場所を占めている。その経済を先導する経営サイドの人士はその影響力からも「経済」分野だけでなく、社会全体の「指導階層」である自覚に立つことを迫らねばならない。

 第三の課題は「ワークシェアリング実現」を不退転の運動目標に据えることである。

 開発国の工業化が急速に進み、近代工業生産人口は20年で12億人から25億人に増えたという。生産能力の世界的過剰傾向は既定の事実である。就業機会の減少は避けられない。少ない仕事を分かち合うワークシェアリングは「共生・共栄の『共同体』精神」そのものだ。実現至難の課題であればこそ、労働組合運動のシンボル的課題としても不退転の目標とし据え、啓蒙を図っていかねばならない。 

 第四の課題は、非正規労働者の「草の根型労働組合」支援の連帯運動である。

 低コスト人件費のうま味を体験した業界は非正規労働者雇用の戦略を容易に手放さないだろう。それならば労働陣営は全力挙げて「非正規雇用市場のど真ん中に闘う労働運動の旗」を押し立てて闘わねばならない。地域に拠点を創り、個人加盟で進めざるを得ないこの運動は、まさに「草の根型‥」そのもの。社会を圧倒するような人的・財政的支援態勢を既存の労働組合・産別・「連合」の連帯義務として確立せねばならない。

大山鳴動が地殻変動を引き起こす!

 今、労働組合が成すべきは山はどある。しかし力乏しく、成し得ることは多くはない。

 ここで提言する「新・共同体主義を掲げて世直しを!」の宣言発信と言論闘争は、私たちが成しうる、しかも成果を挙げ得る、その唯一とも云える運動課題である!

 まず不完全ながらここに記述した試案を糸口に衆知を重ねて「宣言」をつくり上げ、これを労働組合のあらゆるメディアに載せて発信し、広く討論を呼びかけよう。

 大切なのは、運動の先頭は「連合」中央トップが火の玉のように燃えて立ち、経営サイドに向けて論議を仕掛けることだ。『ムラ共同体』の「長老(おさ)」の勤めである。

 つぎに「宣言」は組合現場の組合員や職場のリーダーが「オレたちの味方だ!」「本気でやる気だ!」と共鳴させ、共感を引き出す大衆運動的アプローチであることだ。

 もし反論異論が返ってくればチャンスである。真剣白刃の論議論争を展開すればよい。ストライキができなくても口喧嘩ならできる。日本の津々浦々まで轟き渡るような、万人が耳をそば立てるような大喧嘩にすることだ。大山鳴動ねずみ一匹出なくてもよい。大山鳴動することに意味がある。必ず地殻変動が起こり、土石流が動きだす。


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